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第一章 「もう恋なんてしない」

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 二十四インチのモニタいっぱいに真っ白な原稿用紙が表示されていたが、まだ一文字としてそのマス目が埋められていない。画面の下部にあるデジタル時計が「9:58」へと変化し、もう二時間ほど無為な時間を過ごしてしまったことを原田貴明はらだたかあきに教えていた。外は雪でもちらついているだろうか。カーテンが閉め切られたままで窓の外は分からない。かと言って、原田には椅子から立ち上がり、わざわざそれを開けてまで確認しようという意思はない。
 暖房はゆるりと効いていて、小腹の空いた原田にとってはやや眠気を誘う。ああ、と溜息なのか欠伸なのかよく分からないものを吐き出すと、改めて部屋を見回した。

 十二畳程度の広さだ。そこに仕事用のパソコンデスクと、食事兼用の一人用のテーブルと椅子、本棚は天井までの大きなものが二セット並んでいる。テレビの前に白いソファがあるが、ほとんど座ることはなく、ゲームの趣味もオーディオの趣味もない原田はそれ以外のものを置いていないというシンプルさだ。
 少し頭を左右に傾けてから、肩を回す。次いで、両腕を挙げて伸びをした。うわぁ、という声を漏らすが自分一人しかいないので誰も何も言ってこない。
 一人、という居心地の良さにあぐらをかいて、部屋着はジャージの下と薄くなったピンクのだぼっとしたスウェットの上着だった。それも右側の袖のところが少し、ほつれている。

 ――浮かばない。

 書ける時にはスイッチが切り替わったように文章が浮かんでくるのだが、目を閉じても何の変化も感じられなかった。こういう日は無理だと素直に諦めた方が良いことを、原田は経験的に知っている。

「よし」

 声を出して立ち上がる。そうでもしないと慢性的に軽い腰痛を抱えた体が持ち上がらない。医師からは「運動不足はいけないよ」と散々注意されていたが、どうにも動こうという気持ちは湧いてこない。担当編集からは「整体いいですよ」と言われるが、それも気が乗らない。
 そもそも引きこもりに近く、あれこれとアクティブに活動できるようなタイプでは、元々ないのだ。そう自分に言い訳をして、いつも自室でだらりと時間を過ごしてしまうことが多かった。

 マウスを操作してメールソフトを立ち上げる。それが画面に表示される前に奥のキッチンへと向かった。確かコーヒーメーカーのポットにまだ残りがあったはずだ。

「……うむ」

 メタリックなボディのそれからちょろちょろという音と共に濃いチョコレート色が滴った。しかしカップに小さな水たまりが出来る程度の分量だ。どうしようもないな、という気持ちでそれを飲み干してしまうと、シンクにカップを置き、パソコンの前へと戻った。

 画面にはずらりと『村瀬ナツコ』という名前が並ぶ。時間を確認すると十五分毎に同じ件名でメールが送られていることが分かる。中身は見なくても分かっている。どれもテンプレートな書き出しの「結城貴司先生、お疲れ様です」で始まる、原稿催促の内容だ。

「そうだな」

 自分を納得させる為にそう頷くと、原田はパソコンをスリープモードにする。
 右手のベランダの窓のカーテンを少し開けると明るい日差しが入ってきた。もう世間は活動的な時間帯に入っている。
 原田は棚の上に常備されているマスクケースから一枚を取り出し、続いて壁のハンガーに引っ掛けたコートを手に、袖を通す。リモコンで暖房の電源を切り、それから床に置いた思いの外大きな図体の加湿器に視線を向ける。動いていない。
 キッチンは使っていないし、コーヒーメーカーは電源は落としてある。あとは部屋の明かりを消して、準備は完了だ。
 鍵を持ち、玄関に向かう。

 こうやって一つ一つを確認するのは、原田の癖だった。細かい、と女性から指摘されたことは多々あるが、神経質な彼にとって確認が漏れていることの方が大きなストレスだ。

 エレベータで五階から一階まで降りると、玄関ホールで郵便配達の男性に遭遇した。封書を手にポストを確認していたが「502号室」にそれを差し込んだのを見ると原田は一瞬足を止める。手に取るべきだろうか。ただ論壇社ろんだんしゃの刻印が視界を掠めたので後回しでいいと自分に言い訳をして玄関を出た。

 外の空気はやはり冷たく、吸い込むと喉がやられてしまいそうなほどに乾燥している。
 車が二台なんとかすれ違える路地だが、先程の郵便配達員のバイクが去って行った以外に人は見つけられない。通勤時間はすっかり終わり、誰もが働いている時間帯だ。そんな中、こうして何か食べに出てくるのは自分のような個人事業主くらいだろうと、原田は苦笑する。
 いくつか候補を思い浮かべながら歩き出すが、結局行く店は決まっている。

 ――今日もパンケーキかな。

 そこは最近よく通っている喫茶店の一つだった。
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