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其の伍 何も見ていないもみほぐし屋
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夜の通りにぼんやりと光る提灯の明かりというのは、実によく人を吸い寄せる。特に京都の狭い通りを歩くとそんな店が未だに多く目に付き、中からは賑やかな声が漏れ聞こえてくる。
だがその店はそんな表の路地から一本脇に入った、それも家と家との間にこっそりと道が伸びているような、そんな裏路地の突き当りにあった。ほとんど話し声も聞こえないが、しっかりと営業をしている意思のオレンジ色の灯を点けた提灯が軒先に下がっている。ぶら下がる暖簾には『もみほぐし〼』とある。何のことはない。マッサージ屋のようだ。
障子張りの木戸には中で施術を受けている客と小柄な店主がシルエットになって映っていた。
「おう、主。もっと右の方だ……ああ、そこそこ。いいぞ」
「目が悪いものでね、どうもすみません」
マッサージ用のベッドではなく、高くなった座敷の上に敷かれた布団にうつ伏せに寝そべり、その大柄な客の背を、枯れ草色の作務衣に身を包んだ初老の男性が押していた。ここの主らしいその男性は目を閉じたまま、器用に手の位置を変えていく。だが縦にも横にも店主の倍以上ある巨漢だ。その背はまるで筋肉を編んで作られた強靭な上着のようで、骨ばった主の指は押した先からその肉に跳ね除けられてしまっているようにも見えた。
それでも気持ち良いのだろう。店主が力を入れる度に小さな吐息が漏れる。
「こういう店は初めてなんだが、実に良いものだな。こんなに効くのなら、もっと早くに足を運んでおくべきだったわ」
「ありがとうございます。みなさん、そう言われますよ」
「時に主よ。わしのことは、どう思う?」
「どう、と言われますと?」
「いや。実にその、体がでかいだろう。それに筋肉ばかりだ」
「へえ」
「だから、何も思わんのかと聞いておる」
主は背中を徐々に腰に向けて押しながら小首を捻る。
「ああ、いい。何も聞かなかったことにしてくれ」
「分かりました」
それから三十分ほど施術をすると、大男は眠気に襲われたのか、大の字になって寝息を立て始めてしまった。その様に店主は「仕方ないですねえ」と毛布を掛けてやる。
それから奥のカウンターに行き、その下に置いてあった煙管に煙草の葉を詰めると、そっと燃やした。紫煙が僅かに漂ったが、大男が気にして目覚める気配はない。
最近妙な客が増えた――と店主は感じていたが、そもそもこんな場所にある按摩を訪れる客というのはそれだけで普通の人間という枠からは外れてしまっているだろう。だから相手がどんな姿形をしていようと、何を言ってこようと、一切気に掛けたことはなかった。そもそも盲者だ。見える世界など何もない。
十五分ほどして「あー、よく寝たわい」と大きく伸びをして目覚めた巨漢は随分と身が軽くなったらしく、
「また寄らせてもらうぞ」
気を良くして帰っていった。
それと入れ替わりのように表の木戸が開き、暖簾が揺らされる。
「主、邪魔する」
「へえ」
低く嗄れた声は常連の僧侶だった。いつも頭部をすっぽりと覆う編み笠を被っているが、しっかりと木戸を閉め、それから店内に誰もいないことを確認すると、座敷に上がってからようやくその笠を脱ぐ。
「臭うな」
「ああ、先程のお客様ですかね」
「主には分からんか」
「へえ。どうにも鈍くて敵いません」
「そうか。分からんか、これが」
そう言うと僧侶は何やらぱたぱたと扇子を取り出して扇ぎやる。そんなものであの体臭がどうにかなるのかと思って見ていたが、しばらくすると気が済んだようで、
「では頼む」
そう言って扇子を畳むと、畳の上に置いて、自分は布団の上でうつ伏せになった。
「へえ」
主は短く挨拶をし、「失礼します」と断ってからその頭の方へと移動すると、ゆっくりと肩の筋肉からほぐし始めた。
「ところで主。ここを始めて何年になる」
「そうですねえ。かれこれ五年ほどでしょうか」
「その間にまともな客は一人でも来たのか?」
「まとも、というのがどのことかは分かりませんが、みなさん気を良くして帰ってくれますよ。わたしにとっちゃ、みんな良いお客さんだ」
