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結婚という言葉が二人の間に出て以来、大垣さんは何となく余所余所しい。こういう風に何か一つのワードによって関係性が変化するというのも、人間関係の面倒な部分だと私は思っているけれど、それが私自身の変化なのか、大垣さんの方の変化なのか、それとも両方の意識の変化なのかは、よく分からない。ただ少なくともあの焼肉の日以来、彼女は布団の中で私にべったりとはくっつかなくなった。
この日、私は退職届を出す為に会社を訪れていた。一ヶ月前には退職しておくべきだろうという配慮だ。教育係である妹尾さんは色々と私の状況を考えて配慮してくれたし、直属の上司である三井さんは封筒に書いた私の文字を見て「そうか」と言っただけで特に何を尋ねることもなく、それを収めてくれた。
私は会社に必要とされるほどの人材ではなく、寧ろ厄介者、問題児、できればさっさと辞めて欲しい人材だっただろう。
一方、大垣さんはもう少しコンビニの仕事を続けると言っていた。まだ七月分のシフトが決まっていないし、予定を出すようにも言われていないからというのだけれど、その時が迫ったら本当に辞められるのだろうか。私は半信半疑だった。
久しぶりにスーツを着て、ネクタイを締めた。かっちりと首元を縛っていたのは半刻ほど前のことで、今はだらりと緩め、それでも抜き取ってはいない。公園で、缶コーヒーを手に、ぼんやりとしていると、酒林がブランコに座り、こちらを見ていた。
最近変化したのは大垣さんだけではない。彼もまた、以前とは様子が変わっていた。
「どうした?」
声を掛けたが彼は当然何も答えない。ただ黙って私を見ているだけだ。その表情は以前なら理解できなかった。悲しいでも、寂しいでも、嬉しいでも楽しいでもない。かといって無表情という訳でもない。
彼が亡くなってからは既に四十九日を過ぎているが、これは仏教で決められている満中陰法要というもので死後七日毎に生前の行いについての裁きをするそうだ。その間は喪に服し、最後の四十九日目に故人の生まれ変わり先が決まり、それを以て喪が明ける。その法要のことを俗に四十九日と呼んでいる。彼の実家は浄土宗だったからこの様式に則っているが、他の宗派、あるいは神道、またはキリスト教であっても似たような儀式はあるそうだ。ただ仏教以外の宗教では生まれ変わったりはせずに天国に相当する別の世界に行ってしまうことが多い。あの世、死後の世界、そういうものが作られている。もちろん仏教の中にも輪廻転生せず、すぐに成仏して仏になるというものも存在するが、仮に酒林が未だに生まれ変わらず、あの世でもなく、この世でもない場所にいるのだとすれば、彼はそこで何を思っているだろう。
酒林はブランコを下り、こちらを見て、口元に笑みを浮かべた。それから右手を軽く挙げ、公園を出て行ってしまう。最近彼は何も答えないだけでなく、姿を見せないことが増えた。
私の死の準備が少しずつ整っている証拠かも知れない、と考え、私は空になったコーヒーの缶を捨てようとしたが、ゴミ箱は撤去され、どこにもなかった。
結局そのまま自宅まで持ち帰り、ゴミの袋の中に入れることになった。袋の中には空き缶以外にもペットボトルがまとめて入れられていて、たぶんどちらかが間違って入れてしまったのだけれど途中から面倒になって一緒の袋に入れてしまっている。缶とペットボトルは別の袋にしなければいけないが、出す時に缶だけ分ければいいと、確か私が提案したのだ。その時に僅かに大垣さんがむっとしたが、彼女は何も言わなかった。
大昔、といっても彼女が知る大昔というのは彼女の親の親くらいの世代の話だ。その頃には何もかもが一緒くたに捨てられていた。ゴミの一部を資源と呼ぶようになったのはいつからだろう。再利用をし、いくらかは何かの商品として、あるいはその一部として、生活に戻ってくる。でもほんの一部だけだ。やはりゴミはゴミで、大半は焼却、あるいは埋められる。
