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Ⅰ.ネザリア王国
彼女じゃない
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夜会には、ネザリア王国と繋がりを得た各国の代表者が招集された。以前メルチ訪問の際にオルバノ王から見せられた、ネザリアとの事実上軍事契約にサインをした国が集まるのだと思われる。
立食会場は社交界ばりの空気であり、知らない顔だけが並んでいた。しかしその中で唯一知っている顔を見たのは、たった一人リュンヒンだけであった。
離れの豪邸で行われた親睦会という集まりで、俺のような事情の者が一体どんな世間話をすれば良いと思う。俺はリュンヒンのように、どこにある国の王や姫か分からん者と情報交換など楽しんで行えない。
適度に腹だけ満たして早々に帰ろうと心に決めており、もしも毒でも入っていて命を落とすことがあれば運が尽きたと思っておこう。「よし」と呟きながら揚げ物らしき物を食べた。
幸運なことにまだ体調に異常は無い。もぐもぐと口を動かしながら、目だけ動かして周りを観察している。
「……変な集まりだな」
ボソッと本音を漏らしていたが、隣にあの喧しい側近が留守なので音楽に消えていくだけであった。どういう訳なのかこの夜会に側近や執事は立ち入らせないらしい。
変な集まりだと思うのは、この集まる王や姫たちのまばらな国際色と、貧富の差から生まれている。服装や言葉や飲むものにさえも国の個性が出てくるようだ。傍観だけしていれば割と面白い。だからといって、もうしばらく居ようかとは欠片も思わないが。
事情を知るリュンヒンは俺から離れた場所に居るどころか、一度もたりとも目を合わせて来なかった。手持ちの皿も空いたことであるし腹も満たされた。そろそろしれっと戻ろうか、とその場を翻した時であった。
「きゃ!」
女性の声で俺は近くに人が居たのだと気がつく。だが時は既に事後で、女性とぶつかった拍子に彼女が持っていた飲み物が俺の服に掛かってしまったのである。琥珀色の液がジャケットも白シャツにも染みて冷たい。
「す、すみません!」
「いいや、私がよそ見をしていたせいです」
初対面の女性に向かって俺は紳士らしくはにかんで見せたが、内心では面倒事になる前に誰の目からも遠ざかりたかっただけだ。
女性はポケットからハンカチを取り出して濡れた部分を拭いてくれようとする。俺は丁重に断りを入れながら微笑みを絶やさなかった。
「自分でしますので気にしないで下さい」
「で、ではせめてこれを使ってください」
淡いラベンダーカラーのハンカチを両手に乗せて差し向けてきた。もう既にこの夜会自体が何かしらの罠なのかと疑う俺であるから、このような小道具を目の前にして苦笑いへ変わっていく。
「……使わせてもらいます。ありがとう」
俺はそれをしぶしぶ受け取りシャツの部分に軽く宛てた。終始相当青ざめていた女性であったが、これで少しは気が楽になったようである。
明るさを取り戻した顔が見えると、彼女とは何処かで会ったことのあるような気がした。実際にはそんなはずが無い。たぶんエセルに雰囲気が似ていたからそう思うのだろう。
違う場所から彼女の名を呼ぶ者が現れた。やはり知らない名だ。女性は声に振り返って手を振っていた。王女の位につくような歳には見えないし、姫だとしても主要人物として招待を受ける程、高い地位があるようには失礼だが見えない。
まあ、どっちにしても俺には関係の無いことだった。
「では私はこれにて失礼します」
ハンカチの礼を言おうとすると、このエセルに雰囲気の似た女性がいきなり俺の手に触れてきた。こちらが驚いている間に、ずいと距離まで近づけられている。ほんのり甘い香りが鼻に感じた。
「これは、またお会いした時に……」
上目遣いで見つめながら意味深に言われた。顔同士の近い距離に俺から思わず後ずさりをすると、女性はわずかに微笑んだ後、瞼を伏せてその場でしおらしく礼をして去った。
早朝のこと。乱暴に走る馬車にひとりで乗せられ、国境の関所に降ろされると既にカイセイが到着済みである。彼は爽やかな立ち姿でいるが、俺の方は昨日の寝不足と、荒れ運転の車酔いと、ただならぬ後悔の念で体も心もズタボロの状態であった。
