世界の終わりに祝杯を

凪司工房

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 四月になり、社会人としての生活が始まった。本来なら朝八時までに通勤電車に乗り、出社して、先輩たちの指導を受けながらパソコンのソフトの操作を覚える日々が始まっていたはずだ。なのに私は未だ、1DKのアパートで、敷いたままの布団の上に転がっている。

 先程からスマートフォンが電話の着信を告げていた。おそらく私の教育担当になった妹尾さんだろう。五つ歳上の女性で、でしょ? どう? そうよね? と何かにつけ、こちらを覗き込むようにして確認してくる。同期の男性社員の評価は綺麗だけど、という「だけど案件」なようだ。教え方は丁寧だし、言葉遣いにも嫌味がない。ただ隙がないのが駄目らしい。仕事が出来すぎて、自分たちより有能感に溢れ、どこか引け目を感じてしまう。彼らはそういう価値基準で生きているのだ。

 私は特段、不満はなかった。
 それなら何故電話にすら出ないのだろう。これを不思議な感情だ、というのなら、人の感情、気持ちなんてものは大概不思議だ。

「何だよ、酒林。まだいたのか?」

 あの日以来、彼はじっと私を見つめている。部屋の隅で、街中で、トイレの隣で、電車の向かいの席で、ある時はテレビに映った雑踏から、またある時はゲームの世界の中で、私を見つめ、寂しげに笑っている。だから私は言ってやる。

「私を殺しに来ればいい。いつでもいいんだ。君が、好きな時、好きな場所、好きな方法で殺せばいい」

 そう言ってやる。
 けれど彼は殺さない。私はまだ、彼に生かされていた。

 スマートフォンで自殺希望のハッシュタグを見ると、何人もが死にたいという希望を書き込んでいる。この中に本心から死にたいという人間がどれくらいいるのだろう。それでも自分と同じような人間が沢山いるかも知れない、という感情は、不思議と私に活力を与えた。
 私は布団を抜け出し、浴室に向かう。伸びた無精髭を剃り、頭もしっかりと洗い、最後には冷水シャワーで皮膚をいくらか目覚めさせる。
 さっぱりすると空腹を感じ、上着を羽織って外に出た。

 風が強く、足元を缶ビールの空き缶が転がっていく。それは電柱にぶつかり、別方向に跳ねたが、まるで人が轢かれるかのように通り抜けたバイクによって高く舞い上がり、どこかに消えてしまった。

 コンビニはいつもの朝の混雑が嘘のように客が疎らで、店員の一人はコンテナからお菓子を取り出しては棚に並べる作業をしていた。弁当の棚にはもう殆ど何もなく、売れ残りというより不人気な商品選手権の優秀品たちが居座っている。小ぶりなおにぎり弁当を一つと、サラダのパックを手にして、私はレジに向かう。レジの方は疲れたような長髪の眼鏡を掛けた女性が担当していて、ぶつぶつと商品名を呟きながらレジ操作を終えると、私の目を見ることもなく支払い手続きをして、レシートを袋の中に突っ込んでしまった。

 私はアパートまで戻るのも何だか面倒になり、イートインスペースでそれらを平らげる。品出しをしていた男性店員が邪魔者のように何度もこちらを伺っていたが、レジの女性に何か告げると店の奥へと引っ込んでしまい、店内には私と、彼女の二人だけになってしまった。私はこれから出かける場所を探そうとスマートフォンを覗き込んでいたが、彼女は何だか落ち着きがない様子で棚に並ぶ商品の陳列を整理し始める。沈黙の空間に、箱やビニールが擦れる音、私の時折テーブルを指先で叩く音が響く。
 その彼女を、酒林が見つめていた。彼は何も言わず、表情からも特に考えを読めず、それでもずっと、彼女が隣の棚に動くのについて歩き、ただ見つめていた。
 私はそんな姿を見てしまったからか、つい「ごちそうさまでした」と一言付けて、店を出る。入口の横にあるゴミ箱は口から大量に紙コップやら弁当の空やら食べ残しのパンやらが突っ込まれて、入り切らずに何とも危ういバランスで収まっていた。ただ私のゴミはもう受け取ってもらえそうにない。崩れてもいいから、ゴミが散らかってもいいから、そこに乗せて立ち去ればいい。という思考は私にはなく、かと言ってこれを持ったまま歩くというのも困ったものだ。

「どうせいつも溢れてるから捨ててっていいですよ」

 店のドアを開け、彼女が言った。

「その溢れたゴミは誰が始末するんですか?」
「わたしか、別の店員か。とにかくあなたには迷惑かかりませんよ」
「結局他人に迷惑を掛けることでしか、気持ちよく生きていきないんですよね、人間って。分かりました。これは持ち帰ります。ありがとうございます」

 何かをした行為の向こう側に顔の見えない他人がいる場合は、そこまで抵抗を感じなかっただろう。けれど今目の前で許可をしてくれた彼女の顔を、私は見てしまっている。向こう側の誰かの顔を見てしまったら、おいそれとはゴミは捨てられないだろう。
 私は会釈をして、ゴミを手に、歩いていこうとした。

「ちょっと待って下さい」
「まだ何か?」
「迷惑を掛けたくない。それ、わたしも同じです。どうすれば、その……迷惑を掛けずにいられますか?」

 彼女の後ろに、酒林がいた。だから、だろうか。私は喉の奥に閊えることなく、その言葉を取り出せた。

「死んでしまうこと、ですかね」

 別にどんな顔をされても構わない。私にとっては世界を終わらせる方法が何か問われたのと同義でしかなかった。きっと彼女は不謹慎な冗談を言う人だとでも思っただろう。怪訝な顔をされ、何も言わずに店内に戻る。そう思っていた。

「やっぱり、そうですよね」

 けれど彼女はその意見に同調し、随分と軽くなったように和らいだ表情を私に向けた。

「あの、この後、どこかに行かれます? それとも家に帰ります?」
「いや、今日は特に決めてなくて、とりあえず出かけようかと思っていたんですが」
「それならちょうど良かった。十二時までなんですけど、昼から会えたりしませんか?」
「それじゃあ昼飯でも一緒に食べますか。どこでもいいですけど」
「いいですね。それじゃあ」

 彼女は私のスマートフォンを受け取ると操作をして「ここにしましょう」と地図に印を付けた。ついでに自分のLINEのIDも入れておいたからと言って、私にそれを返す。私は仕事をしている彼女の様子とあまりに違うものだから、やや面食らった感があったが、彼女が急に嬉しそうな姿を見せたので、何だかそういうことも含めて許せてしまった。

「あの……逃げないで下さいね」
「都合が悪い場合は連絡しますよ。それじゃあ後で」

 急いで背を向けたのは、店の中に先程引っ込んだ男性店員が姿を見せたからだ。彼女はその店員からやや苛立った声を投げつけられ、店内へと戻っていった。
 私は昼まで二時間ほどの時間をどこで潰せばいいだろうと考えながら、とりあえず駅に足を向ける。
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