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第二章 「ナチュラルに恋して」

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「ちょっとぉ、どこまで行くの?」

 原田は周囲を確認して、人気がなくなったところで溜息をついた。

「ねえってば!」
「あのな。もう忘れたのか?」

 既に喫茶ブラウンシュガーからは五分以上歩いている。住宅街の路地をバイクが一台通り抜けただけだ。

「アタシさ、まだバイト中なんだけど?」

 愛里は眉根まゆねを寄せ、その大きな瞳を原田に向けた。

「いやだからさ……僕は原田貴明はらだたかあきであって結城貴司ゆうきたかしじゃない。外で先生と呼ぶのはよしてくれないか?」
「別にセンセはセンセだからいいじゃん。それよりなんでアタシのこと助けてくれなかったの? さっき見たでしょ? 祐介にアタシ、振られそうなの。捨てられそうなのよ。どうにかならないの? あの小説みたく、魔法の言葉とかでさ」
「小説は魔法の言葉なんて使っていない」
「けど……アタシはあれを読んで自分が祐介と同棲した三ヶ月の間、ちゃんと恋愛をしてたんだって思えたよ? 喜んで、悩んで、苦しんで、一緒に笑って、抱き合って、温もりを確かめ合う。同じ空気を吸うことが恋愛だって書いてたじゃん!」

 彼女は大声でそう言い切ると、その目にあふれそうなほどの涙をたたえていた。
 原田はハンカチを取り出す。
 それを何も言わずに受け取ると、愛里は目元に押し付けた。

「化粧落ちるぞ」
「別にアンタは困らないでしょ。それに顔なんていくらでも作り直せる。祐介はね、目が大きくて唇がぼてっとした子が好きなんだ。だから睫毛まつげもたっぷり乗せて、口紅も大きめに塗るの」

 レモングリーンのハンカチは、彼女のシャドウがべったりと着いて黒ずんでしまっていた。

「ところでさ、昨日のアレなんだけど」
「何?」
「まだ君、あのバイト先の男に未練があるんだろう?」

 鼻をすすながら愛里は頷く。

「だったら、僕が教えられることは何もないよ」
「はぁ!?」
「だってそうだろ? 恋愛っていうのは当人たちの問題で、他人がどうこう言ってみたところでどうにもならないんだよ。アドバイスなんてするだけ無駄。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ、という都々逸どどいつがあってね」

 言葉の意味が分からないのだろう。ただぽかんと開けていた口は徐々に閉じていき、やがて彼女の顔色が変わった。

「ちょっと! 恋愛教室してくれるって言ったじゃん! 恋の苦しみからアタシを助けてくれるんじゃなかったの!?」
「だから、君はまだ恋愛中なんだろ? だったらその恋を最後までやり切ればいいじゃないか。良い経験になるよ、振られたとしても」

 そう言った原田に愛里は顔を近づける。明らかに怒っている。

「ひっど。あんたそれでも恋愛小説家なの?」

 自分をにらみつける彼女の目を見て、ここは悪役に徹しようと原田は腕組みをした。

「作家なんてね、所詮しょせんは登場人物たちを不幸にして楽しんでいる下賤げせんな種族なんだよ。他人の不幸ほどみんな読みたがるからね。で、最後の最後だけちょこっと幸せっぽい雰囲気で終わらせておけば、みんな泣いてくれる。こんなに楽な仕事はないよ」

 白塗りをした上からでも分かる彼女の目元の赤みだった。涙がふくらんでいき、すっと落ちた。

「分かっただろ。こんな僕から恋愛を学ぼうとしたって、また君が泣くだけさ。だからさっさとバイトに戻りなさい」

 これで解放される。
 そう思った時だった。

「あー! 先生!」

 振り返らなくても分かる。
 原田はあきらめたように溜息をつくと、その声の主に視線を向けた。

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