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I.不幸に見舞われた男の末路

出廷までの嫌な気持ち

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 一向に晴れない天気が続いている。この日の空模様も雨が降りそうで降らない嫌な天気だ。
 バスを降りてからは車通りの多い道に沿って歩いていた。
 車道は凸凹で今朝降った雨が水たまりになっている。そこを車が踏んで行くから、目の前の新聞配達員が飛沫の犠牲になっていた。
 苛立つ声で叫んでいる隣を素通りし、僕は例の封筒に書かれた住所に向かっている。裁判所なんて普通に生きる上では世話になることのない場所だと思っていた。
「兄ちゃん、新聞買わない?」
 住所と睨み合いながら歩いていたら新聞売りの少年が近づいていたことに気付かなかった。
 少年の売る新聞は、僕と裁判所の封筒のちょうど間に滑り込まされ、僕はビックリする拍子で受け取ってしまっている。
 顔を上げるとニッと二ヶ所抜けた歯で笑顔を見せられた。
「じゃあひとつ……」
「毎度ありっ」
 あらかじめポケットに入れてある紙幣を一枚支払った。
 少年は元気に駆けて行く。僕の後ろを歩くビジネスマンには声を掛けないで、その後ろのよれたシャツを着た中年男性に新聞を売っていた。
 その様子をぼんやり眺めていたら、僕はそのビジネスマンに颯爽と後ろから抜かれる。
「はぁ……」
 亀並みに進みだすも足取りはますます重くなった。
 思わず購入した新聞の見出し記事には「規則改正」の文字がある。そういえば路上ミュージシャンも見なくなったと思えば、その事についても書かれていた。
 ふーん。と鼻を慣らしてから新聞は一旦鞄に仕舞う。
「若者は時代にあらがって新しい商売を見つけるからすごい。あの新聞売りの少年も将来大物になって未来を作ってくれると良い」
 いきなり年寄りになってしまったみたいな物の見方でコメントし、僕は僕の薄暗い未来に向かって歩き出す他無い。
 そんな時こそ神様に救われたりするんだろうか……。
 目線を動かせばシンボルを掲げる教会はいつでも傍に建っている。だけど僕はまだ違うと思いたい気持ちがあった。

 端的に言えば「どうしたら幸せになれるだろうか」という葛藤の末、僕は目的の場所に到着した。
 しかしそれはどうだろう。
 有名ブティックや高級ブランドの宝石店と同じ並びにある。
 そびえ立つのは巨大なコンクリートビルディングだ。足元から上を見上げようとすれば、後ろに倒れてしまいそうになった。
 全ての窓にはカーテンがされている。ハトにも中を覗かせないぞと、緻密な薔薇の細工が窓の四角を囲んでいた。
 建物の良し悪しは分からないけど芸術的な建物だ。内容さえ知らなければこの街の名所に入れられるのも納得できる。
 このビルは客を呼び込むようなスタンスで構えていない。だからこそ通行人は裁判所だなんて思わずに通り過ぎることができるわけだ。
 僕も出来るなら、高級品の専用店舗ビルだとか思い続けていたかった……。
 中に入れば途端に外の車の音が遮られる。
 エントランスには受付の人だけがポツンと居て、僕と目を合わせるだけで要件はここからどうぞと伝えていた。
「受付番号はお持ちですか?」
「あ、はい」
 封筒で送られてきた用紙にすでにその番号が書いてあった。問診票を渡すみたいに用紙ごと見せると、受付の人は手元で何か照らし合わせているようだ。
 少しの待ち時間が出来る。
 かと言ってあんまり周囲をキョロキョロ見ていると、何か怪しまれるんじゃないかと変に緊張していた。
 僕が一度だけ視線を動かしたのは、近くのエレベーターがチンっと鳴らしてドアを開かせた時だ。
 仕立てたばかりのスーツを身につけた男性が僕に軽い会釈をして歩いていく。
 エントランスには幾つもの扉があった。男性がその扉の奥に消えると、また静かになる。
 二階は吹き抜けで、ここから見上げられる渡り廊下にも扉がずらっと並んでいる。どれも全部同じ扉で等間隔に並んでいた。
 エレベーターは閉まったけど一階で待機するみたいだ。数字は七階まで存在するようだった。
「こちらでお間違えないでしょうか」
 よそ見をしているうちに受付カウンターの上に見慣れない紙があった。
 フォルクス・ティナーは僕の名で、レーモンド・バティレフは目をつむりたくなる名前だ。
「間違いないです」
「では階段を登って二号室の部屋でお待ちください」
「はい……」
 手すりを掴むのも申し訳ないほど磨き上げられた階段を登る。
 あのエレベーターを使わなくても、階段でもっと上まで登っていけるみたいだ。
 もしかしたらもっと大きな罪を犯した人物が、その階で裁かれるのかもしれない。僕も罪人のうちの一人だなんて今だって信じられはしないけど。
 そんな嫌な気持ちのままで僕は二号室の扉を開けた。
 中は広かった。それに、また閉まった扉がたくさんあった。

 一番近いところのソファーに腰掛けて、とりあえず新聞の続きを読もうと思った。するとこの二号室に他の人物がいることが分かる。
「どういうことなのだ!」
 早速そんな怒った声が僕の元に届いた。
 部屋は仕切り壁があるおかげで、その人物とは対面せずに済んでいる。しかしどちらかがちょっとでも壁から顔を覗かせれば、すぐに面会できるだろう。
 僕からはそんなことはしないけど。
 一旦座ったソファーからこっそりと移動して、仕切り壁付近の丸椅子に移動した。ここなら覗き込まれない限りは見つからない。
「この私が訴訟を起こしたのだぞ!」
 荒ぶるのはレーモンド伯爵の声だ。
「申し訳ございません。ただいま裁判長に急用が入りまして」
「私の申し立てを蹴るつもりか!」
「調停会議には別の裁判官が入りますので……」
「それでは意味がないと言っているであろう!!」
 どうやら従業員と揉めているようだ。
 従業員を少し助けてあげたい気もあるけど、ここはグッと堪えて僕は丸椅子から動かない。
 実はここに来る前に医院長からアドバイスを貰っている。
「良いかい、フォルクス君。裁判所ではとにかく冷静でいる事が絶対だよ。質問には『はい』か『いいえ』で答える。それだけだ。そういう人物が好かれる場所だ」
 と、言われた。
 やっぱり医院長は何かに詳しい。
「今すぐ裁判官の名簿を持って来い! 私を侮辱した男の人生を終わらせてやる裁判だ。要領の分からん新米など集められたら敵わん!」
 薄い壁の向こうで恐ろしい話がされていた。
 まさか伯爵にそこまで執着と殺意があったなんて紙の文字では伝わらない。
 今日で僕の人生が終わりになるかもしれない。そこまで重大なことだとは考え無しに来ている。
 怒る伯爵の声を聞きながら、どうにか今からでも逃げ出せないかと考えた。今更怖くなって体が震えを起こしている。
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