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番外編
後日譚3-2
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そして実家に到着してしまった。
家の中に車の音が聞こえているはずだから、到着したのはきっとバレている。
10秒くらい葛藤した末、諦めてまず庭に。そして玄関の扉に手を伸ばしたら、私が開けるより先に凄まじい勢いで扉がスライドして、久しぶりに会う母の顔が現れた。
「車の音がしてきっちゃんがソワソワし始めたから帰ってきたと思ったの。久しぶりに梢の方から電話かかってきたと思ったら大事な話があるって。少しくらい内容教え……て……」
そこで母の台詞は止まった。
視線が私の背後に向けられている。
しばらく硬直していた母はやがて私の手首を掴むと、おそらく全体重をかけて思いっきり私を引っ張った。
突然のことに一切反応出来なかった私はそのまま玄関に引きずり込まれ、気付けばピシャッと音がして扉はおろか鍵まで閉まっていた。
そう広くない玄関には私と母、そして外に向かって唸っている飼い犬のきっちゃんことキッシュの2人と1匹。
「久しぶりに帰ってきたと思ったら、大事な話って借金のことだったの!?」
母は私がうっかり母のお洒落着を普通の洗剤で洗い、ついでに乾燥機にかけシワシワにして怒られた過去がとても可愛く思い出される表情で私を凝視していた。
どうやら、貴也さんを借金取りのヤクザと思ったらしい……確かに間違ってはいないけど。
「いくら?何に使ったの!?そんなことになる前にどうして相談しなかったの!」
「違うって!ちょ、説明させて!」
「何が違うの!大事な話って言うから彼氏でも連れてくるんじゃないかって浮かれてた私が馬鹿みたいでしょ!」
「合ってる!それで合ってるっ!」
「やっぱり借金なの!?」
「そうじゃなくて彼氏!彼氏連れてきたの!」
そう言った直後、母の顔から感情とか表情が色々と抜けていった。
そして無言でしゃがんできっちゃんを持ち上げると、その頭頂部に顔を突っ込んだ。
「……いつもの匂い」
「……うん。そうだと思う」
母の理解の範疇を超えたのか、現実かどうか計りかねたらしい。
母はしばらく犬の頭の匂いを嗅いでいた。
「あのさ、入ってもらっていい?」
返事はない。けれどこのままでは話が進まないので、私は玄関の鍵を開けて外で呆然と突っ立っていた貴也さんに声をかける。
ついでに改めて顔、服装等々を見てみる。
我が家の洋風なのか和風なのかよくわからない庭と一般人の住まう住宅街という背景にミスマッチな、黒のスーツを着た、強面に傷痕走る男。
私にとっては見慣れた貴也さんだけど、改めて感じる違和感。
一応、服装について考えなかったわけじゃない。
試しにカジュアルにしたけどチンピラっぽくなり……街中で見かけても絶対に声はかけないだろうな、って仕上がりに。
顔の威圧感を半減させようとマスクをさせてみても、むしろ怪しさが倍増しただけだった。これで夜道を歩いていたら職質待ったなしだろうな。
というか、どうせ家に入ったら外すよね。
いっそジャージで趣味筋トレ特技筋トレの人風でいいんじゃないかとも思ったけど、さすがに親に挨拶に行くのにその格好はまずいだろうと正論を言われてしまった。
そうして1周回って、結局無難なスーツに。
まあ、貴也さんが着ると無難な感じには仕上がらないけど。
「お付き合いしてる、熊谷貴也さんです」
私が紹介すると、貴也さんは笑おうとしたのか顔の筋肉を収縮させた。
けれどそれに伴って眼光が鋭くなって、母の腕に抱かれていたきっちゃんの目まで鋭くなる。
「ほ、ほら、帰ってきたのに玄関は酷いよ。ただいまー。貴也さんも上がってください」
