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 2020年夏

 あの日から、まどかは、自分の部屋に引きこもり、魂の脱け殻のようになっていた。

 既に体から水分も枯れてしまったかのように、涙さえ出なくなってしまった。

「睦樹さん……」時折、その名前を呟いてみるが、悲しみが津波のように押し寄せてくるだけであった。

 ストーカー男からまどかを救ってくれた睦樹が、彼女の膝の上で絶命したかと思うと彼の姿と血痕が消えた。

 まどかの顔に付着していた睦樹のものと思われる血も消えていた。

 襲ってきたストーカー男は、女性の首筋をナイフで切り裂き殺害した無差別殺人で駆けつけた警察官に現行犯逮捕された。

 ストーカー男の両目は何者かに潰されて失明してしまったそうだ。もう、彼がまどかに危害を加える事はないであろう。

 まどかと回りにいた人達は、消えてしまった睦樹の事を何度も説明したが、警察には信じてもらえなかった。犯人の男が所持していたナイフからは、殺された女性以外の血痕は全く付着していなかったそうである。

 指紋も犯人の物だけだったそうだ。この不思議な話はテレビでも報道されたが、その扱いはオカルト扱いだった。

『現場から中継です。片山容疑者が刃物を振り回して、女性を殺害した場所がここです。男は手にもった刃渡り20センチの包丁で被害者の飲食店経営者の女性を座したあと、辺りにおられた方々に切りかかったそうです』朝の番組の男性レポーターが、中継しているようだ。

『聞いた話によると、他に刺された男性がいて、その男性が片山容疑者を静止したとの情報があるのですが、その辺の話はありますか?』スタジオでメインキャスターを務める、大手芸能会社のお笑い芸人が真剣な口調で質問する。中継画面の右上のワイプ画面に、色々な方面の識者がコメンテーターとして、顔を出している。

『たしかに。そのような話もありましたが、警察の発表によりますと、女性の他に被害者はいないということです。あまりにも悲惨な状況で皆さんの記憶が錯乱されたのではないかと思われます』レポーターは、右手でイヤホンを押さえながらキャスターの質問に答えた。

『いつか、こんな事件を起こすんじゃないかと心配していましたが……』片山の友達という少年がインタビューを受けていた。モザイクはかかっていたが、サングラスをかけて、オールバック。いかにも素行が悪い印象を視聴者に与えた。

『本当に摩訶不思議な事件でした』尺が無くなったのか、なんだか中途半端な締めで、片山という男による無差別殺人の報道は終了した。

 殺された年配の女性と片山というストーカー男は元々面識があり、テレビの報道番組の情報によると、痴情のもつれが原因だったそうだ。そして、薬物を常習していて男は意識が錯乱していたそうだ。

 使用された凶器は、男が常備していた物で、彼の所持していた鞄の中には、他に数本のナイフ、縄、スタンガンなどが入れられていたそうだ。

 まどかは、近藤睦樹という人物を警察にもお願いして、探してもらったが、そのような人物の該当者はいないということであった。

 ただ、女子高生の妄想とも思える依頼に対して、どこまで真剣に取り組んでくれたのかは怪しいところではある。

 調査の結果を信じるのであれば、この世界に存在しない人、それが近藤睦樹なのだった。

トントン。

 まどかの部屋のドアがノックされる。まどかは、反応しない。

トントン。

 ノックは何度か繰り返される。

「まどか、お願い……、少し話があるの……入っていい?」まどかの母が、部屋の外から声をかけてきた。

 それでも、まどかは気力が沸かず大きな人形のようにその場に崩れ落ちたままだった。 今、母と話をする気分にはなれなかった。

 ゆっくりと、ドアが開く。まどかの部屋に鍵はない。

「勝手に入るわよ……。まどか、私は、お母さんは……、あなたにどうしても話さなければならない事があるの……」母は、まどかの横にゆっくり座ると正座の姿勢になった。母は神妙な顔つきでまどかの反応を無視したように強引に話を始めた。

 まどかは相変わらず、気の抜けた人形のようだった。

「あの事件の事……、警察は、あなた達の言うことを……、近藤って人がいた事を認めなかったけれど……、お母さんは、信じるわ……、お母さんには、思う処があるの……」母は言葉を選びながら口を開いている様子であった。母のその言葉を聞いて、まどかは頭を持ち上げて母の顔に瞳を向けた。

「それ、何の話……?」気の抜けた声であった。

「お母さんは……、いえ、私は近藤睦樹を知っている……」唐突に発せられた母の言葉に、まどかは目を見開いた。

「睦樹さんを、お母さんが知っている……?」声を出すのが久しぶりのような気がする。

「今まで黙っていたけれど……、あなたのお父さんは……、小林一馬さんは、まどか……、あなたの本当のお父さんじゃないの……」唐突に発せられたその言葉にまどかは驚きを隠せなかった。

「お母さん……、一体なにを言っているの?!」まどかは母の様子を伺いながら問い詰める。

「あなたが、お母さんのお腹にいる時に、本当のお父さんは、何者かに刺されて病院で亡くなったの……、あなたが、見たって言う、その睦樹って人と同じように……」話始めた母の目にも涙が溢れそうになっていた。

「そ、そんな……」まどかは両手で口を被う。

「あなたのお父さんの名前は、近藤睦樹……、私の前の夫、そしてあなたが会っていた人と同じ名前」その名前を口にした母は悲しそうな顔をした。

 そして、うつむくまどかの右手を握りしめる。

「そ、そんなことって」まどかの頭は混乱し、思考が働かない状態になった。

「あの公園で、あの人を、睦樹さんを見た時、私は息が止まるくらい驚いたわ。でも、それをあなたに話す事は出来なかった……。それにそんな馬鹿げた事、あるはずないと思ったから……」母の両肩がガタガタと震えていた。

「でも……、まどかにあの人の名前を聞いて、それは確信に変わった……、あの人は、私の主人……、睦樹さんだった、きっと死後の世界から……私達に……」

 何故だか、母は恐れるような表情を浮かべたようにも見えたが、少し震えている体を自分の両腕で止めるような仕草をし、感情を抑えるかのように深呼吸してから改めて語りだした。

「きっと、お盆が近くなってきたから帰って来たのね。私ではなくて、あなたに会いに……、それから……あなたの名前、まどか……、睦樹さん……、お父さんが付けてくれたのよ。まどかって……、亡くなる時に、私のお腹を触りながら……」床についた手の甲に、母の大粒の涙が落ちた。その涙の本当の意味を、まどかはいつの日か気づく時があるであろう。

「睦樹さん……、お父さん……」まどかは、今はただ、もう一度泣き崩れるしかなかった。
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