世界の終わりに祝杯を

凪司工房

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 二人で1DKは狭いだろうと言ったのだけれど大垣冬子は「狭い方が良い」と言って、半ば無理やりに荷物を持ち込んだ。と云っても旅行用の小型のキャリーケース一つで、その大半は彼女の服だった。普段からあまり着飾って外出をしないので嵩張るような衣類はなかった。靴も履いてきたお気に入りのピンクのラインが入ったスニーカーだけで良いらしい。死の予定日を七月七日にしたので、冬物はいらないと全部売り払ってきたと言っていた。

 七夕に決めたのは特に意味もない。彼女の誕生日は十二月で、私は十月で、そこまで待つのは長いという話になり、何となくスマートフォンでカレンダーを眺めていた時に引っかかったのが七夕だったというだけだ。死に特別な意味を見出していない私たちにとってはいつ何日だろうと構わない。

 彼女は出会ってから三日後に部屋にやってきて、同棲を始めた。蓄えはどちらも大してなかったから、彼女はコンビニのアルバイトを続けることにして、私は私で何か探す必要があった。といっても二、三ヶ月生き延びればいいだけだから、大人しく我慢して会社に出るという選択でも良かった。

「大垣さん、明日も午前中のシフトですか」
「ええ、そうです。主に平日はシフトが入っています。園崎さんは会社に行かれるんですか?」

 同棲を始めたとはいうものの、まだ出会って日が浅い。互いに他人行儀な距離感で、それなのに布団は私の持っている一枚だけという、互いの体温を肌で感じながら、ぼんやりと予定を確認するといったことになっている。大垣さんは見た目通り痩せていて、乳房も少し垂れていた。あまり自分の美というもの、特に裸というものを磨くことに熱心になれなかった結果だと、彼女は言っていた。それは私の方も同じで、太ってはいないが特に摂生したり体を鍛えたりしていないから、どうもお腹周りはたるんでいるように見えるし、当然腹筋が割れたりはしていない。それでも二人で同じ布団に入り、互いを抱き合うようにして眠ると、不思議なほど寝心地が良かった。

 大学時代、二人、付き合った女性がいた。一人は一年生の秋、もう一人は三年生の夏だ。どちらも長くは続かず、三ヶ月と二ヶ月という期間でその関係は泡のように消えてしまったけれど、あの頃は抱き心地が良いとか、性的な高ぶりがあるとか、もっと本能や欲望に忠実な体の反応があったように思う。今の、大垣さんと抱き合っている時のような安心感はなかった。それが彼女の言う「合っている」という感覚なのかは分からないが、少なくとも不快ではなく、維持したい距離感だと、同棲からまだ日が浅いうちに思った。

「まだ、寝ませんか」
「もう少し目が冴えていると思う」
「それじゃあ少しだけ、お話してもいいでしょうか」
「話しているうちに眠ってしまうかもだけど、それでも良ければ」
「ええ、構いません」

 私は部屋の天井を見上げながら、左肩に頭を乗せた彼女が話すのをぼんやりと聞いていた。

「園崎さんは“死”というものを意識したのはいくつくらいでしょうか。わたしはまだ小学校に上がる前、保育園の年長の時でした。その頃は今みたいに菌糸をまとわり付かせた人間ではなくて、本当に明るくて笑顔が誰からも可愛いと云われる、そんな女の子だったんです。でも、誘拐事件に遭って変わりました」

 酒林があぐらを掻いてこちらを見ていた。彼は右手に缶ビールを握り、それをちびちびとやりながら一緒に彼女の話を聞いているようだ。

「その時の記憶はほとんどないんですけれど、ただ暗い場所に閉じ込められて、ガムテープで口を塞がれ、腕は縛られ、叫んでも誰にも届かず、逃げ出すこともできず、もう何をしても無駄だという闇だけが、わたしの目の前に存在していたんです。あれがわたしの死の原初体験でした。死ぬということについて考える時、いつもそれを思い出すんです。わたしは何故あの時に死ななかったのだろうかと」

 人は生きることと同じくらい死ぬことについても考える。ただその死というものを自分に必ず訪れる圧倒的な何かとして捉えるのか、それとも他人の命が一つ消えるだけという事実として考えるのか、大きな差になる。それは攻撃性が内側に向かうのか外側に向かうのかという話も一緒で、私の感覚的な割合ではおよそ半々といったところだ。おそらく育ってきた環境による差がその志向性の差を産むのだろうが、私も彼女も、そして酒林も、内側へと向けるタイプに育ったようだった。

「手首を切ってみたのは小学三年生の時でした。あれは同級生から初めて貞子と呼ばれた日だったと思います。別に貞子と呼ばれたことが嫌だった訳じゃないんですけど、ああ、これから先わたしは貞子なんだろうなという思いが、死んだらどうなるんだろうという単純な発想になって、気づいたら左の手首に薄く赤い線が入っていました。でも当然そんなもので死んだりしないので、ただ痛みがあっただけなんですけど、それが何故か心地良かったんですよね。体に甘い感覚が走ったというか。それからですね。わたしが本格的に死ぬことについて興味を持ったのは。大人たちは誰もが死ぬことはいけないと言います。でも何故? という子どもの単純な問いかけに対してはっきりとこれ、という解答をくれる大人はいませんでした。わたしは知らない大人を見れば何故死んではいけないの? と尋ねる変な子どもだったでしょう。でも不思議を知りたがるのは子どもの特権ですから、気にせずにわたしはそれを知る人を追い求めました」

 部屋の明かりは小さなオレンジ色が辛うじて照らしているだけで、それでも見ようと思えばお互いの顔が見えただろう。けれど私は彼女の方を見ることなく静かな相槌を返し、彼女が話すのに任せて、ぼんやりと天井と、それからこちらを見つめている酒林とを見ていた。
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