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lll.クランクビスト
二人‐ムードは台無しに‐
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大事を取って迂回ルートからメルチへ帰還する。その宿では晩になってもすぐにベッドに入らずに、俺は窓から外を見ていたのだ。
月が出ている明るい夜であったが、景色は林ばかりで星も月夜によって見えにくい。
少し寒風にも当たってみるかと窓を開けようにも、これはガラスがはめ込まれた開かん窓であった。
仕方がなく外に出るため階段を降りる。ちょうど下から登ってきた宿泊客と階段ですれ違った。
タバコの匂いを感じつつ会釈して通り過ぎたら、その者が持っていたランタンが扉の向こうに消える。するとこの辺りの明かりは窓が切り取る月夜のみになった。
燭台の火はとうに消えて蝋が硬くなっていた。宿主は火を付けて回るような労働はしないらしい。
夏の夜でもひんやり冷えている。どこかの部屋から早めのイビキが漏れ出ていた。レストランはもう片付けも終わって人ひとり居ない。
「あ……」
エントランスから続くガーデンスペースに一人の女性を見つける。一本だけ消えずにあったガス灯の元に居た。
出会った頃より少し伸びたはずの髪が今はしっかりと結い上げられている。風は掬うものが無く、静かに通り過ぎていた。
「エセル」
名を呼ぶと彼女はこちらを見た。
「あっ、おはようございます。……じゃないですよね?」
「今から寝てもおかしくない時間だろう」
そのまま歩みを進めて俺は空いた席に座る。
だがその席からは、パラソルが蓋をして月を見ることが出来ないのであった。
まあいいやと背もたれに踏ん反り返ったら、エセルが「あっちに行きませんか」と手を引いてきた。
従業員用の通路を抜ける。するとガーデンスペースより少し下がった場所に降りてきた。
そこには、まるで俺たちのために用意されたかのような二人掛けのベンチが一台だけ置いてある。
「……用意が良いな」
「……ですね」
エセルもどうしてか固まっていた。
「キースさんにはちょっとした庭園があると教えてもらったんですけど……」
道を間違えたかもしれないとエセルは戻ろうとした。
しかし辺りは暗がりだ。勝手に歩かれるのは困ると引き止める。その彼女の後ろに花を咲かせる木などが見えた気もするが、まあ見えなかったことにしておく。
「ここで良い。俺は月が見たかっただけだからな」
この席からも月は見えん。それでも俺が座り、エセルが横に座った。
明るい夜の空に小さく星が煌めいている。
昼間ののどかな時間も、今のような静かな時間も両方良い。何か愛の言葉でも語りかけようかと微睡んでいたら、エセルは全く別のことを口にしだした。
「実はですね。どうしても居ても立ってもいられなくなってしまって、バル様のお部屋を出た後シルヴァーさんとパニエラに……」
そこでもう一度交渉をし、リョヤンとの約束を取り付け、朝方の出発時刻までには俺の元に帰ってくるはずが、関所でベンブルクの兵士に捕まってしまう。
オルバノ元王の場所を案内しろと言われて山の中を歩いていた時、キース率いる兵隊によって救われたと。
そもそも、キース達とオルバノ元王とエセルでは取り決めがされており、ベンブルク兵士に脅されればオルバノ元王の居場所を言う運びになっていた。
オルバノ元王は一時的に別の場所に隠れ、その間にエセルやキースは……。
「もういい。もういいわ!」
俺が癇癪を起こすと、エセルは「えっ?」という顔をした。
俺は頭をムシャクシャと掻き、全身悶えるように震わせてから最終形はげんなりと項垂れて落ち着く。
「す、すみません。気に触ることを言ってしまいましたか?」
「ああ、言った。言ったとも」
「で、では……私は大人しく寝てきます」
それも違うから手を取って引き続き座らせる。
彼女は説教を食らうのだと思っている。それで呼吸をするのも控えるほど静かにしていた。
せっかくのムードも何も無くなってしまったではないか。
「後ろを向け」