私は適当なことを言いながら母の腕を押す。
渋々ながら、とても抵抗を受けつつ、なんとか母を廊下まで押し込んだ。
貴也さんは母に軽く頭を下げて革靴を脱ぐと、我が家に一歩足を踏み入れた。床が軋んで、きっちゃんがいよいよ母の腕の中で唸り始める。
「気にしないでください。初めてのお客さんにはいつもこんな感じなので」
……まあ、ここまで威嚇されたのは、やたらと押しが強くてうるさかったセールスのおばちゃん以来だけど。
大抵はおやつを与えられると大人しくなる。
あとで貴也さんには餌やりしてもらおう。
「ただいまー、あれ、父さんは?」
リビングの扉を開けて中を見回したけど、父の姿がない。
休日は大抵リビングのソファーでテレビ観ながら寝てるか食卓にパソコン置いて仕事してるのに。
「お父さんなら梢が彼氏連れてくるかもってお酒買いに行ったよ。普段飲まないくせに……お茶出すから、座ってて」
母は私にきっちゃんを預けながらこっそりそう言った。
きっちゃんは久しぶりに帰ってきた私の匂いを、警戒心丸出しの顔でしきりに嗅いでいる。
「父さんちょうど出かけてるみたいで、座って待ちましょうか」
「あ、ああ……」
貴也さんは私の腕の中にいるきっちゃんをなんとも言えない目で見ている。
「前に写真見せましたよね。キッシュ君」
「ああ」
「食い意地張ってるからおやつあげれば大人しくなるかもしれないけど」
「ああ」
なんか似たようなことが前にもあった気がする。まあ貴也さんのテンションと状況は全然違うんだけど。
とりあえずきっちゃんを和ませようと犬用のおやつを2つか取ってひとつを貴也さんに渡した。
匂いを察知したのかきっちゃんはおやつを握る私の手を貴也さんの手を交互に見ている。
私はきっちゃんを床に置いて座らせた。
「はい、お手。おかわり」
きっちゃんがちゃんと交互に手を出してくれたので、私はおやつを握っていた手を広げる。
一瞬でおやつを食べ終えたきっちゃんは再び私の方を見ながらお座りをする。
「いや、私もう持ってないから……貴也さんもやってみてください」
「ああ」
貴也さんは腰を屈めてきっちゃんを見下ろす。
おやつが貰えると貴也さんの方を見たきっちゃんは……自らケージの中へと戻っていった。
うーん、あの食い意地に関しては誰にも負けないきっちゃんがおやつを前にして逃げた。さすが貴也さん……あ、これは微妙にショックを受けている顔だ。
「もう少し慣れてからにしましょうか」
今は突然の来客、しかも厳つい……の登場に驚いているのかもしれない。
そんなことを言っていたら、母がお茶とお茶請けのお菓子を私と貴也さんの前に並べてくれた。
このお茶請けの饅頭、近所の和菓子屋さんのやつだ。わざわざ買いに行ってくれてたのか。
「ありがとうございます」
そう言って頭を下げる貴也さん。母は精一杯の愛想笑いを浮かべて再び台所に戻っていった。
黙ってお茶を啜る。せっかくの饅頭も食べた方がいいだろうか、と思った時だった。
玄関の扉が開いた音がして、同時に父の声が聞こえてくる。
「母さん、表に車停まってたけどまさかもう来てるのか?」
父の声に、私と貴也さんも思わず立ち上がっていた。
玄関からドタドタと慌ただしい音がした直後、リビングの扉が開く。
「すまない。たまたま山野さんに捕まって……」
そこで父の声は止まる。
視線の先には、もちろん貴也さんが。
固まっている父に、貴也さんは一歩近付いた。
「お初にお目にかかります。梢さんとお付き合いさせていただいている熊谷と申します」
「付き合って……?」
父の手から新聞紙で包まれた日本酒か焼酎らしき瓶がするりと抜け落ちる。
「あ」
私と母がほぼ同時に、罪のないお酒の末路を想像した。
割れる……そう思ったけど、いつまでもその悲劇は起こらなかった。
「……どうぞ」