「元気そうだな」
「元気なもんですか。こちらは一晩中ずっと見張られていたんですよ。手洗い場にも付き添い同伴で辛かったんですから」
俺がカイリュと会談し夜会に出席した間の過ごし方について、カイセイは事細かに報告してきた。俺は白目を向きながら右から左へ聞き流して、とりあえず早々と馬にまたがっていた。
「暗いですね」
城に着いた時、カイセイはそのように言った。確かに夕方へ傾きだそうとしている空であるが、しかしまだ陽は高いところにある。
「……まだ昼のうちだろう」
「違いますよ。バル様が浮かない表情でいるのを気にしているのです」
若干の苛立ちを見せながらカイセイは言った。それはさっきからこの俺が、一動作ごとに溜息を吐きまくるところにも通じている。
「はあ……」
よく長時間走ってくれたと俺は馬を撫でつつ、ネザリア城での事を手短に言った。
「一週間後。ネザリア北部で戦争。勝てばエセル戻る。負ければ国没す」
「……なんだ。それなら思惑通りじゃないですか。何も暗くなること無いでしょう?」
カイセイは安堵の息をついた後、明るい声で言った。
ああ、その思惑通りだ。もちろんだとも。俺が傷を負ったのはその部分では無いが、あえて誰かに知られるのも嫌だから隠してある。なお、ポケットの中にそれはあり、ふとした時に甘い香りが立って記憶を呼び起こそうとする魔の小道具に成り代わっていた。
ところで、戦争など出来ない国でこの条件を突き付けられて、カイセイが怒らないのにはちゃんと訳がある。
「ではすぐにでもリュンヒン様と交渉せねばなりませんね。天気次第では日をまたぐ恐れもありますが、話し済みということですし、直接出向いても良いかと思いますがどうでしょう」
カイセイは平然とした姿勢で馬に水をやりつつ言った。
そう。彼にはメルチがネザリアから渡された誓約書に”サインしなかった”と伝えてある。ネザリアに付かずに俺達の見方に付いてくれたと信じさせており、さらにはネザリアと衝突することを想定した話も進めてあると嘘ついた。
「何か懸念材料があるのですか?」
俺が何も言わないので聞かれる。
俺は腹が痛いのを理由にこの場から離れて自室へと逃げ込んだ。疲れてベッドに倒れ込み、よく見慣れた天井を仰いだ。なあに、心配せずとも手掛かりならある。ただしそれは、まだ不確かなものに過ぎない。
立食会場は社交界ばりの空気であり、知らない顔だけが並んでいた。しかしその中で唯一知っている顔を見たのは、たった一人リュンヒンだけであった。
離れの豪邸で行われた親睦会という集まりで、俺のような事情の者が一体どんな世間話をすれば良いと思う。俺はリュンヒンのように、どこにある国の王や姫か分からん者と情報交換など楽しんで行えない。
適度に腹だけ満たして早々に帰ろうと心に決めており、もしも毒でも入っていて命を落とすことがあれば運が尽きたと思っておこう。「よし」と呟きながら揚げ物らしき物を食べた。
幸運なことにまだ体調に異常は無い。もぐもぐと口を動かしながら、目だけ動かして周りを観察している。
「……変な集まりだな」
ボソッと本音を漏らしていたが、隣にあの喧しい側近が留守なので音楽に消えていくだけであった。どういう訳なのかこの夜会に側近や執事は立ち入らせないらしい。
変な集まりだと思うのは、この集まる王や姫たちのまばらな国際色と、貧富の差から生まれている。服装や言葉や飲むものにさえも国の個性が出てくるようだ。傍観だけしていれば割と面白い。だからといって、もうしばらく居ようかとは欠片も思わないが。
事情を知るリュンヒンは俺から離れた場所に居るどころか、一度もたりとも目を合わせて来なかった。手持ちの皿も空いたことであるし腹も満たされた。そろそろしれっと戻ろうか、とその場を翻した時であった。
「きゃ!」
女性の声で俺は近くに人が居たのだと気がつく。だが時は既に事後で、女性とぶつかった拍子に彼女が持っていた飲み物が俺の服に掛かってしまったのである。琥珀色の液がジャケットも白シャツにも染みて冷たい。
「す、すみません!」
「いいや、私がよそ見をしていたせいです」
初対面の女性に向かって俺は紳士らしくはにかんで見せたが、内心では面倒事になる前に誰の目からも遠ざかりたかっただけだ。