俺はエセルのこわばった肩に手を置き、俺に背中を向けるように仕向けた。それに抵抗せずに恐る恐るエセルが体をひねる。
彼女の結った髪が俺の目の前に現れた。
「痛かったら言えよ?」
それを合図に複雑に結われた髪の束を一つずつ解いていった。
初めは自分の後頭部に何をされているのか感覚では分からなかったらしい。しかし銀のピンや飾りを後ろから手渡されると、だんだん分かってきたと言う。
「あ、あの。これは、なぜ?」
エセルは戸惑い続けていた。
こっちは気分を害された身である。答える義理は無い。
黙っていたらエセルは自分から話し始める。
「私、ほんとに勝手なことばかりしてバル様に迷惑をかけていますよね。なので、もしもバル様が……その、別の方と一緒になりたいのでしたら、私はちゃんと身を引きますし」
ぶつぶつゴニョゴニョと声がだんだん小さくなっていく。
こんな静かな夜であるからどんな囁き声でも耳に届くが内容は聞いていられない。
少し黙れと言う代わりに、白いうなじを唇でかじった。
「ひゅあうっ!?」
聞いたことのない小動物の声かと思った。
真っ白で美味そうな、うなじは彼女の片手で隠され、真っ赤な顔をして俺を振り向いている。
「な、なな何をしたんですか!?」
「お前がまた的外れな事を言ったら本当に噛むからな」
「かっ、かっかか、か、噛んだんですか!?」
うるさいと叱って前を向くよう促す。
まったく。そんな無抵抗なものを他の男の前でちらつかせるなとも、心の中で叱ったつもりだ。
そしてまたエセルは静かになる。俺はずっと手元に集中していた。
「しっかし、なんて複雑な構成なんだ……朝日が登ってしまうぞ」
しばらくの無言を消し去るように俺から告げる。
「そんな大したものではありませんよ」
エセルは小さく笑いながら、器用にも片手を後ろに回して三つ編みの人束をすくい上げた。
そして中指を差し込んで引っ張るだけでスルスルと解いている。「ほら簡単です」と、鏡も見ていないのに言った。
「待て待て、俺がやるからじっとしているだけでいい!」
エセルは平気だと言うが、見ているこっちは痛そうでたまらない。
俺は三つ編みの先から慎重にひと束ずつ左右に動かしていった。
あと二本で終わりである。長い道のりであったがもう少しだ。
月が出ている明るい夜であったが、景色は林ばかりで星も月夜によって見えにくい。
少し寒風にも当たってみるかと窓を開けようにも、これはガラスがはめ込まれた開かん窓であった。
仕方がなく外に出るため階段を降りる。ちょうど下から登ってきた宿泊客と階段ですれ違った。
タバコの匂いを感じつつ会釈して通り過ぎたら、その者が持っていたランタンが扉の向こうに消える。するとこの辺りの明かりは窓が切り取る月夜のみになった。
燭台の火はとうに消えて蝋が硬くなっていた。宿主は火を付けて回るような労働はしないらしい。
夏の夜でもひんやり冷えている。どこかの部屋から早めのイビキが漏れ出ていた。レストランはもう片付けも終わって人ひとり居ない。
「あ……」
エントランスから続くガーデンスペースに一人の女性を見つける。一本だけ消えずにあったガス灯の元に居た。
出会った頃より少し伸びたはずの髪が今はしっかりと結い上げられている。風は掬うものが無く、静かに通り過ぎていた。
「エセル」
名を呼ぶと彼女はこちらを見た。
「あっ、おはようございます。……じゃないですよね?」
「今から寝てもおかしくない時間だろう」
そのまま歩みを進めて俺は空いた席に座る。
だがその席からは、パラソルが蓋をして月を見ることが出来ないのであった。
まあいいやと背もたれに踏ん反り返ったら、エセルが「あっちに行きませんか」と手を引いてきた。
従業員用の通路を抜ける。するとガーデンスペースより少し下がった場所に降りてきた。
そこには、まるで俺たちのために用意されたかのような二人掛けのベンチが一台だけ置いてある。
「……用意が良いな」
「……ですね」
エセルもどうしてか固まっていた。
「キースさんにはちょっとした庭園があると教えてもらったんですけど……」
道を間違えたかもしれないとエセルは戻ろうとした。
