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静謐な社交界の夜会が開幕した。柔らかな燭台の明かりが、薄紅色のドレスを身にまとった多くの貴族令嬢たちの顔を照らす中、ひときわ目立たぬ淡い水色の装いが一人——それがセリナである。
「次の案内をお願いいたします」
軽やかな足取りで廊下を進む侍女の背に、小声でそう告げる。自身はジェスチャーひとつ、言葉ひとつにも慎重になり、誰の視線も最小限に集めぬよう心がける。感情を言葉に乗せるのは苦手でも、礼儀や動作の正確さには人一倍気を配るのだ。
その夜の主賓は隣国の公爵。華やかな舞踏が始まり、音楽隊の弦楽が宮殿の高い天井に柔らかく反響する。男女のペアが軽やかにステップを踏むたび、周囲からは賞賛の声と同時にさざめきが起こった。
「おや、あのブルーのドレスは……」
「ええ、王太子の婚約者、伯爵家の令嬢ですよ」
ささやきが耳を掠める。見渡せば、レオニス王太子は今夜も傍らにリーナ・エヴェレットを連れており、その堂々たる笑顔はまるで王国の未来を保証するかのように輝いていた。
どうして、あの人の隣はいつもあの笑顔の令嬢なのだろう。
胸の奥に苦い思いが巻き起こる。昨夜、密かに図書室で王太子が口にした言葉を思い出す。
「リーナは──光そのものだ。あの笑顔を見るだけで、心が晴れていくんだ」
そのときも、静かに本を閉じたセリナの背後では、確かに喜びが灯っていたのだろう。しかしその輝きは自分には向けられていなかった。
「婚約者としての務めを全うしなくては」
深く息を吸い込み、強く心を定める。会場中央に設えられた大きな花飾りの前で立ち止まり、手袋をはめ直してから、華やかな薔薇の一輪をそっと触れる。手のひらに伝わる花の柔らかさは、言葉にならぬ想いをそっと慰めてくれるようだった。
次の瞬間、背後から軽やかな声が聞こえた。
「セリナ様、お久しぶりです」
振り返ると、そこにはリーナがいた。深紅のドレスと対照的に、甘い笑顔を浮かべながら近づいてくる。周囲の視線は二人に集中し、まるで二人は舞台の主役であるかのようだった。
「ご無沙汰しております。今夜はお招きいただき、ありがとうございます」
言葉は平静を装っているが、頬の内側には微かな熱があった。リーナの瞳がうれしそうに輝き、軽く頭を下げる仕草は、まるで本心をあらわに歓迎されているように思えた。
「お綺麗ですね、セリナ様」
「いえ、リーナ様のほうが、はるかに華やかで――」
応答する合間に、王太子の視線が二人のそばへ向けられているのを感じた。踏み出すたびに心臓の鼓動は早まるが、言葉は滞りなく紡がれる。
「今夜の舞踏会は、公爵家と王家の友好を深める大切なものですから」
「そうですね。レオニス殿下もお忙しい中、お招きいただき光栄です」
リーナの返しは軽やかで、胸元の宝石が灯火を受けてきらめいた。隣国の公爵がその場へ声をかけに現れ、リーナは軽やかに会話へ移る。一方でセリナには声がかからず、ただ傍らで微笑みを浮かべるだけの役回りに過ぎない。
私は、ただの影に過ぎないのだろうか。
そう自問しながらも、セリナは冷静さを失わない。目立たずとも、確かな存在感を示すにはどうすればいいか。控えめな声で、次の会話に花を添えるべく言葉を探す。
「公爵様、そのご所望の書類は、すでに貴殿の執務室へお届けしております」
以前、文書整理の任をしていた経験がここで生きている。公爵は驚いた表情を見せ、言葉を詰まらせた。
「──それは助かる。確かに、本日中に確認すべき案件だった」
伏し目がちな言葉遣いながらも、的確に要件を伝えるその冷静さは、社交界では珍しい才覚だ。僅かな沈黙の後、公爵は深く頷いて礼を述べる。傍らでそれを見ていたリーナが、改めてセリナに微笑みかける。
「さすが、セリナ様。いつもきめ細やかなお気遣いをありがとうございます」
冷たいと噂されていた令嬢に、初めてかもしれない称賛の言葉が向けられた瞬間だった。胸を締めつけられるほど嬉しかったが、同時に複雑な心境が渦巻く。
馬車が戻る時間が迫っている。夜会も終盤に差し掛かり、レオニス王太子はリーナを伴い、人々の輪を次々と移動していった。その後ろ姿を見送りながら、セリナは胸の内で静かに誓う。
――言葉が足りなくても、私には私のやり方がある。誰よりも相手を思い、行動で示すことができるはずだ。