人間も死んだらその大部分は廃棄物になる。精神や魂と呼ばれるものがあるかどうかは専門家に議論させておけばいいが、ともかく、この国では焼却炉で焼かれ、骨にして、それを遺骨という形で墓地に収めたり、故人の家族が持っておいたりする。骨に何かが宿る、あるいは墓地に何かが宿る。目に見えなくなったものを何とか見える形にしようという、残った人間の努力だ。ただそれを故人が望んでいるかどうかは分からない。少なくとも酒林は全て、それこそ遺骨すら分解してこの世界から消えてしまいたかったのだろう。
なら何故まだ私の目の前に現れるのだろうか。
死んだ後の話をしようとすると、大垣さんはあまり良い顔をしない。死についての話は沢山したし、死ぬことや、それを扱う宗教の話も、彼女はあまり知識を持っていなかったが、私が話す内容に理解を示そうとした。けれど死後、それも具体的に自分が死んだ後の話になると、どうも気分が優れない。これから死ぬ予定の人間なのだから考えない訳にはいかないと思うのだが、そう言うと彼女は、
「そういう人間関係とか財産とか、それこそ家族とか、煩わしいことまで何もかも捨て去ってしまうというのが“死”じゃないんですか?」
そんなことを言った。確かに死ぬ、それも自分で進んで死を選択するという場合は無責任と言われようと、そもそもそういった一切に責任を負いたくないから死ぬということはあるだろう。けれど私も酒林も、そういう無責任さはよくないと考えていて、実際彼の場合も三月十九日付けでアパートは退去していたし、財産と呼べるほどのものはなかったが、必要経費以外は全て寄付してしまっていた。家族に当てた遺書は書かないと言っていたから何もなかったし、持ち物もボストンバッグに入る程度にまとめてしまっていた。
そういう潔さが酒林にはあった。
突然死が訪れ、予想外の経費が発生したことは確かに不幸と呼べるかも知れないが、色々と身辺整理がされていたことから車の事故ではなく自殺だったのかも知れないと、彼の家族は感じているかも知れない。
だから私も、私と大垣さんも、少しずつ不要なものを捨て、身軽になるべきだと考えていたのだけれど、この日彼女は新しい寝間着を購入してきて、それを着た姿を私に見せた。黒く透けて見えるネグリジェと呼ばれるワンピースだ。何故そんなものを準備したのか尋ねると「一度着てみたかった」というシンプルな答えが返ってきた。
この日、私は退職届を出す為に会社を訪れていた。一ヶ月前には退職しておくべきだろうという配慮だ。教育係である妹尾さんは色々と私の状況を考えて配慮してくれたし、直属の上司である三井さんは封筒に書いた私の文字を見て「そうか」と言っただけで特に何を尋ねることもなく、それを収めてくれた。
私は会社に必要とされるほどの人材ではなく、寧ろ厄介者、問題児、できればさっさと辞めて欲しい人材だっただろう。
一方、大垣さんはもう少しコンビニの仕事を続けると言っていた。まだ七月分のシフトが決まっていないし、予定を出すようにも言われていないからというのだけれど、その時が迫ったら本当に辞められるのだろうか。私は半信半疑だった。
久しぶりにスーツを着て、ネクタイを締めた。かっちりと首元を縛っていたのは半刻ほど前のことで、今はだらりと緩め、それでも抜き取ってはいない。公園で、缶コーヒーを手に、ぼんやりとしていると、酒林がブランコに座り、こちらを見ていた。
最近変化したのは大垣さんだけではない。彼もまた、以前とは様子が変わっていた。
「どうした?」
声を掛けたが彼は当然何も答えない。ただ黙って私を見ているだけだ。その表情は以前なら理解できなかった。悲しいでも、寂しいでも、嬉しいでも楽しいでもない。かといって無表情という訳でもない。
彼が亡くなってからは既に四十九日を過ぎているが、これは仏教で決められている満中陰法要というもので死後七日毎に生前の行いについての裁きをするそうだ。その間は喪に服し、最後の四十九日目に故人の生まれ変わり先が決まり、それを以て喪が明ける。その法要のことを俗に四十九日と呼んでいる。彼の実家は浄土宗だったからこの様式に則っているが、他の宗派、あるいは神道、またはキリスト教であっても似たような儀式はあるそうだ。ただ仏教以外の宗教では生まれ変わったりはせずに天国に相当する別の世界に行ってしまうことが多い。あの世、死後の世界、そういうものが作られている。もちろん仏教の中にも輪廻転生せず、すぐに成仏して仏になるというものも存在するが、仮に酒林が未だに生まれ変わらず、あの世でもなく、この世でもない場所にいるのだとすれば、彼はそこで何を思っているだろう。
