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I.危機と恋心

アスタリカ警察の動き

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 あくる日の朝。さすがにゆっくり出来ない僕は早々から出掛けている。
 昨晩は暗闇で全く見えなかったけど、バスに揺られながら見られる景色は果てしない麦畑だ。少し伸びた緑の葉が延々と海のように続く絶景だった。
 同じ国でも前の日には雪で覆われる街に居たんだ。それが打って変わって土や緑を見せられていると不思議な気持ちになる。
 終点地で多くの人と一緒にバスを降りた。その目の前には巨城がそびえ立っている。
 僕は人目を避けるのではなく、わざわざ人の集まりに寄せるかのようにしながら巨城の中に入った。
 入った途端、音を吸収したかのように静かになる屋内だ。若い学者たちも会話に花を咲かせていたけど、一歩踏み入れればもう喋らなくなっていた。
 ここはアスタリカ国立図書館。
 僕にとっては二度目の来館になる。
「じゃあまた後でね」と、学者たちは別れてしまうようだった。僕はその一部に扮していたけどここまでだ。
 ならば足早に。情報が得られそうな本棚を探すことにした。
 一階層の本棚は生活や勉学など幅広い利用者の手に馴染むもの。
 階段を登った二階層は少し専門的になっていて、資格や経済、論文的な本もここにある。
 僕があの時少し気になった医学の専門書もこの階にあった。やや分厚い本を取り上げてペラペラと流し読みだけしておく。
 内容は、何となく納得させられるような。「現場ではそうは言ってられないぞ」と対抗したいような。比較的凡庸な事が書いてあった。
 ……それはまあ良いとして。
 専門書の本棚を指で追いながら隅々まで見ていき、求めている本はここには無さそうなのでもうひとつ上の階へ上がる。
 三階に置かれている本は古文書や歴史文献。貸出期間の一週間ではとても読みきれないと思う厚い本もこの辺りにあふれていた。
「おかしいな……」
 一般客が自由に行ける階層はここまでだ。
 これより上にも本はあるみたいだけど、僕が探している言語に関する文献がそんな貴重品にされているとは思えない。
「あ、そっか」
 外国の本は別館にあるんだった。出入り口を探せば別館への廊下がちゃんとある。そっちの方へ僕は行く。
 いくつもの仕切りを過ぎると一部だけ渡り廊下を歩いた。
 それは吹き抜けで本棚のない部屋だ。触れられそうなくらい近くに、あの砂時計の上層があった。今日も中の砂は下層に落ちている。
 足がすくむような高さから下を見下ろせば観光客がいるようだ。監修員も居るけど、あの時と同じ人物では無さそうだった。

 これといった情報はやはり得られなくて、僕は久しぶりの自宅へ戻るところだ。
 部屋を借りて間もないけど、すっかり覚えた道順で曲がりくねった路地を歩いていく。
 マンション街の一角で花屋を営むおばさんが「あら、おかえりなさい」と声を掛けてくれる。
 僕からも快く「ただいまです」と会釈し、にこやかにその場を過ぎた。
 エントラスの無いマンションでは青銅のアーチをくぐって中庭に入る。すると硬い靴の裏で外階段を登っていく足音が響いていた。
 他の部屋の誰かが帰ってきたんだろうと僕は思い、ちょっと顔を覗かせて上へあがる人を見てみた。
 しかしそこで僕が見たのはトレンチコートの男が複数人。僕が住む階と同じところで廊下に降り立ったみたいだった。
 靴音が消えた代わりにドアベルと大家さんの声が聞こえてくる。
「フォルクスさん。すみませんけど開けさせてもらいますね」
 部屋の中に掛ける声で、そのあと予告通りに鍵が開けられる音がした。
 勝手に人の留守中に押しかけて何をしているんだと、普通なら怒って当然だろうけど。残念ながら今の僕には心当たりしか無い。
 そっとこの場から引き返す他に選択肢を取らなかった。
「あら、忘れ物?」
 花の植え替えから顔を上げたさっきのおばさんから声を掛けられている。でも僕は何も動揺していなく自然だった。
「ええ。また戻らないといけません」
 苦笑いでペコリと頭を下げて来た道を戻っていく。
 リスクを考えれば国立図書館に向かう方が危険だ。自宅ももう捜査の手が入っているんだろうと思っていた。
 だから無事に図書館で本探しができたし、家で鉢合わせにならなかったしで、僕はとにかくラッキーだ。
 ひとりでスキップもしている。
 あの占い師に除霊してもらったのが本当に効いたのかもしれない。
 そういえば、北西の日陰の家っていういい加減なヒントだったけど、本当にアルゼレアに会えたわけだし、あながち本物だったのかな。
 路地から大通りに舞い戻ったら、僕はまた人混みに飲まれるようにして移動する。
 ちょうど朝の通勤時間にかかっていた。その濁流の一部になって僕は地上から地下への階段を滑り降り、地下鉄のホームに降り立った。
 僕が待つ田舎方面のホームは人がまばらだ。向かい側は落ちそうになるくらい人でいっぱいだけど。
 これだと売店の売り上げにも大きな差が出そうだ。それに貢献したいわけじゃないけど、僕はこの売店で売っている全ての朝刊新聞を買う。
「兄ちゃん。若いのに競馬好きかい?」
 毎度あり。の代わりにそう言われてしまった。

