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 どれくらいの時間が経ったろう。一分くらいだろうか。それとももっと長かったのか。大悟が見上げているのは同じ図書室の天井だ。黒ずんだ木の板が綺麗に並んでいる。
 けれど彼の視界は天井よりもずっと自分に近い、その大きな瞳のついた人間の頭部に集中していた。

「大丈夫、ですか?」

 何て優しい声なんだろう。温かく、肌触りの良い毛布に顔を埋めたような、そんな心地になる。それは妖精の囁きだった。
 大悟は森ノ宮静華の、心配そうに見つめる顔を見上げていた。そう。見上げている。なら大悟の後頭部は床の上だろうか。それにしては痛みを感じない。冷たさもない。そこは硬いどころか寧ろクッションのように柔らかい。
 森ノ宮静華にこんなにも見つめられた経験は過去にない。しかも何だかとても良い香りだ。妖精、天使、女神。誰もが彼女を称える。当然大悟も彼女に対して憧れがあったが、それでもこんな風に声を掛けてもらえるような存在ではないと自覚している。
 その森ノ宮静華の大きな黒目と、ばっちり目が合った。

「気が付かれました?」

 夢ならこのまま覚めないで欲しいところだが、大悟の推測通りなら流石にこの状態を維持する訳にはいかない。

「あ、あの、す、すみません」

 慌てて体を起こすと、立ち上がって彼女から距離を取る。その身のこなしに彼女は口に手を当て、瞳を大きくして驚いていたが、驚くべきなのは大悟の方だ。彼女はこの古い木の床板の上で正座をしている。というのも大悟を直接、床で寝かさない為だ。つまりつい今し方まで大悟は森ノ宮静華の膝枕にお世話になっていた。どんなに願っても叶わない、正に夢のようなシチュエーションが繰り広げられていた訳だが、その夢心地よりも彼女に迷惑を掛けてしまったんじゃないかという心配の方が先にあった。

「大丈夫ですか?」
「あ、はい。全然、何も触ってないです」
「え?」
「あ、いえ、その……大丈夫です」

 よく見ると正座をしている彼女の周囲には崩れてきた本が散らばっていた。

「その、森ノ宮さんの方こそ、お怪我はありませんでしたか?」

 蛍光灯が明滅して彼女がまるで発光したかのように光る。照らされた彼女の丁寧に編み込まれた髪の毛はややほつれ毛が見えたが特に血が滲むなどしている様子はなく、つるりとした額や主張の強い眉、大きくて潤いのある二重の眼差し、通った鼻、きゅっと結ばれた血色の良い唇、その右側に小さなホクロがあり、顎もすっと整っている。白いシャツに赤いタイといった上半身、その袖から伸びた美しい腕、所在なさげに宙に浮いている手、紺色のスカートがその太腿を隠していたが、どこも怪我をしているようには見えない。制服にしわこそあるが、破れていたり、血が付着していたりといったものは見受けられない。いつもと変わりのない美しい森ノ宮静華のそれだ。
 大丈夫だ、と判断し、ほっと胸を撫で下ろす。

「あ、傷から血が」

 しかし大悟の方はどうやら無事という訳にはいかなかったようで、右手で額に触れると前髪の境目の端の方で血が滲んでいるのが分かった。

「こんなものは水道水で洗えば良いです」
「いえ、それはいけません。ちゃんと手当しないと駄目ですよ」

 そんな彼に対し、彼女はぴしゃりと言い切る。生傷が絶えない大悟に対して姉はそこまで心配しないが、やはり森ノ宮静華ともなると小さな傷一つであっても一大事に捉えるのかも知れない。その心遣いも正に女神で、

「いや、けどこれくらいは日常茶飯事で」

 大悟は恐縮しつつ何とか断ろうと思ったが、

「さあ、保健室に行きましょう」

 そんな大悟の手を、さっと立ち上がり、彼女が掴んだ。
 
 ――柔らかい。
 
 男性のそれとは違う。母親のものとも異なる。自分と同世代の、女子の手だった。その上彼の手を握ったということは当然二人の距離も縮まっている。

「あ、その」

 彼女特有の柑橘系だけれど微かに甘い匂いが鼻腔に入り込む。大悟は自分の鼓動が早鐘を打ち始めたのが分かった。
 と、その刹那、明かりが消えた。暗闇が二人を襲う。

「きゃあ」

 声を上げたのは森ノ宮静華だった。その叫び声に不謹慎にも「あの妖精でもその辺りにいる女子生徒とそう変わらない悲鳴なんだな」と思ってしまった。大悟は「大丈夫」と言おうとして、森ノ宮静華の体が自分により掛かり、その胸元に頭を預けてきたのが分かって、思わず口ごもった。

「も、森ノ宮さん?」
「すみません。暗い場所は昔から苦手なのです」

 彼女を抱き締めるような形になり、大悟は自分の両腕の置き場をどうすべきか迷った。彼女を安心させるためにその肩や背中に回しても良いものだろうか。けれどそんなことをして嫌がられでもしたら最悪だ。
 結局宙ぶらりんのまま手を開いて固まってしまった。

「停電かな」
「だと良いのですが」

 自分の胸元で森ノ宮静華の声がする。彼女の甘い匂いがする。大悟は冷静でいられなくなりそうな自分に落ち着くように言い聞かせ、それから「ちょっとごめん」とぴったりと頭を付けていた彼女の顔を上げさせると、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。画面を点け、簡易の懐中電灯代わりにする。その明かりは不安な表情の彼女を闇に浮かび上がらせた。当然自分の顔も彼女に見えただろう。その黒目が大悟を捉えると僅かに安心したように表情が緩んだのが分かった。

