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第五章 「隠遁する者」

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 フロスが生まれたのは、帝国の傍の小さな里だったらしい。
 アルタイ族は犬や鳥と異なり繁殖という行為なしに生まれてくる。ある者は地中から突然生えるようにして、ある者は大雨の翌日に水の中に浮かんでいたり、ある者は殺されたアルタイ族の死体の下からい出てきた。
 ウッド自身は聞くところによると、メノの里の傍の森の中を歩いていた行商に見つけられたらしい。だからアルタイ族の誕生は神の御業と言われ、その命は大切に扱われる。
 拾われて一年もすれば言葉を解し、軽い狩猟に連れて行くことも出来るくらいにはなる。十歳になれば骨格が出来上がり、体の大きさも成体と大差ないくらいにまで成長する。そしてこの頃までに基礎的なアルタイ族としての「強さ」は決している、といってもいい。

 フロスもそれまでの英雄たちと同じく、突出した戦闘の才を発揮したという。特に相手と対峙した時の勘の鋭さと動体視力が優れていて、フロスによれば「誰もが何故それほどゆっくりと攻撃してくるのか分からなかった」と。戦いに優れたアルタイ族の戦士は、いずれ帝国へと向かうことになる。
 彼もウッドがそうしたように、己を試したくて、もっと“戦っている実感”が欲しくて帝国を目指した。その帝国では彼と同じく若くして強い戦士がいた。遠くの田舎の里から出てきたという、その若者は、それまでその強さの為に孤独だったフロスが初めて“同類”だと感じたアルタイ族だった。それが後のメノの里の長シーナだった。

「今思えば、あの頃が一番楽しかったかも知れない。何も考えず、ただ毎日のように奴と競い合うように戦いを繰り返した。西へ行っては荒くれ者を討伐し、東へ行っては飢饉ききんの里を救った」

 帝国軍として働き始めたフロスたちは、だがやがて互いの生きる道を左右する出来事に遭遇した。それがペグ族との出会いだった。

「わしらは研究所からのある密命を受けて、最果ての地を目指しておった」

 最果ての地とは、絶望の砂漠がこの世界の西端とすれば、北の果てにあると云われる極寒の大地のことだ。

「一緒に出た時はわしら以外に十体いたが、気がつけばわしとシーナだけになってしまっておった」

 最果ての地へ向かう道中は、それこそ誰かの意図が働いているのか、と思うほど険しい道のりだったそうだ。突然の崖崩れに鉄砲水、落雷、山火事、砂嵐……数え上げればきりがない。そんな場所を突破出来る彼からしてみれば、絶望の砂漠などはいい運動になる程度のものだったのかも知れない。

「気がつけば、高い山の頂にほど近かった」

 ――それは突然聴こえてきた。

 フロスはもうウッドに対して話しているのではないようだった。視線はどこか遠くを見、言葉は独白のように己に確認しながら続いていった。

「あれが『歌』というものだと知ったのは、随分ずいぶんと後になってからだ。その当時はペグ族の存在なんて、御伽噺おとぎばなしのようなものだと思っておったからな」

 初めて耳にするそれにフロスもシーナもただただ驚くばかりで、何をすることも出来なかった。

「最初は鳥の声かと思ったよ。だが鳥などいない。風か。いや違う。その音の正体を探すわしの前に、彼女は突然現れたんだ」

 頂でぽんと突き出たその先端に、彼女は座っていた。背中の半透明の翼を思い切り伸ばし、空に向けて歌っていた。本来なら随分と小さなはずのその体が、この時ばかりはとてもまぶしく大きく見えたものだ。フロスの目にはその時の情景が思い出されているようだ。

「あれこそ『歌』だった」

 何度もそうつぶやき、フロスは笑った。ウッドはその表情に何故か嫉妬した。自分もその瞬間に立ち会いたかったと思ったのだ。

「シーナもわしも、動けなかった。手を伸ばした瞬間にそれが消えてしまいそうな、そんな不安に襲われたのだ。夢かも知れない。そうとしか思えなかった」

 夢。そう言えばウッドはここ数日、ずっと見ていなかった。夢を見る余裕すら無かったのかも知れない。

「わしはその時、この命が終わるまで永遠にその夢が続けばいい。心の底からそう思ったよ」

 けれど永遠なんてものはこの世界に存在しない。そう言い切ったフロスはふっと一瞬だけ視線を眠っているネモの方に投げ掛けた。

「それは突然終わりを告げたよ。それも思ってもみなかった形でな」

 フロスはウッドと改めて視線を合わせ、覗き込むように注視してからその視線を逸らした。

「シーナが裏切ったのだ」
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