酒林はブランコを下り、こちらを見て、口元に笑みを浮かべた。それから右手を軽く挙げ、公園を出て行ってしまう。最近彼は何も答えないだけでなく、姿を見せないことが増えた。
私の死の準備が少しずつ整っている証拠かも知れない、と考え、私は空になったコーヒーの缶を捨てようとしたが、ゴミ箱は撤去され、どこにもなかった。
結局そのまま自宅まで持ち帰り、ゴミの袋の中に入れることになった。袋の中には空き缶以外にもペットボトルがまとめて入れられていて、たぶんどちらかが間違って入れてしまったのだけれど途中から面倒になって一緒の袋に入れてしまっている。缶とペットボトルは別の袋にしなければいけないが、出す時に缶だけ分ければいいと、確か私が提案したのだ。その時に僅かに大垣さんがむっとしたが、彼女は何も言わなかった。
大昔、といっても彼女が知る大昔というのは彼女の親の親くらいの世代の話だ。その頃には何もかもが一緒くたに捨てられていた。ゴミの一部を資源と呼ぶようになったのはいつからだろう。再利用をし、いくらかは何かの商品として、あるいはその一部として、生活に戻ってくる。でもほんの一部だけだ。やはりゴミはゴミで、大半は焼却、あるいは埋められる。
人間も死んだらその大部分は廃棄物になる。精神や魂と呼ばれるものがあるかどうかは専門家に議論させておけばいいが、ともかく、この国では焼却炉で焼かれ、骨にして、それを遺骨という形で墓地に収めたり、故人の家族が持っておいたりする。骨に何かが宿る、あるいは墓地に何かが宿る。目に見えなくなったものを何とか見える形にしようという、残った人間の努力だ。ただそれを故人が望んでいるかどうかは分からない。少なくとも酒林は全て、それこそ遺骨すら分解してこの世界から消えてしまいたかったのだろう。
なら何故まだ私の目の前に現れるのだろうか。
死んだ後の話をしようとすると、大垣さんはあまり良い顔をしない。死についての話は沢山したし、死ぬことや、それを扱う宗教の話も、彼女はあまり知識を持っていなかったが、私が話す内容に理解を示そうとした。けれど死後、それも具体的に自分が死んだ後の話になると、どうも気分が優れない。これから死ぬ予定の人間なのだから考えない訳にはいかないと思うのだが、そう言うと彼女は、
「そういう人間関係とか財産とか、それこそ家族とか、煩わしいことまで何もかも捨て去ってしまうというのが“死”じゃないんですか?」
そんなことを言った。確かに死ぬ、それも自分で進んで死を選択するという場合は無責任と言われようと、そもそもそういった一切に責任を負いたくないから死ぬということはあるだろう。けれど私も酒林も、そういう無責任さはよくないと考えていて、実際彼の場合も三月十九日付けでアパートは退去していたし、財産と呼べるほどのものはなかったが、必要経費以外は全て寄付してしまっていた。家族に当てた遺書は書かないと言っていたから何もなかったし、持ち物もボストンバッグに入る程度にまとめてしまっていた。
そういう潔さが酒林にはあった。
突然死が訪れ、予想外の経費が発生したことは確かに不幸と呼べるかも知れないが、色々と身辺整理がされていたことから車の事故ではなく自殺だったのかも知れないと、彼の家族は感じているかも知れない。
だから私も、私と大垣さんも、少しずつ不要なものを捨て、身軽になるべきだと考えていたのだけれど、この日彼女は新しい寝間着を購入してきて、それを着た姿を私に見せた。黒く透けて見えるネグリジェと呼ばれるワンピースだ。何故そんなものを準備したのか尋ねると「一度着てみたかった」というシンプルな答えが返ってきた。
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