 景色を堪能できない地下鉄の旅では新聞がちょうどいい暇つぶしになる。
 アルゼレアや僕が、世間ではどれぐらい有名人になっているのか確認してみよう。少しワクワクして意気込んだ。
 一冊目。二冊目。
「アスタリカの国政が歪み出している」という大きな見出しが必ず目に飛び込んでくる。
 副題はエルサ教による政治への関与。重要職業の大臣にその信徒を加えるか省くかの会議が三十年も続いているらしい。
 それについては編集者ごとに辛辣な意見を並べてある。
 大変だなぁ……なんて。他人事のように思っているわけだけど、僕が過ごしていた海の向こうの国もアスタリカ帝国の統治下なはずだ。
 オクトン病院の優しい医院長や、噂好きの看護師たち。それとサンドイッチ屋のウェイトレスがいる、小さいけど豊かな国だ。
 彼らとの騒がしくも穏やかだった日常を懐かしみながら、みんな元気にしているかな。と思いを馳せた。
 そして心を温かくしたまま目線を紙面に向ければ少し温度は下がる。
「そのうち大きな戦争になったりしないで欲しいけど……」
 僕は胸の内で平和を祈りながら次のページへと進んだ。
 同じ日の、同じ時間の新聞だから書いてあることは大体一緒だ。新聞社によって異なる記事も見つかったけど、僕らのことはどれにも書いていない。
 トリスのことも何も書いていなかった。
 不安を掻き立てるような内容は書いてあっても、生物兵器の存在なんかもちろん書いてはいない。
 ……でも。記事になるまで時間差はある。だいたい事件が起こった後で載るわけだから、僕らのこともこれからなのかもしれない。
 それか単純に、僕らのことが載っていないんだから素直に喜べば良いだろう。別に世間にとって大きな問題じゃなかったってことだ。
 頭の中で意見を交わしながら、目線は冷静に新聞を眺めていた。
 表紙見出しの隅っこ。軍事演習をしたという陸軍の写真にずっと注目がいく。
「そうか……極秘の案件だったら載らないよな……」
 僕は横揺れの軋む音に紛らわせて呟いている。
 陸軍が軍事演習したって言うけど、それが何のためなのか詳細を書かずにいるのと一緒だ。それより他にも僕らの知らないところで動いているものがあるはずだし。
 そして考えれば考えるほど嫌な予感が濃厚になっていくように感じた。
 あれこれ浮かんでくる不幸を追っ払うことに夢中で、すっかり周りを見ていなかった僕だ。電車はいつのまにか終点に着いていて扉も開いていた。
 乗客はもう降車を済ませているし、この電車は折り返すとのアナウンスが流れている。
 僕は一度開いた幾つもの新聞をカバンの中にねじ込ませる。かさばってしまって手こずり、どうにかして押し込めた。
 席を立つと足元に一枚のカードを落としていた。危うく気付かずに行ってしまうところで僕は慌ててそれを拾う。
 裏表を確認したら「ああ」とひとりで言った。
 駅を出ればこれからまたバスに乗り換えてクオフさんの家に戻るわけだけど、やっぱり僕はちゃんとアルゼレアと話をしなくちゃならない。
 本当に本を解読した方が良いのか。それとも手放してしまうべきなのか。
 僕だけでは決められないことだ。そう結論が出たんだ。


(((次話は明日17時に投稿します

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