心に決めたそのとき、燭台の炎がひと際強く揺れ、白い影のように彼女を浮かび上がらせた。言葉にはならぬ静かな決意を胸に、セリナは夜の闇へと歩みを進める。
「次の案内をお願いいたします」
軽やかな足取りで廊下を進む侍女の背に、小声でそう告げる。自身はジェスチャーひとつ、言葉ひとつにも慎重になり、誰の視線も最小限に集めぬよう心がける。感情を言葉に乗せるのは苦手でも、礼儀や動作の正確さには人一倍気を配るのだ。
その夜の主賓は隣国の公爵。華やかな舞踏が始まり、音楽隊の弦楽が宮殿の高い天井に柔らかく反響する。男女のペアが軽やかにステップを踏むたび、周囲からは賞賛の声と同時にさざめきが起こった。
「おや、あのブルーのドレスは……」
「ええ、王太子の婚約者、伯爵家の令嬢ですよ」
ささやきが耳を掠める。見渡せば、レオニス王太子は今夜も傍らにリーナ・エヴェレットを連れており、その堂々たる笑顔はまるで王国の未来を保証するかのように輝いていた。
どうして、あの人の隣はいつもあの笑顔の令嬢なのだろう。
胸の奥に苦い思いが巻き起こる。昨夜、密かに図書室で王太子が口にした言葉を思い出す。
「リーナは──光そのものだ。あの笑顔を見るだけで、心が晴れていくんだ」
そのときも、静かに本を閉じたセリナの背後では、確かに喜びが灯っていたのだろう。しかしその輝きは自分には向けられていなかった。
「婚約者としての務めを全うしなくては」
深く息を吸い込み、強く心を定める。会場中央に設えられた大きな花飾りの前で立ち止まり、手袋をはめ直してから、華やかな薔薇の一輪をそっと触れる。手のひらに伝わる花の柔らかさは、言葉にならぬ想いをそっと慰めてくれるようだった。
次の瞬間、背後から軽やかな声が聞こえた。
「セリナ様、お久しぶりです」
振り返ると、そこにはリーナがいた。深紅のドレスと対照的に、甘い笑顔を浮かべながら近づいてくる。周囲の視線は二人に集中し、まるで二人は舞台の主役であるかのようだった。
「ご無沙汰しております。今夜はお招きいただき、ありがとうございます」
言葉は平静を装っているが、頬の内側には微かな熱があった。リーナの瞳がうれしそうに輝き、軽く頭を下げる仕草は、まるで本心をあらわに歓迎されているように思えた。
「お綺麗ですね、セリナ様」
「いえ、リーナ様のほうが、はるかに華やかで――」
応答する合間に、王太子の視線が二人のそばへ向けられているのを感じた。踏み出すたびに心臓の鼓動は早まるが、言葉は滞りなく紡がれる。
「今夜の舞踏会は、公爵家と王家の友好を深める大切なものですから」
「そうですね。レオニス殿下もお忙しい中、お招きいただき光栄です」
リーナの返しは軽やかで、胸元の宝石が灯火を受けてきらめいた。隣国の公爵がその場へ声をかけに現れ、リーナは軽やかに会話へ移る。一方でセリナには声がかからず、ただ傍らで微笑みを浮かべるだけの役回りに過ぎない。
私は、ただの影に過ぎないのだろうか。
そう自問しながらも、セリナは冷静さを失わない。目立たずとも、確かな存在感を示すにはどうすればいいか。控えめな声で、次の会話に花を添えるべく言葉を探す。
「公爵様、そのご所望の書類は、すでに貴殿の執務室へお届けしております」
以前、文書整理の任をしていた経験がここで生きている。公爵は驚いた表情を見せ、言葉を詰まらせた。
「──それは助かる。確かに、本日中に確認すべき案件だった」
伏し目がちな言葉遣いながらも、的確に要件を伝えるその冷静さは、社交界では珍しい才覚だ。僅かな沈黙の後、公爵は深く頷いて礼を述べる。傍らでそれを見ていたリーナが、改めてセリナに微笑みかける。
「さすが、セリナ様。いつもきめ細やかなお気遣いをありがとうございます」
冷たいと噂されていた令嬢に、初めてかもしれない称賛の言葉が向けられた瞬間だった。胸を締めつけられるほど嬉しかったが、同時に複雑な心境が渦巻く。
馬車が戻る時間が迫っている。夜会も終盤に差し掛かり、レオニス王太子はリーナを伴い、人々の輪を次々と移動していった。その後ろ姿を見送りながら、セリナは胸の内で静かに誓う。
――言葉が足りなくても、私には私のやり方がある。誰よりも相手を思い、行動で示すことができるはずだ。
心に決めたそのとき、燭台の炎がひと際強く揺れ、白い影のように彼女を浮かび上がらせた。言葉にはならぬ静かな決意を胸に、セリナは夜の闇へと歩みを進める。
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