女性はポケットからハンカチを取り出して濡れた部分を拭いてくれようとする。俺は丁重に断りを入れながら微笑みを絶やさなかった。
「自分でしますので気にしないで下さい」
「で、ではせめてこれを使ってください」
淡いラベンダーカラーのハンカチを両手に乗せて差し向けてきた。もう既にこの夜会自体が何かしらの罠なのかと疑う俺であるから、このような小道具を目の前にして苦笑いへ変わっていく。
「……使わせてもらいます。ありがとう」
俺はそれをしぶしぶ受け取りシャツの部分に軽く宛てた。終始相当青ざめていた女性であったが、これで少しは気が楽になったようである。
明るさを取り戻した顔が見えると、彼女とは何処かで会ったことのあるような気がした。実際にはそんなはずが無い。たぶんエセルに雰囲気が似ていたからそう思うのだろう。
違う場所から彼女の名を呼ぶ者が現れた。やはり知らない名だ。女性は声に振り返って手を振っていた。王女の位につくような歳には見えないし、姫だとしても主要人物として招待を受ける程、高い地位があるようには失礼だが見えない。
まあ、どっちにしても俺には関係の無いことだった。
「では私はこれにて失礼します」
ハンカチの礼を言おうとすると、このエセルに雰囲気の似た女性がいきなり俺の手に触れてきた。こちらが驚いている間に、ずいと距離まで近づけられている。ほんのり甘い香りが鼻に感じた。
「これは、またお会いした時に……」
上目遣いで見つめながら意味深に言われた。顔同士の近い距離に俺から思わず後ずさりをすると、女性はわずかに微笑んだ後、瞼を伏せてその場でしおらしく礼をして去った。
早朝のこと。乱暴に走る馬車にひとりで乗せられ、国境の関所に降ろされると既にカイセイが到着済みである。彼は爽やかな立ち姿でいるが、俺の方は昨日の寝不足と、荒れ運転の車酔いと、ただならぬ後悔の念で体も心もズタボロの状態であった。
「元気そうだな」
「元気なもんですか。こちらは一晩中ずっと見張られていたんですよ。手洗い場にも付き添い同伴で辛かったんですから」
俺がカイリュと会談し夜会に出席した間の過ごし方について、カイセイは事細かに報告してきた。俺は白目を向きながら右から左へ聞き流して、とりあえず早々と馬にまたがっていた。
「暗いですね」
城に着いた時、カイセイはそのように言った。確かに夕方へ傾きだそうとしている空であるが、しかしまだ陽は高いところにある。
「……まだ昼のうちだろう」
「違いますよ。バル様が浮かない表情でいるのを気にしているのです」
若干の苛立ちを見せながらカイセイは言った。それはさっきからこの俺が、一動作ごとに溜息を吐きまくるところにも通じている。
「はあ……」
よく長時間走ってくれたと俺は馬を撫でつつ、ネザリア城での事を手短に言った。
「一週間後。ネザリア北部で戦争。勝てばエセル戻る。負ければ国没す」
「……なんだ。それなら思惑通りじゃないですか。何も暗くなること無いでしょう?」
カイセイは安堵の息をついた後、明るい声で言った。
ああ、その思惑通りだ。もちろんだとも。俺が傷を負ったのはその部分では無いが、あえて誰かに知られるのも嫌だから隠してある。なお、ポケットの中にそれはあり、ふとした時に甘い香りが立って記憶を呼び起こそうとする魔の小道具に成り代わっていた。
ところで、戦争など出来ない国でこの条件を突き付けられて、カイセイが怒らないのにはちゃんと訳がある。
「ではすぐにでもリュンヒン様と交渉せねばなりませんね。天気次第では日をまたぐ恐れもありますが、話し済みということですし、直接出向いても良いかと思いますがどうでしょう」
カイセイは平然とした姿勢で馬に水をやりつつ言った。
そう。彼にはメルチがネザリアから渡された誓約書に”サインしなかった”と伝えてある。ネザリアに付かずに俺達の見方に付いてくれたと信じさせており、さらにはネザリアと衝突することを想定した話も進めてあると嘘ついた。
「何か懸念材料があるのですか?」
俺が何も言わないので聞かれる。
俺は腹が痛いのを理由にこの場から離れて自室へと逃げ込んだ。疲れてベッドに倒れ込み、よく見慣れた天井を仰いだ。なあに、心配せずとも手掛かりならある。ただしそれは、まだ不確かなものに過ぎない。
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