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想い出の街

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 今年の夏は激しい猛暑だ。太陽の光が矢のように肌に突き刺さる。

 ここ数年、熱中症で病院に運び込まれる老人たちが後を断たないと聞くがよく解かるような気がする。

 少し外を歩くだけでも相当な体力を奪われる事は必至で、俺は水分をまめに摂取するように心がけている。

 そのお陰で財布の中の小銭をだいぶんと減らす事ができた。

 目を開いていると反射した日光のせいで更に体力を奪われるような気がする。目を細めて、前を注意しながら道を進んでいく。アスファルトから照り返してくる太陽の光がまぶしい。

 少し先に進むと、目の前を虫取り網と虫かごを持参してどこかに出かける様子の親子が歩いている。子供は楽しげに走り回っているが同行する父親は、かなりくたびれた感じで、今にも勘弁してくれと言葉を吐き出しそうな雰囲気であった。

 きっと、たまには子供の相手をしろとか言われて、嫁さんに家を追い出された口であろう。勝手な想像力が頭を駆け巡る。

 どんな昆虫が取れるのかと子供は期待に胸を膨らませているようだが、この辺で取れるのは、せいぜい蝉くらいであろう。

 今度は、タンクトップにショートパンツ姿で爽快に自転車を走らせる女性。太陽に焼けた褐色気味の素足が艶かしい。

 俺は鼻の下を伸ばしながら、灼熱地獄の中で出会った女神さまに感謝した。

 ボーと彼女のスラリと伸びた足を見ていると、俺の視線に気がついたのか自転車のペダルを回す足を止めて両股を閉じるような姿勢をした。

 少し睨まれたような気がしたので誤魔化すように、軽く口笛を吹いきながら視線をそらした。

 額の汗を腕で拭い、Tシャツの袖を肩までまくりあげる。

 正直言えばこんな暑い日に外を歩くのなど正気の沙汰ではないとさえ思う。

 喉の渇きに耐えきれなくなり、再び、近くにあった自動販売機に小銭を放り込み炭酸のキツイ飲料水を一気飲みする。

 これで何本目かは、すでに解らなくなっている。

「あぁ、うまい」大袈裟だが、生き返るとはこういう事なのだなと一人納得していた。

 今日は叔父の召集により親戚一同が集まることになり、俺が生まれ育ったこの町に帰ってくることになった。

 昼までゆっくりしてから家を出て、小豆色の電車に乗り込み目的の場所へと移動を開始した。

 もっとも、帰ると言っても、祖母の家は県境をまたがっているものの、今住んでいる所から電車を乗り継いで十五分もかからない場所なのである。

 俺は二十歳を過ぎるまでは、この町に住んでいたのだが、結婚を機に今住む場所へ移り住んだ。結婚した当初は、嫁と二人で頻繁にこの町にも足を運んだものだが、月日が経つごとに、その頻度は減少の一途をたどり、今では皆無になっていた。

 親戚一同に、顔を見るたびに子供はまだかと言われる事に、俺達はウンザリしていた。
 嫁の足が遠退いたのは、それが原因のひとつではないかと俺は分析している。

 空は晴れわたり、雲ひとつない晴天である。

 もしも、海にでも出かけるのであれば、本来、出不精の俺でも上機嫌であろうが、そうでない今は、この暑さは苦痛でしかなかった。

 ギラギラ輝く太陽を恨めしいとさえ感じた。

 変わり映えのしない町並み、下町情緒の残る場所で、大手のコンビニ、飲食店の出店も皆無である。

 アイスキャンデーを口に咥えて歩く女子中学生達。

 夏のクラブ活動の帰りであろう。首には工事現場の作業員のようにタオルがかけれている。
 スカートは極端に短く、階段で後ろを歩くときは、上を見ることを躊躇してしまうレベルだ。