しかし辺りは暗がりだ。勝手に歩かれるのは困ると引き止める。その彼女の後ろに花を咲かせる木などが見えた気もするが、まあ見えなかったことにしておく。
「ここで良い。俺は月が見たかっただけだからな」
この席からも月は見えん。それでも俺が座り、エセルが横に座った。
明るい夜の空に小さく星が煌めいている。
昼間ののどかな時間も、今のような静かな時間も両方良い。何か愛の言葉でも語りかけようかと微睡んでいたら、エセルは全く別のことを口にしだした。
「実はですね。どうしても居ても立ってもいられなくなってしまって、バル様のお部屋を出た後シルヴァーさんとパニエラに……」
そこでもう一度交渉をし、リョヤンとの約束を取り付け、朝方の出発時刻までには俺の元に帰ってくるはずが、関所でベンブルクの兵士に捕まってしまう。
オルバノ元王の場所を案内しろと言われて山の中を歩いていた時、キース率いる兵隊によって救われたと。
そもそも、キース達とオルバノ元王とエセルでは取り決めがされており、ベンブルク兵士に脅されればオルバノ元王の居場所を言う運びになっていた。
オルバノ元王は一時的に別の場所に隠れ、その間にエセルやキースは……。
「もういい。もういいわ!」
俺が癇癪を起こすと、エセルは「えっ?」という顔をした。
俺は頭をムシャクシャと掻き、全身悶えるように震わせてから最終形はげんなりと項垂れて落ち着く。
「す、すみません。気に触ることを言ってしまいましたか?」
「ああ、言った。言ったとも」
「で、では……私は大人しく寝てきます」
それも違うから手を取って引き続き座らせる。
彼女は説教を食らうのだと思っている。それで呼吸をするのも控えるほど静かにしていた。
せっかくのムードも何も無くなってしまったではないか。
「後ろを向け」
俺はエセルのこわばった肩に手を置き、俺に背中を向けるように仕向けた。それに抵抗せずに恐る恐るエセルが体をひねる。
彼女の結った髪が俺の目の前に現れた。
「痛かったら言えよ?」
それを合図に複雑に結われた髪の束を一つずつ解いていった。
初めは自分の後頭部に何をされているのか感覚では分からなかったらしい。しかし銀のピンや飾りを後ろから手渡されると、だんだん分かってきたと言う。
「あ、あの。これは、なぜ?」
エセルは戸惑い続けていた。
こっちは気分を害された身である。答える義理は無い。
黙っていたらエセルは自分から話し始める。
「私、ほんとに勝手なことばかりしてバル様に迷惑をかけていますよね。なので、もしもバル様が……その、別の方と一緒になりたいのでしたら、私はちゃんと身を引きますし」
ぶつぶつゴニョゴニョと声がだんだん小さくなっていく。
こんな静かな夜であるからどんな囁き声でも耳に届くが内容は聞いていられない。
少し黙れと言う代わりに、白いうなじを唇でかじった。
「ひゅあうっ!?」
聞いたことのない小動物の声かと思った。
真っ白で美味そうな、うなじは彼女の片手で隠され、真っ赤な顔をして俺を振り向いている。
「な、なな何をしたんですか!?」
「お前がまた的外れな事を言ったら本当に噛むからな」
「かっ、かっかか、か、噛んだんですか!?」
うるさいと叱って前を向くよう促す。
まったく。そんな無抵抗なものを他の男の前でちらつかせるなとも、心の中で叱ったつもりだ。
そしてまたエセルは静かになる。俺はずっと手元に集中していた。
「しっかし、なんて複雑な構成なんだ……朝日が登ってしまうぞ」
しばらくの無言を消し去るように俺から告げる。
「そんな大したものではありませんよ」
エセルは小さく笑いながら、器用にも片手を後ろに回して三つ編みの人束をすくい上げた。
そして中指を差し込んで引っ張るだけでスルスルと解いている。「ほら簡単です」と、鏡も見ていないのに言った。
「待て待て、俺がやるからじっとしているだけでいい!」
エセルは平気だと言うが、見ているこっちは痛そうでたまらない。
俺は三つ編みの先から慎重にひと束ずつ左右に動かしていった。
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