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第9章 天子奉戴編

第54話 曹操の決断

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献帝陛下が長安を離れ洛陽を目指す。
その情報は、各地の諸侯にも届いた。
李傕、郭汜の元を離れた天子に対して、どのように接するべきか各諸侯は、それぞれ話し合うのだった。

特に現時点で、各諸侯の中では頭一つ抜き出た存在である袁紹の動きには、世間の注目が集まる。
その袁紹に対して、沮授そじゅが天子の庇護を進言するために進み出た。

「献帝陛下が長安をお出になられたこと、お聞きになりましたでしょうか?」
「むろん、知っているが、それがどうした?」
「では、ぜひ献帝陛下をこの鄴県にお招きいれることを献策いたします」
袁紹は、沮授の言葉に考え込んだ。袁紹なりに天子を迎え入れる利点を考えたが、整理しきれなかったのだ。

「それにはどういう意図がある?」
「はい。殿は、反董卓連合の盟主でございました。殿が献帝陛下を迎え、安んじられることで、連合の意義が達成さます。殿の名声がますます上がるかと存じます」

反董卓連合の成果が、ただ董卓を長安に退けただけという、見方は確かに世間にあった。
結局、董卓を討つという大義を果たしたのが、呂布であると評されることを袁紹は、面白く思っていなかったのだ。

だが・・・
「私は反対でございます」
悩む袁紹に対して、郭図かくとが名乗り上げる。

「失礼ながら、今の漢王朝は既に衰退の一途。献帝陛下をお招きするということは再興に尽力するということですが、それは中々、困難な道かと存じ上げます」
「左様。いちいち献帝陛下の顔色を伺って、行動せねばならなくなり、我らの思うがままの軍略、侵攻ができなくなりますぞ」
郭図の意見に淳于瓊じゅんうけいも賛同を示した。

実を言うと、袁紹の考えも淳于瓊に近かったため、沮授の意見を受け入れがたかったのだ。
「しかし、他の誰かが献帝陛下を奉戴し、勅命を利用するようなことがおきれば、我らはいつでも朝敵の汚名を着せられる恐れがございます」
天子を迎えるという政策の重要性を理解している沮授も、負けじと反論する。

「今の漢王朝に権威はない。我らを陥れるほどの勅命を出せるわけがないではございませんか」
「その通り、沮授殿は心配性でござる」
だが、郭図、淳于瓊も譲らない。意見が割れており、収拾がつきそうもなかった。

そこで、袁紹は、他の者の考え方を参考にしようとする。
田豊でんほう、何か意見はあるか?」
名指しで指名された田豊は、袁紹の前に進み出ると、
「天子奉戴につきましては、賛成です」と、述べる。

沮授の顔が、一瞬、明るくなるが、続けた田豊の言葉に肩を落とした。
「ただし、今ではございません。・・・別の者が漢王朝の権威を取り戻した後、献帝陛下をその者から力で奪いましょう」
田豊の言葉に、袁紹は「よし」と、頷く。

そもそも袁紹自身が、献帝のことをよく思っていない。
と、いうのも献帝は董卓が立てた天子であり、その董卓は袁家の三族を打首にした怨敵。

董卓憎しの影響が献帝にも及んでいるのだ。
そのせいで、積極的に献帝を救おうという考えにはなれない。

いずれにせよ、漢王朝の権威が戻れば天子を奉戴し、戻らなければ、今までと変わらず自身の力を頼りに覇道を突き進む。
袁紹陣営の方針が固まったのだった。


同じころ、同様の会議を曹操の領地でも行われていた。
荀彧が天子奉戴を強く勧める。

「衰退しているとはいえ、漢王朝四百年の歴史は、我々の心の中の一部となっております。この御旗を掲げることにより、天下の人民は殿のことを心服することでしょう」
荀彧の言っていることは分かる。
しかし・・その天子が足枷となる可能性を曹操はぬぐい切れなかった。

考え込む、曹操の前に使いの者が慌ててやって来た。
「曹操さまにお会いしたいと急使の者が来ております」
このような時期に急使とは、一体、どこの・・・
すると、どこかで聞いたことがある大声が会場に響く。

「いや、荀彧殿だっけ、あんた良いこというね」
そこに姿を現したのは、なんと徐州牧、劉備玄徳だった。
劉備は張飛と簡雍を伴って、曹操の前に立った。

ついこの前まで、戦争をしていた敵方の大将の登場に曹操陣営はどよめく。
「舐めているのか、劉備玄徳」
夏侯惇が剣を抜こうとするのを、張飛がにらみつけて制した。
夏侯惇の他にも、夏侯淵、典韋、許褚ら有力な将は、全員、剣の柄に手をかける。