 今時の高校生男子は、授業に集中できているのか心配になる。彼女達の、ガサツ極まりない雰囲気と会話が耳に入り、これでも女なのかと俺は幻滅する。

 それでも、歳を重ねていくうちに彼女達も、それなりの女性に変貌していくのであろう。
 まるで昆虫が脱皮して全く違う姿に変わるように……。

 見慣れた懐かしい道を、歩いていくと、少し煤けてきているが、白い学校の校舎が目の前に現れる。

 この建物は俺が通った中学校。

 当時、地元では悪評が高く、事件を起こした不良たちが全国紙に載ったりして、素行が悪くて有名だったが地域や先生達の努力によってか今はかなり落ち着いているそうだ。 

 制服も、俺達の頃は黒い詰襟であったが、今時のブレザーに変わっていた。昔、この辺に繁殖《はんしょく》していた、見るからに素行が悪いガキどもは絶滅したようだ。

「おっ、久しぶりじゃないか!」路面のたこ焼き屋の親父が声をかけてくる。

 学生の頃、部活でのマラソンによる学校周回が嫌で、途中この店に避難したものだ。まあ、結局サボっていた事がバレて、後でこっぴどく怒られるのだが……。

「本当に、お久しぶりです、僕の事を覚えておられるんですか?」俺は丁寧に挨拶をした。

「なんだ、大人になったな。そんな挨拶出来るようになるとは、思わなかったよ。忘れる訳ないだろ、ヤンチャ坊主達のボスを」言いながら親父は爆笑する。しかし、さすが職人、話をしている間も上手にたこ焼きを回転させていく。

 学生の頃は、目上の人に敬語を使う事が出来なかった。回りもそうであったし、学校の先生にも普通にタメ口を使っていた。敬語を少しずつ覚えたのは、高校生になった頃からだろう。

「ボスは言い過ぎですよ。僕は真面目なほうでしたよ」俺は軽く頭を掻《か》いた。

「よく言うよ」親父は、たこ焼きを返す針で俺を指しながら笑っている。自分では自覚は無いが、周りからはそう見られていたらしい。

「あの頃、よく一緒にいたあの女の子……、可哀想だったよな……」親父は俺が触れたくない思い出に踏み込んできた。

「たこ焼き、一人前頂けますか?」俺は、話をはぐらかすように注文をした。

「あいよ!」親父もそれを察したのか、その件に関しては、それ以上聞いて来なかった。
 親父は焼けているたこ焼きを選別すると器用に船に移していった。通常八ヶ入りのところを一ヶおまけしてくれたようだ。

 中学生の頃、俺にも一応彼女がいた。

 彼女といっても好きと言い合っただけで、取り立てて深い関係であったわけではない。

 活発で物怖じしない性格で誰にでも好かれ周りからは、どうやって彼女と付き合うようになったのかと吊し上げにあったものだ。

 今思うと俺にとっては、少しそれで天狗になっていた部分もあったような気がする。

 彼女と付き合う事になったきっかけ、それは空手であった。

 俺達二人は、学校のクラブ活動で空手道部に所属していた。

 俺は組手の選手で、彼女は型の選手。

 彼女は学校のクラブに入る前から、近くの空手道場に通っていたらしく、競技用の難しい型を上手に表演していた。

 それは、誰もが見惚れるレベルであった。小学生の頃は、全国規模の大きな大会で入賞経験もあったそうだ。

 ある日、俺が何気なく披露したナイファンチの型を彼女がえらく気に入ったようで、彼女から教えてくれと懇願されて練習が終わった後に、二人で居残り練習をするようになった。

