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第三章 「恋心」
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ちょうどその頃、原田貴明は胃の痛い思いを抱えて帰宅するところだった。
この数時間前、彼は村瀬ナツコに呼び出され、駅から徒歩五分ほどのところにあるいつもの喫茶店で打ち合わせを行っていた。最近は原田の部屋まで彼女が来ることが多かったから珍しいなとは思ったけれど、愛里のこともあるし、少し気を利かせたのかなと考えていたが、いざ到着してみると、そこには村瀬ナツコだけではなく、浅黒い肌にやたらと並びの良い白い歯が目立つ編集長の岩槻が待っていたのだ。
――今日はいい話もあるんで楽しみにしててください。
そんなメッセージが最後の方に書かれていたことを思い出したが、編集長を連れてくるという意味だったのだと、後になって思い知った。
二人の話は先日、村瀬ナツコに結城貴司がどれほど読者を待たせているのかということについて滾々と説教されてしまい、仕方なく短編小説を書くことを約束してしまったことについてだった。
あれやこれやと読者からの葉書やメール、中には手作りの小物だったり、聖地巡礼に行ってきたという写真だったりを見せられ、如何に結城貴司が待ち望まれているのかということについて、逃げ場のない状況で言い聞かせられた。それは原田にとっては正に地獄の一時間半だった。
岩槻が急用で席を外さなかったら、おそらく夕方まで続いたことだろう。
マンションに到着した時にはすっかり空腹になっていたが、それでも沖愛里から夕食を作っておいたとLINEがあったので我慢して帰ってきたのだ。
エレベータの浮遊力を感じて胃袋が引き締まる。
玄関の鍵を開け、明かりを点けてリビングに向かった。
まだ沖愛里は帰っておらず、テーブルの上には鶏の胸肉を香草で焼いたものに輪切りのゆで卵とトマトのサラダ、それにシチューが入った鍋が置かれていた。ハート型の便箋には「シチューはレンチンでいいから温めて食べること」と注意書きがされていたが、肝心のどこに出かけるのかについては何も記載がなかった。
――鍋くらい温められるよ。
そう思ったが、上着を脱いで手を洗ってくると何だか面倒になってしまい、結局器に盛ったものをレンジで温めてしまった。
テレビを点けると彼女が別の男に寝取られたというドラマをやっていて、結城貴司はそんな作品を書かないよなあ、なんて思いながら見ていた。
十分ほどで食べ終えると、流し台に茶碗を重ねて置いておく。
バスタブにお湯を張っている間に帰ってくるかと思ったが、風呂から上がっても彼女は戻ってこなかった。
眠る前にメールとLINEの確認をしたが、愛里からは何の連絡もなかった。
その日は珍しく夢を見なかった。
結局沖愛里は翌朝になっても原田のマンションには戻ってこなかった。
気づくとパソコンの前に座ったまま、昼を過ぎていた。
原田は思い切り腕を上げて伸びをしてから立ち上がると、スマートフォンを手に取って確認する。
沖愛里からの返信はなかった。
いきなり押しかけてきて同棲するような女なんだから突然目の前からいなくなっても不思議ではない。けれど、その印象は数日一緒に暮らすことで変わりつつもあったのだ。
――何だって言うんだ。
食パンの袋を開けようとして、思い切り引き裂いてしまった。六枚切りのパンが屑を散らしながらテーブルの上にばら撒かれ、情けなく重なった。愛里がいれば、
「もうセンセは案外不器用なんだから」
なんて言いながらも綺麗に片付けてくれることだろう。
何を期待しているんだ。
彼女がここにやってきてから何もかもの調子が狂っている。
まともになったものと言えば、お腹の調子くらいなものだ。若い女の手料理だからもっと脂濃いものが多いと思っていたのに、彼女の嗜好なのか歴代の彼氏の好みなのかは分からないが、和風の上品な味付けのものが多く並べられた。
オーブントースターに二枚入れて焼き上がるのを待つ間、残りパンをラップで包む。ジップロックなどがあればそれに入れておいた方が良いのだろうが、生憎とそんな便利なものは常備していない。
冷蔵庫を覗いてみたが、ジャムもバターもマーガリンも切らしていた。
戸棚を探るとふりかけと茶漬けや焼き飯、麻婆豆腐の素なんかが見つかったが、こんがりと焼き上がったトーストには、さて何を付ければ良いだろうか。
