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第九章 「恋人よ」

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 点滴がぶら下がったキャスター付きポールを押しながら、原田貴明はエレベータから出た。
 目の前の壁にあるガイド図には真っ直ぐ右手に行き、隣の病棟に移って、そこから右に道なりに進んだ先にある、と書かれている。
 慌ただしくナースステーションから看護師が出入りしていたが、特に原田を見て気にする様子はない。
 少し目が合ったので会釈えしゃくをすると、また忙しなく棚のファイルに手を伸ばしていた。
 歩き出す。
 涌井祐介に殴りつけられた右側の口の端は内側が切れてしまっていて、正直しゃべり辛い。それでも沖愛里に対してきちんと説明をし、彼女を振る必要があった。それは自分自身へのケジメでもあり、何より今から十年ぶりに顔を合わせようという彼女、沖優里に対しての約束でもあったからだ。

「原田君。どこに行くつもりかね」

 大きな自動ドアをスライドさせ、隣の病棟に移動した時だった。
 階段を駆け上がってきた高正誠司たかまさせいじが目を細めて自分を見る。

「優里さんのところですよ。分かっているでしょう?」
「そのままでは入れる訳にはいかない。そもそも君はまだ治療中なのだよ? それに君は……彼女の関係者じゃない」

 肉親でも近親者でもなく、恋人というあやふやな関係すら持っていない。ただの他人だ。それは原田だってよく理解している。

「それでも会わせて下さい。先生なら、少しは融通できるでしょう?」

 高正はそれだけ言った原田を一瞥いちべつするが、原田の方は気にせず歩き出す。

「意識が回復するまで待つ気はないのか?」
「回復するんですか?」

 どう返すべきかの言葉を探す様子が見て取れたので、原田は首を振り、歩みを止めずに進んでいく。

「原田君。彼女はまだ死なない。大丈夫だ。だからきちんとした手続きを踏んで面会したまえ」
「先生にはお世話になりました。彼女のことも多少は理解されていると思っています。けど、沖優里が遺書を書いたことの意味を、全然理解していません」
「君は勘違いをしている。遺書など自分が弱った時には書きたくなる。そういうものだ」

 彼は苛立いらだった様子で原田の方に歩き出すが、その後ろから眼鏡をした看護師が上がってきて彼を追い抜いていく。彼女はそのまま原田の前まで行き、

「ちょっとすみません」

 そう断ってから、点滴の針が刺さった左腕を取った。

「何をするんだ」
「これから大切な人に会いに行くんでしょう? こんなものを付けていて良いの?」

 驚いた原田から点滴を抜いてしまうと、ポールを受け取ってから笑顔を見せる。その胸のプレートには『三井』と書かれていた。

「あの」

 言葉を失った原田の腕に止血用のパッチを貼り付けると、彼女は高正の方を向く。

「先生。私が付き添いますから、五分程度なら良いですか?」
「……まあその程度なら」

 どうして自分にそこまでしてくれるのだろうか、と思いながら原田は二人のやり取りを見ていた。
 高正は後頭部を掻きながら苦笑を浮かべたが、軽くお辞儀をした三井は原田に「行きましょう」と促して歩き出す。
 原田は一度だけ高正に視線を向けた。彼は渋々といった感じで右手を持ち上げると、その手を白衣のポケットに突っ込んで背を向けてしまった。

「……ありがとうございます」

 小さく言って、歩き出す。
 三井という看護師は既に原田の五メートルほど先を進んでいた。
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