「ナイファンチ」それは、俺にとっては思い出に残る型なのだ。

 空手の話以外は、あまり意味のないくだらない話をするのが俺達の日課。それでも、そんな毎日が楽しくて仕方なかったような気がする。。

 そしてその日は唐突にやってきた……、二人練習が終り、家の方向が同じ事もあり彼女と俺は、いつものように一緒に下校をしていた。
 
 雨が降る道。

 何の変哲もない帰り道で、その出来事は起きた。

 俺たちの横をすれ違っていく車が道路に溜まった雨水を跳ねる。土を含んだ泥水が彼女にかからないように俺は率先して車道側を歩いた。それがいつもの日常であった。
 数台の普通車が過ぎ去った後、一台の大型トラックが何やらフラフラしながらやって来た。なんだか危ない感じであったので、彼女を出来るだけ歩道の奥を歩くように誘導した。

 安全そうな場所に移動した彼女から目を外し、前を確認して仰天する。

 先ほどのトラックが今にも、俺にもぶつかりそうな勢いで迫って来ていた。俺は身動きを取る事も出来ず唖然としていた。

 ドンッ!

 地響きのような音が響き渡る。俺は、トラックに跳ねられた……のか?

 痛みは感じない・・・・・・。ゆっくりと目を開ける。

 俺の体は、トラックの軌道から少し離れた場所にいた。どうやら、トラックは電柱に衝突して、止まったらしい。しかし、なぜ……、俺は無事なんだ・・・・・・。

 トラックは激突した衝撃で前方の運転席が大破していた。
 
 その傍を傘が舞っている。まるで黒いアゲハ蝶が遊ぶかのように……。見覚えのある黒い雨傘。

 混乱した頭を整理しながら、記憶を辿る。

 トラックが迫ってくる。俺は恐怖のあまり目を閉じた。

 そして……、誰かに背中を突き飛ばされた!?はっと気がつき辺りを見回す。
 彼女の姿が見えない。

「お、おい……!」俺は必死に彼女の名前を叫び続けた。しかし、返答はなかった。
 まさか、俺を突き飛ばして、トラックに……。

 俺は大破したトラックの運転席の前で両ひざを落として呆然としていた。

「ま、まさか俺を庇って……」どしゃ降りの雨の中で濡れたアスファルトに膝をついた。俺が守らないといけないと心に決めていたのに、彼女が俺の身代わりに・・・・・・。

「あーーーーーー!!」硬いアスファルトを両腕が血だらけになるほど叩きつけながら俺は泣き崩れた。


 親父からたこ焼きをひと船購入すると、それを頬張りながら道を進んだ。

 ちなみに八ケ入りひと船が百五十円と物価水準も違う。

 今、住んでいる場所では、平気で三百円は越えるであろう。ゆえに、昨今の我が経済事情により結婚をしてから、たこ焼きを食べるなんて事は激減した。本当に久しぶりの買い食いである。

 爪楊枝を突き刺し大口を開けて、たこ焼きを放り込む。

「あ、あちちちち!」思いの外、たこ焼きの中が熱く危なく口の中が火傷しそうになった。耐えきれずに、口の中から、燃えたぎる玉をもう一度船に戻す。

 爪楊枝で表面を切り分け、適度に冷めるまで待つ事にする。

 駅から家までは歩いて二十分ほど、結婚してからは駅近に居住するようになって、当時は気軽に移動していたこの二十分の道のりがかなりの苦痛に感じてしまうようになってしまった。本当に慣れとは恐ろしいものである。

 懐かしい街並みを見ながら歩いているうちに目的地へ到着した。古い長屋のような家が続く。その中央に位置する家がある。

 俺の育った家。

 今日は亡くなった父と母の命日である。

 叔父の召集により、親戚一同が集まって供養をするということであった。俺にしてみれば、正直物心付く頃には既に両親が亡くなっていたので、居ない事が当たり前のようになっている。

