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外では明け方から小雨が続いている。今日は二人とも非番で、死の予定日までちょうど一ヶ月ということもあり、何かささやかなお祝いをしようと昨夜、話がまとまった。あれから彼女が首を絞めてくるようなことはない。そもそもどうして自分でもあんな行為に出たのか、彼女自身がよく分からないと言っていた。
料理はどちらもそんなにしてこなかったので、簡単なものか、惣菜などの出来合いのものか、出前か、外食になる。私は友人の死のショックでやや鬱傾向にあるという事情から、仕事の大半はリモートで、出社は週に二度、となっていて、在宅している割合が高い。掃除は必然的に私の領分となるが、酒林のように部屋を綺麗に片付けておく趣味はなく、他方、大垣さんはミニマリストの傾向があって、あれこれと不要だと思うものをすぐに捨ててしまう。元々そう多くない私の持ち物だが、徐々に死に向かって減らされているような感覚に陥る。
つまり部屋の中には気づけば本棚も無くなっていた。
その大垣さんが、実は看護師を目指していて、国家試験に落ちていたことを知ったのも昨夜の出来事だった。彼女は私より二歳下で、元々東京の人ではなく、日本海側の、雪の多い場所で生まれ育ったのだと言っていたけれど、私からすれば東京で生まれ育った人間も、地方から東京に出てきた人間も、大差がない。それこそ誰でも気づくくらいの方言の強い人なら地方出身なのかなと思うが、それにしたってわざわざ「あなたは地方出身ですね」と訊いたりはしない。
他人への関心という意味では、確かに私は興味をあまり持たない、関心が低い傾向にあると云える。それは酒林とはやや異なっていて、彼の場合は“死”というものに敏感であるのと同様に他人の視線、考え、行動というものにも敏感さを発揮していた。私が気づかないような、例えば髪の色の変化だとか、服装の趣味の変化、前髪を少し切ったことなど、取り立てて口にはしないものの、私が尋ねるとあれこれと教えてくれた。
「そういえば、本当に他人に興味がないですよね、園崎さん」
「そうかな。これくらい、普通じゃない?」
「みんな意外と興味ないフリをして、結構興味持ってますよ。コンビニでレジに立っていると何だかんだお客さんのこと見ちゃうんですけど、友人とか何人かの集団ならその小さなコミュニティの中で完結してるような感じがありますが、個人のお客さんだと雑誌棚の前での隣との距離感とか、弁当を選んでいる時にもふと通りかかった他人の目を気にしたりとか、完全に周囲と独立して切り離された人生を生きている人はいません。園崎さんだって、わたしのこと、観察したでしょう? きっと無意識に興味を持ってしまうんですよ、人間って」
「そういうもんかな」
「そういうもんです」
私は布団を抜け出すと、肌着を身につける。恥ずかしいと感じたのは最初の一週間ほどだったろうか。たぶんセックスをしていたなら、もっと互いに踏み込んでいるのだろう。けれどそれがない分、肌を寄せ合っても、ちゃんと自分と彼女が分かれている気になれる。ただ彼女の本心は分からなかった。やりたいなら、してもいい。それくらいの気持ちでいる私が、いけないのだろうか。
「パンでもいい?」
「トーストは軽く焼いて下さい。この前は焼き過ぎてました」
「分かった」
キッチンの冷蔵庫の上に、トースターが乗っている。上の作り付けの棚の一つを開けて、そこから五枚切りの食パンを出すと、二枚選んでトースターのダイヤルを回した。ジリジリと音を立てながら徐々に熱が上がっていく。色々なものが便利になり、時間が掛からなくなったとはいえ、それでも待ち時間というものが発生する。実はこういった細々とした待ち時間をかき集めたら人生の一割くらいにはなるんじゃないかと、私は思っているのだけれど、うまくやりくりをする人にとってはそうでもないのだろうか。