「良いか悪いかという話ではないんだが」
今日は随分と凝っているようだ。主は「ちょっと強くしますよ」と断ってからその背に馬乗りになると、体重を掛けて背中を押し始める。骨そのもののような親指が着物から露出した肌に沈む。何度目かの時には流石に痛かったのか「おい」と僧侶も声を漏らしてしまったが、それでも主は気にせずに押さえ続ける。
「主よ。一つ、尋ねたいことがあるんだが、いいか」
「へえ。何でもどうぞ」
「お主、目が見えておるだろう?」
その質問に、一瞬、店主の指が止まった。
「何をおっしゃいますか。私は十五の時から世の中の光を知りません」
「今もそうだが、わしが置いた扇子を踏むことなく、施術を始めた」
「偶然でしょう。扇子など、気づきませんでしたよ」
「それだけじゃあない。先程の客、寝ている間に主、煙管を吸っていただろう」
「覗いていたんですか。お人が悪い。こういう商売をしているとね、少しは息抜きもしたくなるものですよ。けど、ほんのちょっとだけですよ。それくらいは許して下さいよ」
「吸っていたことをどうこう言っているのではない。その場所を顔が見ていたのだ」
人間の動作というのはその筋肉の繊維一本一本までを完全に制御できる訳ではない。指を一本動かすのにだってどうしても意識外の部分が動いてしまう。それは全てがバラバラではなく、神経や皮膚、筋肉に脂肪、腱といったもので相互に繋がり合っているからだ。だからどれほど注意深く所作をしたとしても、必ずそこには無意識にしてしまう行動というものが生まれてしまう。
「旦那も悪い人だ。仮にですよ。私の目が見えていたとして、何か問題がありますかね」
「問題か。確かにそうかもしれんな。何も見なければ問題など存在しない。だから先程の男も気持ちよく帰っていったのだろう」
「世の中、見えることだけが全てじゃありません。見ない方が良いことも沢山ありますぜ」
「ああ、そうだな。残りも頼む」
「へえ……今日はいつもより凝っているみたいなので、少し多めにほぐしておきます。目が一つじゃあ、色々と真実を見すぎて大変でしょうからね」
そう言うと、店主は僧侶の横にした頭に手をやり、こめかみのところから軽く押さえ始めた。
「おお。これは効く」
どうやらその一つ目の僧には少しばかり痛かったらしい。(了)
だがその店はそんな表の路地から一本脇に入った、それも家と家との間にこっそりと道が伸びているような、そんな裏路地の突き当りにあった。ほとんど話し声も聞こえないが、しっかりと営業をしている意思のオレンジ色の灯を点けた提灯が軒先に下がっている。ぶら下がる暖簾には『もみほぐし〼』とある。何のことはない。マッサージ屋のようだ。
障子張りの木戸には中で施術を受けている客と小柄な店主がシルエットになって映っていた。
「おう、主。もっと右の方だ……ああ、そこそこ。いいぞ」
「目が悪いものでね、どうもすみません」
マッサージ用のベッドではなく、高くなった座敷の上に敷かれた布団にうつ伏せに寝そべり、その大柄な客の背を、枯れ草色の作務衣に身を包んだ初老の男性が押していた。ここの主らしいその男性は目を閉じたまま、器用に手の位置を変えていく。だが縦にも横にも店主の倍以上ある巨漢だ。その背はまるで筋肉を編んで作られた強靭な上着のようで、骨ばった主の指は押した先からその肉に跳ね除けられてしまっているようにも見えた。
それでも気持ち良いのだろう。店主が力を入れる度に小さな吐息が漏れる。
「こういう店は初めてなんだが、実に良いものだな。こんなに効くのなら、もっと早くに足を運んでおくべきだったわ」
「ありがとうございます。みなさん、そう言われますよ」
「時に主よ。わしのことは、どう思う?」
「どう、と言われますと?」
「いや。実にその、体がでかいだろう。それに筋肉ばかりだ」
「へえ」
「だから、何も思わんのかと聞いておる」
主は背中を徐々に腰に向けて押しながら小首を捻る。
「ああ、いい。何も聞かなかったことにしてくれ」
「分かりました」
それから三十分ほど施術をすると、大男は眠気に襲われたのか、大の字になって寝息を立て始めてしまった。その様に店主は「仕方ないですねえ」と毛布を掛けてやる。