父の手から滑り落ちたはずの瓶はなぜか貴也さんが握っていた。
「割らないためとはいえ、足で申し訳ありませんでした」
見れば貴也さんの足が落下地点辺りにある。
まさか、上手いこと蹴り上げて瓶を掴んだのかな。どういう反射神経してるんだろうか。
父も返事を忘れて無言で瓶を受け取っていた。
その瓶を、いつの間にか父の背後に回り込んでいた母が掴む。
「涼しいところに置いとくよ。お父さんの分のお茶も用意するから座って待ってて」
父は小さく頷く。そして落ち着かない足取りでダイニングテーブルの方に向かっていった。
私と貴也さんもまた同じ椅子に座って、私と父と向かい合う。
父は貴也さんの方を気にしながら無言で天井の隅を見ていた。
やがて全員分のお茶が並び、母も揃う。
誰も何も言わない。膝の上で握った拳の中で手汗が凄いことになっていた。
きっちゃんがケージの中でソワソワしている音だけが聞こえてきて、緊張感が高まっていく。
そんな沈黙を破ったのは、貴也さんだった。
「梢さんを俺にください」
そう言って貴也さんは深々と頭を下げた。
父と母は目を見開いて貴也さんを凝視する。娘が男を連れてきたんだからこう言われることは想定してたと思うけど……その娘の連れてきた男が想定外だったんだろう。
まあ、私も自分の娘……はいないけど、母の立場だったら同じ反応すると思う。
「み、見た目は少し?怖いけど、家事も手伝ってくれるし頼りになる人だから!」
私からもお願いしますと頭を下げる。
娘も頭を下げたからか、困惑しながらも父が頭を上げるように言ってくれた。
「ええと、熊谷さんだったかな。不躾な質問で申し訳ないんだが職業は……」
やっぱり真っ先に聞くよねそれは。私はちらっと貴也さんを見る。貴也さんは少し悩みながらも、真っ直ぐ父の方を見た。
「神木組で幹部を勤めさせていただいています」
「く、組……」
「ええと、それは土建屋さんの重役って事でいいんでしょうか?」
母がとても聞きづらそうに貴也さんを見る。確かに建設業だとなんたら組って多いよね。いや、残念ながら2人が想像してる「組」で間違いないです。
私が小さく首を横に振ると、父の顔から生気が抜けた。
かつてない緊張感がダイニングに漂っていた。
母のお気に入りの高いグラスを割って以来の、それ以上の張り詰めた雰囲気。
「簡単に受け入れてもらえないのはわかってる。でももう、貴也さん以外の人は考えられない。だからせめて……」
「……ってくれ」
父の口から何か言葉が漏れる。それは掠れていてよく聞こえなかった。
貴也さんも聞こえなかったようで、不安げに父を見ている。
「お父さん、私にも聞こえなかったんだけど……」
母が困ったように言う。父は顔を上げた。
「帰ってくれ。可愛い一人娘をヤクザに、犯罪者には渡せん」
振り絞るような父の声。空気が凍り付いた。
母は何かかける言葉を探しているようだけど、結局何も言わなかった。
きっと母も父と同じ考えなんだろう。
大丈夫だろうかと貴也さんの方を見る。貴也さんはわかっていたからなのか、静かな表情に僅かに諦めを滲ませていた。
「……帰る」
やっぱりだめだった。普通ならそうだろう。私だって、祝福してもらえるなんて思っていなかった。
でもせめて、認めてほしかった。
父の表情を見ることはできない。代わりに母の方を見た。
「混乱させてごめん。でも、伝えたから」
立ち上がろうと机に手をついた時だった。
「待って、梢」
声を発したのは母だった。困惑しているのを誤魔化すように穏やかな笑みを作りながら、母は私と貴也さんを見ていた。
「……何?」
「せっかく帰ってきたんだから、夕飯くらい食べていったら?」
「いや、母さんそれは……」
「材料余っちゃうでしょう。梢の好きな唐揚げ作ろうと思って鶏肉でチルドがいっぱいなの」