ふと気づくと酒林がこちらを見つめていた。トーストが食べたいのだろうか。それでも彼は既に死んでいる。死んだ後も仮にその意思のようなものが残るとしたら、何かを食べたくなるということはあるのかも知れない。
私は甲高い音をさせて焼き上がりを告げたトースターから狐色になった二枚を取り出す。この前よりは色が薄い。大垣さんは意外と細かい部分で彼女なりの拘りを見せていた。それと比べると確かに私は何事にも関心が薄いように感じる。
トーストと、蜂蜜、あとはブルーベリーのジャムを取り出し、皿に乗せて持っていく。
「ありがとうございます」
既に彼女は上に白いシャツを羽織っていて、ボタンが上から二つ目くらいまで留まっている。やや胸元が開いていたが、特に目を向けることなくテーブルの対面に座ると、私は蜂蜜を少し垂らして、トーストに齧りつく。朝食は二人ともそんなに量を必要としない。彼女の場合は寧ろ食べない時もあったらしい。そんな小さな差異が同棲を始めて一ヶ月半ほどでかなり蓄積されていた。そういう日々の貯金のようなものが、最近、酒林を遠ざけていることに気づいた。
彼は今、私と彼女の二人から三メートルほどのところに立って、こちらを見ている。いつも表情は変わらないが、それが最近、寂しそうに見ているように感じることがあった。やはり突然襲った死というのは受け入れがたいのだろう。ひょっとすると彼は、いや彼こそ本物の死というものを恐れていたのかも知れない。だからこそ計画的な、自分で選ぶことのできる“作り物の死”を手に入れようとした。そう考えると、彼の死ぬ方法を模索し続けた結果が死刑による死というのも納得できる。
「大垣さん。今夜はやはり食べに出よう。どこがいい?」
彼女はまだちびちびとトーストを齧っていて「何?」という表情で私を見た。唇の端にブルーベリーのジャムが付いていたのを、私が指摘すると、
「取ってくれますか?」
彼女は笑みを作ってそう言った。私は一秒ほど考え、それからティッシュを手にして、柔らかく彼女の口元を拭う。その動作に満足したのか、大垣さんは「こういうの、良いものですね」とにこやかに答え、それから幾つか外食の候補を出してくれた。
料理はどちらもそんなにしてこなかったので、簡単なものか、惣菜などの出来合いのものか、出前か、外食になる。私は友人の死のショックでやや鬱傾向にあるという事情から、仕事の大半はリモートで、出社は週に二度、となっていて、在宅している割合が高い。掃除は必然的に私の領分となるが、酒林のように部屋を綺麗に片付けておく趣味はなく、他方、大垣さんはミニマリストの傾向があって、あれこれと不要だと思うものをすぐに捨ててしまう。元々そう多くない私の持ち物だが、徐々に死に向かって減らされているような感覚に陥る。
つまり部屋の中には気づけば本棚も無くなっていた。
その大垣さんが、実は看護師を目指していて、国家試験に落ちていたことを知ったのも昨夜の出来事だった。彼女は私より二歳下で、元々東京の人ではなく、日本海側の、雪の多い場所で生まれ育ったのだと言っていたけれど、私からすれば東京で生まれ育った人間も、地方から東京に出てきた人間も、大差がない。それこそ誰でも気づくくらいの方言の強い人なら地方出身なのかなと思うが、それにしたってわざわざ「あなたは地方出身ですね」と訊いたりはしない。
他人への関心という意味では、確かに私は興味をあまり持たない、関心が低い傾向にあると云える。それは酒林とはやや異なっていて、彼の場合は“死”というものに敏感であるのと同様に他人の視線、考え、行動というものにも敏感さを発揮していた。私が気づかないような、例えば髪の色の変化だとか、服装の趣味の変化、前髪を少し切ったことなど、取り立てて口にはしないものの、私が尋ねるとあれこれと教えてくれた。
「そういえば、本当に他人に興味がないですよね、園崎さん」
「そうかな。これくらい、普通じゃない?」