贅沢は言わない。
普通の苺のジャムで良いから、今ここにあればと切実に願った。
この数時間前、彼は村瀬ナツコに呼び出され、駅から徒歩五分ほどのところにあるいつもの喫茶店で打ち合わせを行っていた。最近は原田の部屋まで彼女が来ることが多かったから珍しいなとは思ったけれど、愛里のこともあるし、少し気を利かせたのかなと考えていたが、いざ到着してみると、そこには村瀬ナツコだけではなく、浅黒い肌にやたらと並びの良い白い歯が目立つ編集長の岩槻が待っていたのだ。
――今日はいい話もあるんで楽しみにしててください。
そんなメッセージが最後の方に書かれていたことを思い出したが、編集長を連れてくるという意味だったのだと、後になって思い知った。
二人の話は先日、村瀬ナツコに結城貴司がどれほど読者を待たせているのかということについて滾々と説教されてしまい、仕方なく短編小説を書くことを約束してしまったことについてだった。
あれやこれやと読者からの葉書やメール、中には手作りの小物だったり、聖地巡礼に行ってきたという写真だったりを見せられ、如何に結城貴司が待ち望まれているのかということについて、逃げ場のない状況で言い聞かせられた。それは原田にとっては正に地獄の一時間半だった。
岩槻が急用で席を外さなかったら、おそらく夕方まで続いたことだろう。
マンションに到着した時にはすっかり空腹になっていたが、それでも沖愛里から夕食を作っておいたとLINEがあったので我慢して帰ってきたのだ。
エレベータの浮遊力を感じて胃袋が引き締まる。
玄関の鍵を開け、明かりを点けてリビングに向かった。
まだ沖愛里は帰っておらず、テーブルの上には鶏の胸肉を香草で焼いたものに輪切りのゆで卵とトマトのサラダ、それにシチューが入った鍋が置かれていた。ハート型の便箋には「シチューはレンチンでいいから温めて食べること」と注意書きがされていたが、肝心のどこに出かけるのかについては何も記載がなかった。
――鍋くらい温められるよ。
そう思ったが、上着を脱いで手を洗ってくると何だか面倒になってしまい、結局器に盛ったものをレンジで温めてしまった。
テレビを点けると彼女が別の男に寝取られたというドラマをやっていて、結城貴司はそんな作品を書かないよなあ、なんて思いながら見ていた。
十分ほどで食べ終えると、流し台に茶碗を重ねて置いておく。
バスタブにお湯を張っている間に帰ってくるかと思ったが、風呂から上がっても彼女は戻ってこなかった。
眠る前にメールとLINEの確認をしたが、愛里からは何の連絡もなかった。
その日は珍しく夢を見なかった。
結局沖愛里は翌朝になっても原田のマンションには戻ってこなかった。
気づくとパソコンの前に座ったまま、昼を過ぎていた。
原田は思い切り腕を上げて伸びをしてから立ち上がると、スマートフォンを手に取って確認する。
沖愛里からの返信はなかった。
いきなり押しかけてきて同棲するような女なんだから突然目の前からいなくなっても不思議ではない。けれど、その印象は数日一緒に暮らすことで変わりつつもあったのだ。
――何だって言うんだ。
食パンの袋を開けようとして、思い切り引き裂いてしまった。六枚切りのパンが屑を散らしながらテーブルの上にばら撒かれ、情けなく重なった。愛里がいれば、
「もうセンセは案外不器用なんだから」
なんて言いながらも綺麗に片付けてくれることだろう。
何を期待しているんだ。
彼女がここにやってきてから何もかもの調子が狂っている。
まともになったものと言えば、お腹の調子くらいなものだ。若い女の手料理だからもっと脂濃いものが多いと思っていたのに、彼女の嗜好なのか歴代の彼氏の好みなのかは分からないが、和風の上品な味付けのものが多く並べられた。
オーブントースターに二枚入れて焼き上がるのを待つ間、残りパンをラップで包む。ジップロックなどがあればそれに入れておいた方が良いのだろうが、生憎とそんな便利なものは常備していない。
冷蔵庫を覗いてみたが、ジャムもバターもマーガリンも切らしていた。
戸棚を探るとふりかけと茶漬けや焼き飯、麻婆豆腐の素なんかが見つかったが、こんがりと焼き上がったトーストには、さて何を付ければ良いだろうか。
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