何か言いかけた父を制して、母は貴也さんの方に視線を向ける。
「熊谷さんも、食べていってください」
家の中に車の音が聞こえているはずだから、到着したのはきっとバレている。
10秒くらい葛藤した末、諦めてまず庭に。そして玄関の扉に手を伸ばしたら、私が開けるより先に凄まじい勢いで扉がスライドして、久しぶりに会う母の顔が現れた。
「車の音がしてきっちゃんがソワソワし始めたから帰ってきたと思ったの。久しぶりに梢の方から電話かかってきたと思ったら大事な話があるって。少しくらい内容教え……て……」
そこで母の台詞は止まった。
視線が私の背後に向けられている。
しばらく硬直していた母はやがて私の手首を掴むと、おそらく全体重をかけて思いっきり私を引っ張った。
突然のことに一切反応出来なかった私はそのまま玄関に引きずり込まれ、気付けばピシャッと音がして扉はおろか鍵まで閉まっていた。
そう広くない玄関には私と母、そして外に向かって唸っている飼い犬のきっちゃんことキッシュの2人と1匹。
「久しぶりに帰ってきたと思ったら、大事な話って借金のことだったの!?」
母は私がうっかり母のお洒落着を普通の洗剤で洗い、ついでに乾燥機にかけシワシワにして怒られた過去がとても可愛く思い出される表情で私を凝視していた。
どうやら、貴也さんを借金取りのヤクザと思ったらしい……確かに間違ってはいないけど。
「いくら?何に使ったの!?そんなことになる前にどうして相談しなかったの!」
「違うって!ちょ、説明させて!」
「何が違うの!大事な話って言うから彼氏でも連れてくるんじゃないかって浮かれてた私が馬鹿みたいでしょ!」
「合ってる!それで合ってるっ!」
「やっぱり借金なの!?」
「そうじゃなくて彼氏!彼氏連れてきたの!」
そう言った直後、母の顔から感情とか表情が色々と抜けていった。
そして無言でしゃがんできっちゃんを持ち上げると、その頭頂部に顔を突っ込んだ。
「……いつもの匂い」
「……うん。そうだと思う」
母の理解の範疇を超えたのか、現実かどうか計りかねたらしい。
母はしばらく犬の頭の匂いを嗅いでいた。
「あのさ、入ってもらっていい?」
返事はない。けれどこのままでは話が進まないので、私は玄関の鍵を開けて外で呆然と突っ立っていた貴也さんに声をかける。
ついでに改めて顔、服装等々を見てみる。
我が家の洋風なのか和風なのかよくわからない庭と一般人の住まう住宅街という背景にミスマッチな、黒のスーツを着た、強面に傷痕走る男。
私にとっては見慣れた貴也さんだけど、改めて感じる違和感。
一応、服装について考えなかったわけじゃない。
試しにカジュアルにしたけどチンピラっぽくなり……街中で見かけても絶対に声はかけないだろうな、って仕上がりに。
顔の威圧感を半減させようとマスクをさせてみても、むしろ怪しさが倍増しただけだった。これで夜道を歩いていたら職質待ったなしだろうな。
というか、どうせ家に入ったら外すよね。
いっそジャージで趣味筋トレ特技筋トレの人風でいいんじゃないかとも思ったけど、さすがに親に挨拶に行くのにその格好はまずいだろうと正論を言われてしまった。
そうして1周回って、結局無難なスーツに。
まあ、貴也さんが着ると無難な感じには仕上がらないけど。
「お付き合いしてる、熊谷貴也さんです」
私が紹介すると、貴也さんは笑おうとしたのか顔の筋肉を収縮させた。
けれどそれに伴って眼光が鋭くなって、母の腕に抱かれていたきっちゃんの目まで鋭くなる。
「ほ、ほら、帰ってきたのに玄関は酷いよ。ただいまー。貴也さんも上がってください」
私は適当なことを言いながら母の腕を押す。
渋々ながら、とても抵抗を受けつつ、なんとか母を廊下まで押し込んだ。