「みんな意外と興味ないフリをして、結構興味持ってますよ。コンビニでレジに立っていると何だかんだお客さんのこと見ちゃうんですけど、友人とか何人かの集団ならその小さなコミュニティの中で完結してるような感じがありますが、個人のお客さんだと雑誌棚の前での隣との距離感とか、弁当を選んでいる時にもふと通りかかった他人の目を気にしたりとか、完全に周囲と独立して切り離された人生を生きている人はいません。園崎さんだって、わたしのこと、観察したでしょう? きっと無意識に興味を持ってしまうんですよ、人間って」
「そういうもんかな」
「そういうもんです」
私は布団を抜け出すと、肌着を身につける。恥ずかしいと感じたのは最初の一週間ほどだったろうか。たぶんセックスをしていたなら、もっと互いに踏み込んでいるのだろう。けれどそれがない分、肌を寄せ合っても、ちゃんと自分と彼女が分かれている気になれる。ただ彼女の本心は分からなかった。やりたいなら、してもいい。それくらいの気持ちでいる私が、いけないのだろうか。
「パンでもいい?」
「トーストは軽く焼いて下さい。この前は焼き過ぎてました」
「分かった」
キッチンの冷蔵庫の上に、トースターが乗っている。上の作り付けの棚の一つを開けて、そこから五枚切りの食パンを出すと、二枚選んでトースターのダイヤルを回した。ジリジリと音を立てながら徐々に熱が上がっていく。色々なものが便利になり、時間が掛からなくなったとはいえ、それでも待ち時間というものが発生する。実はこういった細々とした待ち時間をかき集めたら人生の一割くらいにはなるんじゃないかと、私は思っているのだけれど、うまくやりくりをする人にとってはそうでもないのだろうか。
ふと気づくと酒林がこちらを見つめていた。トーストが食べたいのだろうか。それでも彼は既に死んでいる。死んだ後も仮にその意思のようなものが残るとしたら、何かを食べたくなるということはあるのかも知れない。
私は甲高い音をさせて焼き上がりを告げたトースターから狐色になった二枚を取り出す。この前よりは色が薄い。大垣さんは意外と細かい部分で彼女なりの拘りを見せていた。それと比べると確かに私は何事にも関心が薄いように感じる。
トーストと、蜂蜜、あとはブルーベリーのジャムを取り出し、皿に乗せて持っていく。
「ありがとうございます」
既に彼女は上に白いシャツを羽織っていて、ボタンが上から二つ目くらいまで留まっている。やや胸元が開いていたが、特に目を向けることなくテーブルの対面に座ると、私は蜂蜜を少し垂らして、トーストに齧りつく。朝食は二人ともそんなに量を必要としない。彼女の場合は寧ろ食べない時もあったらしい。そんな小さな差異が同棲を始めて一ヶ月半ほどでかなり蓄積されていた。そういう日々の貯金のようなものが、最近、酒林を遠ざけていることに気づいた。
彼は今、私と彼女の二人から三メートルほどのところに立って、こちらを見ている。いつも表情は変わらないが、それが最近、寂しそうに見ているように感じることがあった。やはり突然襲った死というのは受け入れがたいのだろう。ひょっとすると彼は、いや彼こそ本物の死というものを恐れていたのかも知れない。だからこそ計画的な、自分で選ぶことのできる“作り物の死”を手に入れようとした。そう考えると、彼の死ぬ方法を模索し続けた結果が死刑による死というのも納得できる。
「大垣さん。今夜はやはり食べに出よう。どこがいい?」
彼女はまだちびちびとトーストを齧っていて「何?」という表情で私を見た。唇の端にブルーベリーのジャムが付いていたのを、私が指摘すると、
「取ってくれますか?」
彼女は笑みを作ってそう言った。私は一秒ほど考え、それからティッシュを手にして、柔らかく彼女の口元を拭う。その動作に満足したのか、大垣さんは「こういうの、良いものですね」とにこやかに答え、それから幾つか外食の候補を出してくれた。
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