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木漏れ日

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 明るい木漏れ日がこぼれる公園。

 心地良い晴天の青空が広がり、外で子供を遊ばせるにはうってつけの気候であった。
 公園のあちらこちらから、子供達が嬉しそうに遊んでいる声が聞こえてくる。

 その一角で、まだやっと歩き始めたと思われる幼児とその母親がたわむれている。

 幼児は1歳半位、母親は二十歳そこそこであろう。彼女は太陽の日差しで白い肌が焼けないように、大きなつばの付いた白い帽子をかぶっている。

 彼女は、幼児にも可愛らしいヒヨコの帽子を用意していたようだが、彼はそれを被《かぶ》るのを嫌がってすぐに放り投げてしまうようであった。

 彼はどこかに行きたいようで必死の形相で歩みを続ける。

 母親は、長いスカートの裾を膝の後ろに織り込んで中腰でしゃがみ、彼の逃亡を防せごうとしている。

「もう、一体どこに行きたいのよ?」歩く楽しさを覚えつつある幼児は、母親の制止《せいし》を振り切り縦横無尽《じゅうおうむじん》に彼女の動きをかわそうとする。

「もう、首に紐でも付けちゃおうかしら」そう考えたとき一瞬可愛い子犬を連想して、これは名案かもしれないと思ったようで、彼女の顔に笑みがこぼれた。
 しかし、よくよく考えてみると、それでは虐待になるのではないかと頭を軽く左右に振った。

 幼児は、彼なりにフットワークを駆使しながら果敢に母親からの脱走を試みてみる。

 彼が目指すその先には、公園のベンチがあった。
 そこには、足を組んで腰を下ろす黒髪の美しい女の姿。

 背筋の通った姿勢の良い背中、肩にかかる艶やかな黒髪、それに合わせたような黒の袖無しシャツにジーンズ、ヒールの少し高い黒いパンプス。

 腕には男性用かと思われる大きな腕時計。
 唇は薄いピンクのルージュ。
 目元には、黒のサングラスをかけている。
 褐色に焼けており健康的な肌の色。
 胸が大きくて、ウエストがキュっとくびれている。

 歳は母親よりも少し年上の二十代後半というところであろう。

 女性の目から見ても、きっと魅了されてしまう雰囲気を彼女は身に纏っている。

 母親は、彼女を見てタレントか芸能人ではないかと一瞬勘ぐったほどであった。

「あちゃー、まただ……」幼児の母親は頭を抱える。
 彼女の息子は、元々人見知りが少ない性格なのだが特に若い女を見つけると、幼児の持つ『天使の笑顔パワー』をフルに活用し相手の懐に入っていく。

 その笑顔を見てたいていの女性は、彼にメロメロになってしまう。それに味を占めたのか、若い女性を見つけてはその秘技を披露している。

 それは、生まれ持っての男の性なのかもしれない。

 彼は到達点に設定していたであろう黒髪の女の足に掴まると、ニッコリと微笑んだ。
 その笑顔に答えるように黒髪の女も軽く微笑みかえす。

「どうも、すいません。この子、若い女の人が好きみたいで......」母親は、幼児の服を後ろから引っ張る。幼児は首を振りながら「イヤイヤ!」の信号を出した。

「いいえ、構わないですよ。可愛いお子さんですね。おいくつなんですか?」女は、右手を伸ばして軽く幼児の頭を撫でた。
 彼は、目的を達成したように、満足げな表情で女を見た。

「一歳と半年です。最近歩けるようになってきたのですけど、本当に手に負えなくって……」母親は口を少し歪ませて困ったような顔をした。

「でも元気が一番ですよね。もしよろしければ、お子さんを、抱っこさせてもらってもいいですか?」女は、両手を軽く前に差し出した。
「いいですけど、さっき砂場で寝転んでましたから、けっこう汚れていますよ」
女は両手の平を、幼児の脇の下に差し込み、体を持ち上げて抱き抱えた。

 幼児は女の胸に顔を埋めて幸せそうである。

「……」母親は、我が息子の満足そうな表情を呆れ顔で見ている。

 女は、幼児を見て口角を少し上げてもう一度微笑んだ。

「本当に健康そうなお子さんですね。病気なんて関係ないって感じですね」女は幼児の顔を見ながら「ベー」と舌を出した。幼児は嬉しそうにはしゃいでいる。

「ええ、もうこの子は健康だけが取り柄……、みたいな。でも、この前凄く高い熱を出したんですよ。もう私びっくりしちゃって……、すぐに係りつけのお医者様に見て頂いたので、すぐに良くなりましたけど、もう少し遅かったら体に障害が残ったかもって言われたんですよ」母親は、女の座るベンチの横に腰かけた。

「ショー!ショー!」幼児は片言の言葉を口にしながら、女の胸に顔を埋めている。
「よっぽど、あなたの事を気に入ったみたい」母親は、幼児の頭をゆっくりと撫《な》でた。

「男の子は、みんなおっぱい大好きですもんね」二人は昔からの友達のように、大きな声で笑った。

「この辺に、お住まいだったら、最近、結構な火事がありましたよね。お宅は大丈夫だったのですか?」幼児を胸に抱きながら女は質問する。幼児は少しまぶたが重くなってきたようだ。

「ええ、火事があったアパートからは、少し離れてますので大丈夫でした。でも、あのアパート、家探しをしていた時に主人が結構気に入って、そこを借りて住もうかって話になったんですけど、なんだか私、直感であのアパートには住みたくないなって思ったので、結局、別の場所に家を借りることにしたんです」会話をしながら、今にも眠ってしまいそうな我が子をゆっくりと受け取った。

「もしも、あそこに住んでいたらと思うと……、ぞっとします」幼児は親指を咥えながら、母親の腕の中で完全に眠ってしまった。

「それは良かったですね。虫の知らせってやつですか」女は長い髪の毛をかき上げた。

 その瞬間、母親は懐かしい香りを感じた気がした。

「あなた……、もしかして」母がそう言ったと同時に公園の入口から声がした。

「おーい」それは、彼女の夫の声であった。
 少し年期の入った白い軽自動車の窓から手を大きく振っている。
「あ、あなた」母親は、それに答えるように小さく手を振る。

「それじゃぁ……、これで失礼します。お元気で……」そう言うと軽く会釈をして、黒髪の女は、立ち上がり、歩き出した。
 母親は、その姿を少し見送ってから、夫の待つ車の元に歩いていった。

「おい、どうしたんだい。あちゃー、こいつ寝ちゃたのか?」夫は、幼児の体を妻から受け取り車に運ぶ。彼女も車の後部座席に座り、幼児の頭を自分の膝に乗せた。

「さっきの、綺麗な人は誰?知り合い?」夫は運転席に座りエンジンをかけて車を走らせた。

「うーん、もしかすると……、昔の知り合い……かな」彼女はそう言いながら、我が子を見つめ、彼の頭を優しく撫でた。

 黒髪の女は車が去ったあと、サングラスをゆっくりと外した。その右目の下には泣き黒子ほくろがあった。
 彼女の瞳にはうっすらと涙が溢れそうになっていた。

 彼女は彼らの乗る車が見えなくなるまで見送ると、軽く微笑みを残してその場から姿を消した。
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