貴也さんは母に軽く頭を下げて革靴を脱ぐと、我が家に一歩足を踏み入れた。床が軋んで、きっちゃんがいよいよ母の腕の中で唸り始める。
「気にしないでください。初めてのお客さんにはいつもこんな感じなので」
……まあ、ここまで威嚇されたのは、やたらと押しが強くてうるさかったセールスのおばちゃん以来だけど。
大抵はおやつを与えられると大人しくなる。
あとで貴也さんには餌やりしてもらおう。
「ただいまー、あれ、父さんは?」
リビングの扉を開けて中を見回したけど、父の姿がない。
休日は大抵リビングのソファーでテレビ観ながら寝てるか食卓にパソコン置いて仕事してるのに。
「お父さんなら梢が彼氏連れてくるかもってお酒買いに行ったよ。普段飲まないくせに……お茶出すから、座ってて」
母は私にきっちゃんを預けながらこっそりそう言った。
きっちゃんは久しぶりに帰ってきた私の匂いを、警戒心丸出しの顔でしきりに嗅いでいる。
「父さんちょうど出かけてるみたいで、座って待ちましょうか」
「あ、ああ……」
貴也さんは私の腕の中にいるきっちゃんをなんとも言えない目で見ている。
「前に写真見せましたよね。キッシュ君」
「ああ」
「食い意地張ってるからおやつあげれば大人しくなるかもしれないけど」
「ああ」
なんか似たようなことが前にもあった気がする。まあ貴也さんのテンションと状況は全然違うんだけど。
とりあえずきっちゃんを和ませようと犬用のおやつを2つか取ってひとつを貴也さんに渡した。
匂いを察知したのかきっちゃんはおやつを握る私の手を貴也さんの手を交互に見ている。
私はきっちゃんを床に置いて座らせた。
「はい、お手。おかわり」
きっちゃんがちゃんと交互に手を出してくれたので、私はおやつを握っていた手を広げる。
一瞬でおやつを食べ終えたきっちゃんは再び私の方を見ながらお座りをする。
「いや、私もう持ってないから……貴也さんもやってみてください」
「ああ」
貴也さんは腰を屈めてきっちゃんを見下ろす。
おやつが貰えると貴也さんの方を見たきっちゃんは……自らケージの中へと戻っていった。
うーん、あの食い意地に関しては誰にも負けないきっちゃんがおやつを前にして逃げた。さすが貴也さん……あ、これは微妙にショックを受けている顔だ。
「もう少し慣れてからにしましょうか」
今は突然の来客、しかも厳つい……の登場に驚いているのかもしれない。
そんなことを言っていたら、母がお茶とお茶請けのお菓子を私と貴也さんの前に並べてくれた。
このお茶請けの饅頭、近所の和菓子屋さんのやつだ。わざわざ買いに行ってくれてたのか。
「ありがとうございます」
そう言って頭を下げる貴也さん。母は精一杯の愛想笑いを浮かべて再び台所に戻っていった。
黙ってお茶を啜る。せっかくの饅頭も食べた方がいいだろうか、と思った時だった。
玄関の扉が開いた音がして、同時に父の声が聞こえてくる。
「母さん、表に車停まってたけどまさかもう来てるのか?」
父の声に、私と貴也さんも思わず立ち上がっていた。
玄関からドタドタと慌ただしい音がした直後、リビングの扉が開く。
「すまない。たまたま山野さんに捕まって……」
そこで父の声は止まる。
視線の先には、もちろん貴也さんが。
固まっている父に、貴也さんは一歩近付いた。
「お初にお目にかかります。梢さんとお付き合いさせていただいている熊谷と申します」
「付き合って……?」
父の手から新聞紙で包まれた日本酒か焼酎らしき瓶がするりと抜け落ちる。
「あ」
私と母がほぼ同時に、罪のないお酒の末路を想像した。
割れる……そう思ったけど、いつまでもその悲劇は起こらなかった。
「……どうぞ」
父の手から滑り落ちたはずの瓶はなぜか貴也さんが握っていた。
「割らないためとはいえ、足で申し訳ありませんでした」
見れば貴也さんの足が落下地点辺りにある。
