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08-13 気高き忠誠

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 荘厳な空気の中、玉座の隣に立ったデルメルが激励文を読み上げる。その場には王国の運営を任された臣下たちと、軍部の代表者数十名がいた。その中でセーリスは、まるで人目を憚るかのように、その広大な空間の片隅に、人の影に隠れて立っていた。

 玉座と対面する位置にいる軍部、その最前列に居るのはカアスとヘニルだ。実質、国の代理となって戦う神族は階級に関わらずこの立ち位置なのだ。
 背後の兵たちは皆膝を折っているが、最前列の二人だけは立ち尽くすままだ。カアスに至っては腕を組んで仁王立ちしている。だがこれも王国では馴染みの光景だ。

 デルメルの言葉が終わり、女王であるセーリスの姉、レクサンナが玉座より立ち上がる。


「王国に仇なす全てを打ち砕き、我らの父祖より賜うた地を守り、皆が帰還することを願います」


 絹のような美しい黒髪をなびかせ、レクサンナは前へと歩み寄る。その様を見たセーリスは突然おぞましいほどの不安に襲われる。

 ヘニルは、姉の姿を見たことがあっただろうか。

 王国一の才女で、他に比べる者など居ないほどの美しさを持つ”黒真珠”。いつだって自分の存在を掻き消してしまう姉の姿を彼が見て、どう思うだろうかと。


 ――第二王女様はレクサンナ様とあまり似ておられないのですね
 ――いやはや、姉姫様の美しさは日毎に増すばかり! ああ、セーリス様も、ご機嫌麗しゅう


 不意に自分を姫様と呼んで笑うヘニルの姿が浮かんで、一気に腹の底が冷えていく。もしも彼も姉に目移ってしまったら、自分の騎士ではなく姉の騎士などと言い出したら。そんなことを考えて、酷く足が震えてしまう。


「必ずや勝利をルシアル王国に」


 目の前まで来たレクサンナに、カアスはようやく膝を折るとその手の甲に口付けを落とす。そしてレクサンナは、恐らく新しく加わったばかりの神族であるヘニルに何か言葉をと思ったのだろう。彼の方へと視線を向けた。


「新しき王国の勇敢なる戦士、貴方の働きに期待しています」


 そう言ってレクサンナは、その手をヘニルへと差し出した。


「(……、嫌だ)」


 ヘニルが姉に跪き忠誠を口にする姿など見たくなくて、セーリスは咄嗟に背を向けた。


 ――私の騎士にならずとも、王国に忠誠を誓ってくれればいいのよ


 そんなことを確かに言った。姉に忠誠を誓うのは、国に忠誠を誓うのと同じだ。だから、何の問題も無いはずなのだ。
 けれど確かにセーリスは、そうなることを拒絶していた。


「(ああ、私本当は……)」


 第二王女でもなく、王国の姫でもなく、ただセーリスという個人を見てくれた彼に、確かに救われていたのだ。自分への中傷には人目を憚らず怒りを露わにして、自分が不安そうにしているときはふざけたフリをしながら元気付けてくれて、きっと気付かず彼を傷付けていたこともあったはずなのに、いつだって文句の一つも言わずに従ってくれた。

 こんな時になって思い知らされるなどとは思わなかった。もっと早く気付いていたら、もっと彼の忠誠に答えられていたかもしれないのに、と。そんな、遅い後悔をした。



「――……すいません女王様、俺は別に王国のために戦いに行くわけじゃないんでその手は取れません」


 不躾とも言える敬語に、思わずセーリスは振り返った。

 そこには一ミリも動いていないヘニルと、彼の言葉に驚いたような顔をしている姉の姿があった。


「いつだって俺が忠誠を誓うお方はただ一人。そこに国は関係ない。戦果は上げてきますけど、俺に激励の言葉は不要です。ま! 俺のことは傭兵とでも思ってください」


 へらっといつもの軽い笑みを浮かべ、彼はレクサンナに向かって手を振る。一瞬誰しもが今起こったことに反応できず絶句する。しかしセーリスがまずいと思った時と同時に、臣下の誰かが声を上げた。


「女王陛下に向かってなんたる無礼か!」
「宮宰、このような者を登用するとは何を考えておられる……!」


 一瞬にしてその場は騒めき立つ。王国には長らく礼儀を弁えたデルメルとカアスしか神族が居なかったために、この前例のない出来事に皆動揺しているのだ。
 だがその騒めきを、カアスの大きな笑い声が止めた。