それから奥のカウンターに行き、その下に置いてあった煙管に煙草の葉を詰めると、そっと燃やした。紫煙が僅かに漂ったが、大男が気にして目覚める気配はない。
最近妙な客が増えた――と店主は感じていたが、そもそもこんな場所にある按摩を訪れる客というのはそれだけで普通の人間という枠からは外れてしまっているだろう。だから相手がどんな姿形をしていようと、何を言ってこようと、一切気に掛けたことはなかった。そもそも盲者だ。見える世界など何もない。
十五分ほどして「あー、よく寝たわい」と大きく伸びをして目覚めた巨漢は随分と身が軽くなったらしく、
「また寄らせてもらうぞ」
気を良くして帰っていった。
それと入れ替わりのように表の木戸が開き、暖簾が揺らされる。
「主、邪魔する」
「へえ」
低く嗄れた声は常連の僧侶だった。いつも頭部をすっぽりと覆う編み笠を被っているが、しっかりと木戸を閉め、それから店内に誰もいないことを確認すると、座敷に上がってからようやくその笠を脱ぐ。
「臭うな」
「ああ、先程のお客様ですかね」
「主には分からんか」
「へえ。どうにも鈍くて敵いません」
「そうか。分からんか、これが」
そう言うと僧侶は何やらぱたぱたと扇子を取り出して扇ぎやる。そんなものであの体臭がどうにかなるのかと思って見ていたが、しばらくすると気が済んだようで、
「では頼む」
そう言って扇子を畳むと、畳の上に置いて、自分は布団の上でうつ伏せになった。
「へえ」
主は短く挨拶をし、「失礼します」と断ってからその頭の方へと移動すると、ゆっくりと肩の筋肉からほぐし始めた。
「ところで主。ここを始めて何年になる」
「そうですねえ。かれこれ五年ほどでしょうか」
「その間にまともな客は一人でも来たのか?」
「まとも、というのがどのことかは分かりませんが、みなさん気を良くして帰ってくれますよ。わたしにとっちゃ、みんな良いお客さんだ」
「良いか悪いかという話ではないんだが」
今日は随分と凝っているようだ。主は「ちょっと強くしますよ」と断ってからその背に馬乗りになると、体重を掛けて背中を押し始める。骨そのもののような親指が着物から露出した肌に沈む。何度目かの時には流石に痛かったのか「おい」と僧侶も声を漏らしてしまったが、それでも主は気にせずに押さえ続ける。
「主よ。一つ、尋ねたいことがあるんだが、いいか」
「へえ。何でもどうぞ」
「お主、目が見えておるだろう?」
その質問に、一瞬、店主の指が止まった。
「何をおっしゃいますか。私は十五の時から世の中の光を知りません」
「今もそうだが、わしが置いた扇子を踏むことなく、施術を始めた」
「偶然でしょう。扇子など、気づきませんでしたよ」
「それだけじゃあない。先程の客、寝ている間に主、煙管を吸っていただろう」
「覗いていたんですか。お人が悪い。こういう商売をしているとね、少しは息抜きもしたくなるものですよ。けど、ほんのちょっとだけですよ。それくらいは許して下さいよ」
「吸っていたことをどうこう言っているのではない。その場所を顔が見ていたのだ」
人間の動作というのはその筋肉の繊維一本一本までを完全に制御できる訳ではない。指を一本動かすのにだってどうしても意識外の部分が動いてしまう。それは全てがバラバラではなく、神経や皮膚、筋肉に脂肪、腱といったもので相互に繋がり合っているからだ。だからどれほど注意深く所作をしたとしても、必ずそこには無意識にしてしまう行動というものが生まれてしまう。
「旦那も悪い人だ。仮にですよ。私の目が見えていたとして、何か問題がありますかね」
「問題か。確かにそうかもしれんな。何も見なければ問題など存在しない。だから先程の男も気持ちよく帰っていったのだろう」
「世の中、見えることだけが全てじゃありません。見ない方が良いことも沢山ありますぜ」
「ああ、そうだな。残りも頼む」
「へえ……今日はいつもより凝っているみたいなので、少し多めにほぐしておきます。目が一つじゃあ、色々と真実を見すぎて大変でしょうからね」
そう言うと、店主は僧侶の横にした頭に手をやり、こめかみのところから軽く押さえ始めた。
「おお。これは効く」
どうやらその一つ目の僧には少しばかり痛かったらしい。(了)
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