まさか、上手いこと蹴り上げて瓶を掴んだのかな。どういう反射神経してるんだろうか。
父も返事を忘れて無言で瓶を受け取っていた。
その瓶を、いつの間にか父の背後に回り込んでいた母が掴む。
「涼しいところに置いとくよ。お父さんの分のお茶も用意するから座って待ってて」
父は小さく頷く。そして落ち着かない足取りでダイニングテーブルの方に向かっていった。
私と貴也さんもまた同じ椅子に座って、私と父と向かい合う。
父は貴也さんの方を気にしながら無言で天井の隅を見ていた。
やがて全員分のお茶が並び、母も揃う。
誰も何も言わない。膝の上で握った拳の中で手汗が凄いことになっていた。
きっちゃんがケージの中でソワソワしている音だけが聞こえてきて、緊張感が高まっていく。
そんな沈黙を破ったのは、貴也さんだった。
「梢さんを俺にください」
そう言って貴也さんは深々と頭を下げた。
父と母は目を見開いて貴也さんを凝視する。娘が男を連れてきたんだからこう言われることは想定してたと思うけど……その娘の連れてきた男が想定外だったんだろう。
まあ、私も自分の娘……はいないけど、母の立場だったら同じ反応すると思う。
「み、見た目は少し?怖いけど、家事も手伝ってくれるし頼りになる人だから!」
私からもお願いしますと頭を下げる。
娘も頭を下げたからか、困惑しながらも父が頭を上げるように言ってくれた。
「ええと、熊谷さんだったかな。不躾な質問で申し訳ないんだが職業は……」
やっぱり真っ先に聞くよねそれは。私はちらっと貴也さんを見る。貴也さんは少し悩みながらも、真っ直ぐ父の方を見た。
「神木組で幹部を勤めさせていただいています」
「く、組……」
「ええと、それは土建屋さんの重役って事でいいんでしょうか?」
母がとても聞きづらそうに貴也さんを見る。確かに建設業だとなんたら組って多いよね。いや、残念ながら2人が想像してる「組」で間違いないです。
私が小さく首を横に振ると、父の顔から生気が抜けた。
かつてない緊張感がダイニングに漂っていた。
母のお気に入りの高いグラスを割って以来の、それ以上の張り詰めた雰囲気。
「簡単に受け入れてもらえないのはわかってる。でももう、貴也さん以外の人は考えられない。だからせめて……」
「……ってくれ」
父の口から何か言葉が漏れる。それは掠れていてよく聞こえなかった。
貴也さんも聞こえなかったようで、不安げに父を見ている。
「お父さん、私にも聞こえなかったんだけど……」
母が困ったように言う。父は顔を上げた。
「帰ってくれ。可愛い一人娘をヤクザに、犯罪者には渡せん」
振り絞るような父の声。空気が凍り付いた。
母は何かかける言葉を探しているようだけど、結局何も言わなかった。
きっと母も父と同じ考えなんだろう。
大丈夫だろうかと貴也さんの方を見る。貴也さんはわかっていたからなのか、静かな表情に僅かに諦めを滲ませていた。
「……帰る」
やっぱりだめだった。普通ならそうだろう。私だって、祝福してもらえるなんて思っていなかった。
でもせめて、認めてほしかった。
父の表情を見ることはできない。代わりに母の方を見た。
「混乱させてごめん。でも、伝えたから」
立ち上がろうと机に手をついた時だった。
「待って、梢」
声を発したのは母だった。困惑しているのを誤魔化すように穏やかな笑みを作りながら、母は私と貴也さんを見ていた。
「……何?」
「せっかく帰ってきたんだから、夕飯くらい食べていったら?」
「いや、母さんそれは……」
「材料余っちゃうでしょう。梢の好きな唐揚げ作ろうと思って鶏肉でチルドがいっぱいなの」
何か言いかけた父を制して、母は貴也さんの方に視線を向ける。
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