「あ、私も出します」

 そう言って彼女は大悟から離れると、自分のスマートフォンを取り出して点けた。明るくなったそれに触れ、何か操作をする。

「駄目ですね。圏外になっています」
「ほんとだ。それじゃあ学校が停電しただけ、という訳じゃなさそうだな」

 彼女に言われて確認したが大悟の物も圏外だ。電波が届かないということは単純な停電ではなく、都市全体の大規模停電という可能性もある。そうだとすると簡単には復旧しないだろう。
 参ったな――という感情を押し殺し、大悟はスマートフォンの明かりを頼りに周囲を確認した。

「ここには俺たちだけみたいだな」
「ええ」
「とにかく、出た方がいいか」

 彼女が付いてくるのを確認しながら足元に注意し、入口の方へと向かう。ひょっとしたら地震でもあったのだろうか。さっき彼女に本が倒れてきたのがその影響かも知れないと考えたが、それにしては何も感じなかったし他に崩れている本棚もない。
 
 カウンターのところまでやってくると、大悟は森ノ宮静華が一冊の本を抱えていることに気づいた。こんな時でも借りていこうというのだろうか。彼女は「ちょっと待ってて下さい」と言い、停電の最中にカウンターで貸出処理をしている。真面目、というには律儀すぎる。

「おまたせしました」
「それじゃあ」

 大悟はやや呆れつつも彼女に向けて笑顔を作ると、確認するようにそう言ってから入口の戸に手を掛けた。

「あれ」

 動かない。

「おかしいな」

 大悟はスマートフォンをカウンターに置き、両手で思い切り動かしてみる。力自慢をする訳ではないが、それなりに体力と腕力は人並みならぬものがあると自負していた。だがその彼をもってしても戸はぴくりとも動かなかった。

「誰か鍵を掛けていった、ということ?」
「さあね」

 そういう感触ではない。もっと別の何かだ。そもそも森ノ宮静華以外の気配を、大悟は感知していなかった。仮に誰かが大悟たちに気づかれないように施錠していったとすれば、それは並の人間ではないことになる。

「ささやき幽霊、か」

 思わずそんな言葉を呟いてしまったが森ノ宮静華の耳には届いていないようだ。

「それでは停電から復旧するか、誰か助けが来るまでここで二人きりで待つしかないんですね」

 そう言うと彼女はスマートフォンの電源を切り、カウンターを背にしゃがみ込む。
 単純な停電。その可能性は徐々に大悟の中で低くなってきていた。姉は先程からずっとだんまりを決めたままだが、森ノ宮静華がいる前で話しかける訳にもいかない。
 大悟も彼女に倣い、座り込んでいる森ノ宮静華から三十センチほどの距離を取り、腰を下ろした。その距離が正しかったかどうかは分からないが、一瞬彼女が不満そうに大悟を見上げたことだけは確認出来た。
 外では雨が降り始めたようだ。窓に打ち付ける音が徐々に激しくなり、遂には稲光が閃いた。

「あっ」

 という彼女の声に続いて、雷鳴が部屋を揺らす。悲鳴こそ上げなかったが森ノ宮静華は大悟の方に体を寄せ、その左腕を両手で掴み、ぴったりと彼に寄り掛かった。
 ふわり、と甘い香りが漂う。これは彼女の香水の匂いなのだろうか。けれど学内で香水なんて使っていれば教師に注意されてしまう。それならシャンプーかボディソープ、そういった類に彼女の体臭が混ざり合い、こんなにも甘く夢心地にさせる芳香となっているのだろう。正に妖精と云えた。
 暗闇が、大悟の神経を高ぶらせているからか、それが今は普段よりも強く、より甘く感じられた。続いて聞こえるのは彼女の吐息だ。

「ねえ」
「な、何?」
「もしこのまま、ずっとここに私たち二人きりだとしたら、どうなるんでしょうか」

 何を言っているのだろう、と姉に対してなら呆れて言い返すところだが相手が森ノ宮静華となれば話は別だ。

「流石に誰かが助けに来るさ」
「でも、その保証はありません」
「そうなったら俺がドアでも窓でもぶち破って外に出してやるよ。心配ない」
「……ごめんなさい」

 彼女も緊張しているのだろう。それにやはり暗闇に閉じ込められるというのは想像以上に神経が高ぶるものだ。彼女は暗闇が苦手だとも言っていた。

「仕方ないよ、こんな状況だ」
「そうですね」

 小さな溜息が、それでも大悟の左耳でしっかりと聞き取れる。森ノ宮静華は何も言わずに体を寄せると体育座りで膝を抱え、もう一つ溜息を落とした。

「あの」
「あの、さ」

 二人の声が重なる。

「あ、俺はいいから、森ノ宮さん、どうぞ」
「いえ、私は別に何でもないんです。ただ、土筆屋君がいるのを確かめたくて」
「ああ、そうか。大丈夫。俺なら、ずっと傍を離れずにいるから」

 
 ――ありがとう。
 
 それはほぼ吐息百パーセントといっていい、彼女の感謝の声だった。それから一秒と経たずに更に彼女が近づくのが分かった。体温を、感じたのだ。シャツから露出した左腕にじっとりと汗ばむ彼女のシャツとそこから伸びた腕が、絡んでいる。
 大悟は自分の鼓動が制御できなくなっているのを感じ、何とか落ち着けようと別の話題を考える。

「ところで、その本」

 タイトルすら見えなかったし、何について書かれたものなのか、そもそも小説なのか図鑑なのか資料やルポタージュのようなものなのか、あるいは伝記か、それすらも大悟は知らないまま尋ねた。だが彼女の口から出てきたのは、意外な言葉だった。

「陰陽師、気になりませんか?」
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