 真っ直ぐにぐれたりせず育ったものだとよく言われたが、幼い頃よりそれで同情される事はあっても、俺自身が自暴自棄になった事は無かった。

 玄関の扉を開けて、家の中に入ると、既に親戚一同が集まっており歓談していた。

 年数も経過するとこういう集まりは供養というよりは、親戚の集まる口実でしかない。

 叔父夫婦もその子供、さらに三男の叔父夫婦と子供と犬のシーズ一匹。

 俺は仏壇の前に座り手を合わせた。

 仏壇の中には両親の写真、微笑む父親と対象的に無愛想な表情の母親の写真。ちょっと怒っているような気もする。

「もう少し、マシな写真なかったのか」この写真を見る度に俺は苦笑いする。昔から俺の 記憶の中に残っている母親の顔は、この無愛想な怒っている顔であった。隣に並んだ父の満面の笑顔がわざとらしく感じるほどに……。

「それにしても、お前は本当に利樹《としき》に似てきたな」祖母が俺の見ながら染々《しみじみ》と呟《つぶや》く。利樹とは、俺の父親の名前である。
 祖母の表情は何かを懐かしむような感じであった。

 叔父の話によれば、祖母は兄弟の中でも、特に長男である父を溺愛していたそうである。俺の父親はちょっと抜けた所があり、人に恨まれない性格だったそうだ。

 ただし、叔父の父に対する嫉妬にも似た体験談を聞くことも数回あったのだが・・・・・・。
 祖母にしてみれば、若くして亡くなった息子に対しての思いは、さらに拍車がかかっているであろう事は、この俺でも容易に理解できる。

「ばあちゃんの言う通り、お前は本当に兄貴の若いときにそっくりだ。特に目、口、鼻……、全部似ている」叔父が祖母の言葉を捕捉するかのように発した。

「ふーん、そうかな……」鏡はなかったが、右手で顔の凹凸を確認するかのように触ってみる。
 親族にしてみれば懐かしい思い出に浸る話題なのであろうが、何の思い入れの無い親に似ていると言われても、特に感想は無いのが正直なところだ。 

 実際に両親と俺との思い出は特になく、一緒に生活した記憶など全く無い。

「お前も嫁さんの尻ばかりに敷かれてないで、たまには婆ちゃんに顔を見せに来てやれよ」叔父さんが釘でも刺すように言ってくる。祖父が生きていた頃は、まだ小まめに実家にも通っていたが、亡くなってからは足が遠退いたのは事実だった。なかなか、顔を出さない孫への不満を代弁しているのであろう。

 祖父は数年前に高齢により天命を全うした。

 長年の喫煙が原因だったのか、肺気腫と癌を併発し、晩年まで苦しそうにして亡くなった。幼い頃から祖父がタバコを吸う、その姿を見て俺は大人になってもタバコだけは吸わないと心に誓ったものだ。

 祖父が亡くなってから、一人での生活が長くなるにつれて祖母も人と会話する機会が減り刺激が無くなってきた様子であった。

「わかったよ……」特に感情も込めずに俺は返答をしてから仏壇に視線を移す。
仏壇の母は、相変わらず無愛想な顔であった。



 なんだか煩わしい儀式も終了し、家への帰り道、たくさんの学生達とすれ違う。
「高校生か……」遠いような近いような記憶を思い出す。

 俺は家から近いという理由だけで、市内の公立高校に進学した。

 元々通っていた中学校は、ひどく荒れていたが高校に進学すると広い地域から学生が集まり、平均して普通の校風となった。

 その落ち着いた雰囲気になかなか付いていけずに、逆にクラスで浮く存在になった。

 中学から仲の良い奴もいたが、自分の都合でクラス編成が出来る訳でもなく、さらに新しい友達を作る努力を惜しんだことも要因だと今は分析する。

 言ってみれば、俺にとっての高校生活は、それほど快適なものでは無かったということだ。
 やはり、学生生活において、友人が最大の宝物だということを今では理解する。
 時すでに遅しではあるが……。

 まあ、中学生の時の、あの思い出を引きずって暗い奴というレッテルを貼られていたのも一つの要因だとは思われる。

 こうやって和気あいあいに楽しく歩く学生達を見ると羨ましくも妬ましくもあるのが本音だ。

「はぁ」なぜか飛び出した、ため息を飲み込み改めて家路についた。
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