「ははは!! 確かにな、我ら神族……カムラのスサノオとは違う、国には仕えん。許せレクサンナ姫、私も国ではなく姉様に追従する身でね」


 その視線を玉座の側に居るデルメルへと向け、片手を差し伸べてカアスは膝を折った。


「神の名を捨て私は貴方の、我が身を打ちのめし屈服させし御身の僕となった。貴方が王国に忠誠を誓えと言うのならば、無論誓いましょう」


 それにデルメルは小さくため息をつくとカアスの方へと歩み寄る。


「ええ、貴方は王国に忠誠を誓うのよ。神族デメテルは既に死に、デルメルはここに王国への永遠の忠誠を約束するわ」


 カアスの手をぺしっと叩き落とすと、デルメルはレクサンナの前に跪く。そして彼女の手の甲にキスを落とした。
 それで事態は収まった、かと思いきや、立ち上がったデルメルはセーリスの方を向く。


「セーリス、こちらまでいらっしゃい」


 一斉に視線がセーリスへと向けられ、彼女は息を呑む。今視界に映る全ての人の視線が自分に集まっているのだと理解してしまい、足が震えてしまう。


「臣下たちはヘニルが王国のために働いてくれるかを心配しているみたい。それを証明できるのは貴方だけよ」


 優しい声がそう言うも、緊張に支配された身体は鉛のように動かない。
 セーリスは人の視線が怖いのだ。自分と姉を比較する、無慈悲なその一矢が。それが今、これまでにないほどに自分に向いている。自分の無様な姿を捉えようとしている。

 セーリスが震えて動けないでいるのを見て走り寄ろうとするヘニルの肩をカアスが掴む。それとほぼ同タイミングでデルメルは立ち尽くすレクサンナの方を見た。


「……セーリス、前へ」


 レクサンナの呼び声にセーリスは肩を震わせる。長らく会話すらしなかった姉と初めて目が合って、彼女はゆっくりと頷いて見せた。その仕草はまるで、怯える自分の手を優しく引いてくれるような、そんな様を想起させた。

 不思議と身体は動いて、セーリスは何度も躓きそうになりながら臣下たちの前へと出た。
 すぐにヘニルが側に来て、彼女の手を取る。いつも自分の手を握るその大きな手が、その時は妙に温かく頼もしく思えた。

 膝を折り、ヘニルはセーリスを見つめる。


「必ずや、この戦いの勝利をセーリス様に」


 あの時と同じ、約束を交わした時と同じように、ヘニルは彼女の手に口付けを落とした。その姿に涙が溢れそうになって、セーリスは必死にそれを堪えた。
 ヘニルは優しく微笑みながら立ち上がると浮かんだ彼女の涙を拭ってやる。そして周囲へと視線を向けて大きく口を開いた。


「いいか、俺の敬愛するセーリス様を侮辱する奴は絶対許さねぇ、ぶっ殺してやる」
「……えっ」
「あまりにも姫様への態度が酷けりゃ、俺は姫様攫って王国から出てってやるからな!」
「ええっ!?」


 ヘニルの挑発に再度どよめきが起こるも、その中をレクサンナとデルメルは颯爽と元の立ち位置に戻っていく。再び玉座に座ったレクサンナは、そのよく通る美しい声で言う。


「セーリスは私の妹。無論王の血族を弄する者が居ないことを、私は信じています。そうですよね、デルメル様」
「ええ。私はそんな子を育てた覚えはないわ。母を失望させるような悪い子はこの国にいないもの」


 そうデルメルが口を開けば皆口を噤む。それこそが、デルメルという絶対的な規律に縛られたこの王国の体質を表しているのだろう。


「勝利の凱旋を期待しています。貴方達の行く道に、創造主様のご加護があらんことを」


 兵士たちが一斉に立ち上がり、剣を掲げる。そして皆、国を守る為にこの地を発っていく。


「それじゃ姫様、行ってきまーす!」


 そう言うなりヘニルはセーリスに自身の頬を指差す。それに彼女は微笑むと、そこにキスをした。


「ご褒美、期待してますんで」


 ひらひらと手を振りヘニルは踵を返す。その様を見て、またセーリスは涙が溢れてしまいそうになる。
 けれど必死に堪える。少しでも、彼の忠誠に相応しい人になるために。



「行ってらっしゃい、ヘニル」



 彼女は自分の騎士の後ろ姿を、笑顔で見送った。




08 節度を持つ代とお見送り 了
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