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13-01 未完成な恋物語(下)

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 ナシラの帰りが遅くなった日からしばらく経っても、しいらの不安定な心が元に戻ることはなかった。
 ある意味で、あの一件が彼女に致命傷を与えてしまったのかもしれなかった。戻ってこないナシラの姿は間違いなく、あの日の母と同じだったからだ。

 そんな彼女を、ナシラは日々気遣うようになっていた。まるで彼女の心を必死に繋ぎ止めようとするかのように。


「しーら、おはよう」
「ん、おはよ」


 いつもは彼女にべったり甘えるかのように、着替えも髪の手入れも任せていた。けれどそれがしいらの負担になると思ったのか、いつしか彼は全て自分でするようになった。


「自分でできるようになったの。えらいじゃん」


 ぎこちない笑みを浮かべるしいらに、またナシラは悲しげに目を伏せる。それでもめげずに、彼は彼女を抱きしめようと腕を伸ばした。
 その腕も空を切る。まるで逃げるかのように、しいらは部屋の扉へと歩いていく。


「行こう、ご飯の時間だ」
「……うん」


 以前と比べて、明らかにしいらはナシラを避けていた。これ以上彼と深い絆を結ばないようにと、それはせめてもの抵抗だった。

 ナシラを傷付けていることについても、内心で言い訳をし続けていた。
 ナシラだって、ガトリンのことを忘れたいから、自分に構っているんだと。優しくしてくれるのなら、別に自分じゃなくても良かったのだと。

 そう考えるようになってしまったのは、ナシラの本当の名前の一件が理由だった。だが、それに追い打ちをかけるように、とある使用人の言葉がしいらに突き刺さった。


「ナシラ様、すっかり元気になって。長く支えてくれたメレフ様がお辞めになってから、ずっと引き摺っていたみたいですから」


 きっと使用人の意図としては、しいらのおかげでナシラは元気になったっんだと伝えることで、彼女を元気づけたかったのだろう。けれどしいらは、そうとは受け取れなかった。
 自分は所詮、ガトリンの代わりでしかないのだ。ナシラがガトリンとの関係も、自分の本当の名前のことも頑なに話そうとしてくれないのは、それが理由なのだと。


「しーら、行ってくる」
「うん……」


 目を合わせようとしない彼女に、ナシラは手を伸ばす。今度は優しく彼女を抱きしめて、いつものようにその髪を撫でた。


「早く、帰ってくるから」
「…………」


 既にあの言葉を口にできなくなった彼女は、無言のまま彼を見送った。


「しいら殿」


 竜の姿に変じたナシラが飛び去っていくのを眺めていると、いつの間にかルーヴェが側に立っている。そして彼もまたひどく心配した様子でしいらを見つめていた。


「私に何か、できることはありませんか」
「そんなの特にないよ。困ってなんてナイナイ」
「ですが……今のままでは貴女は、潰れてしまう」


 真っ直ぐなその視線を受け止めることができずに、彼女は薄ら笑いを浮かべながら地面を見つめていた。


「何でも構いません。貴女のためになるのなら」
「じゃあ、楽に殺してくれます?」


 予想はしていたものの、到底受け入れることのできないその頼みに、ルーヴェは苦々しげに俯いた。


「それだけは……貴女はもう、ナシラにとって生きる意味に等しい存在なのです。貴女がいなくなれば、ナシラはきっと……」
「そんなの、無理にでもガトリンさんに戻ってきて貰えばいいじゃん。あんだけ散々私に聖女の役目がどうのこうのって口出しできるんだから、できるでしょ」
「しいら殿……」
「ルーヴェさんの言ってたこと、正しいと思います。自殺した女に聖女なんてできない。私はナシラの生きる理由になんてなれない。だって、私が生きていたいって思えないから」


 その言葉にルーヴェは言葉を詰まらせてしまう。
 しいらが今聖女の役目を負っているのは、司祭たちが彼女をこの世界に呼び寄せたからだ。脅しのような形で要求を飲ませ、無理矢理その席に追い込んだからだ。
 本来ならばようやく苦痛に満ちた生から逃れられたはずなのに、彼女はまたここで同じ苦しみを味わっている。そう思えば彼は、何も言えなかった。


「まぁ、あのたぬきジジイのことなら、たとえ私が擦り切れようとも聖女やらせると思うけど。ここに居る限り私は逃げられないし……でも、早めに代役探した方がいいと思いますよ」


 そうとだけ言い残して、しいらは踵を返す。
 もはや誰と何を話そうと、苦痛でしかなかった。彼らの期待も厚意も、全て踏み躙っているのが分かっているからだ。

 彼女だって、真っ当に前を向いて生きたかった。皆の期待を受け止め、立派な聖女ですと胸を張って言ってみたかった。
 けれどそんなものは到底無理だった。悲観一色に染まった思考は、既に自分が何をしようとも全て無意味なんだと告げる。


「はやく、楽になりたい……」


 どうして自分はこんなに生きるのが下手なんだろう。なんて、答えの出ない問いを吐き出しては、重々しくため息をついた。


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