「よせ。剣を収めろ」
一触即発の雰囲気の中、曹操が部下に自制を命じた。
「劉備との決着は、このような形でつける気はない」

徐州攻防戦では劉備に敗れている。
戦で負けたまま終わるのは、曹操の矜持が許さなかった。

「それで、一体、どういう用件かな?」
「今、話題にしていた献帝陛下の件さ」
「ほうっ」と、曹操が唸る。

「いつも、こういのは憲和に任せているんだけど、今回はさすがに一人で送り込むわけにはいかないと思ってね」
「それで、一家でのご来訪か。・・・いや、関羽がいないようだが?」
「今、うちには狼がいるんでね。空き家にはできんさ」

それはそうだ。曹操も痛い目を見たばかり。もっとも、空き家にしていた訳ではないが、油断していたことには間違いない。
呂布に隙を与えないのは当然の対応だった。

大分それてしまったので、曹操は話を戻す。
「それで、献帝陛下をどうしたいと?」
「さっき、そこの荀彧殿が言っていたように、曹操、あんたに庇護を頼みたい」

「それは文若からも勧められたが、・・・どうも、気乗りしない。君たちがその気にさせてくれるのかな?」

曹操は、そう言いながら簡雍を見つめた。視線が集まると、一つ咳払いをした簡雍は、荀彧に対して、配慮の弁を述べる。

「荀彧さんの話の続きがあるんじゃないですか?私が出過ぎたまねをするのは、どうかと思いますが・・・」
「いえ、殿が一目置く、簡雍殿のご高説を賜りたく思います」
しかし、荀彧もお手並み拝見とばかりに、曹操の説得を簡雍に任せることにしたようだ。

「それでは、僭越ながら・・・確かに今の献帝陛下、漢王朝の権威は失墜しています」
実際、劉備が朝廷の許可なく徐州牧を名乗っている。官職、爵位の任命権は朝廷に唯一、帰属すべきものだが、それが群雄たちの好き勝手になっていることが、まさしく力を失っていることを示していた。

「そんな漢王朝に手を差し伸べる意味があるのかな?」
「ええ、一部の人には意味があります」
「一部というのは?」

その問いに、分かりやすく、劉備の背中に手をあてると、
「例えば、うちの大将では駄目です。でも、曹操さんなら意味を見出せる」
「劉備と私に、そこまで大きな違いがあるのかな?」
「全然違いますよ。それは雲泥万里です」と、簡雍は大袈裟に言うが、半分は劉備をからかってのものである。

劉備は、もう慣れているので、気にもしないが、それを見ている曹操の家臣団は驚きの表情を見せた。
自分の主君を面と向かって、こき下ろすなど考えれられない。
そんな周囲の反応など気にせず、簡雍は涼しい顔で説明を続けた。

「今の漢王朝は力なき正義です。・・・それは言い換えると悪と同じ」
「・・悪。そこまで言うのかい?」
「ええ。ただ、今の群雄たちも、正義なき力で、すなわち悪です」
簡雍が言わんとしていることが何となく見えてきた。

一部の人間とは、力を持った群雄のことだろう。
州牧になったばかりの劉備が力不足ならば、該当するのは曹操か袁紹くらいか。

「力なき正義、正義なき力。この二つを組合せればいいということかな?」
「その通りです。何も朝廷が力を取り戻す必要はなく、群雄の力を背景に朝廷の威光を示せばいい」

「しかし、逆に群雄が自分の軍事力をもって、朝廷の権威を振るうことも可能ということになるが、それはいいのかな?」
朝廷の意に反することも、庇護する群雄との力関係で、どうにでもなるということ。

曹操の問いかけについては、代わりに劉備が答える。
「いいも悪いも、そうなっちまうのは必然だろうな。・・・だから、本当はこの件、憲和は反対していたんだ」

「その反対を押し切った理由は?」
「献帝陛下を救いたい。俺のわがままさ」
なるほどと、曹操は頷く。その後、腕を組んで考えだした。

「このような話を君が持ってくるということは、庇護する群雄の暴走を止める手立ても考えてあるということかい?」
「考えちゃいるが、不利な賭けだな」

「その賭けとやらをお聞かせ願えるかな?」
曹操の中では、ある程度考えが天子奉戴で固まりつつあるが、劉備陣営の考え方を最後まで確認する必要があると判断したのだ。

「簡単なこと、漢の忠臣が力をつけて、朝廷の発言力を強くすればいい」
「でも、そうさせないように庇護した群雄は動くだろうね」
「だから、賭けなのさ」
劉備と話していて、曹操はあることに気づかされる。

天子奉戴における難点だと思っていた、今の朝廷に権威や力がないことが、実は力ある群雄にとってはとてつもない利点だったのだ。
簡雍が言っていた、『一部の人には意味がある』

そう、曹操にとっては、力のない漢王朝だからこそ、意味がある。
言葉の意味を理解していたつもりだったが、もっと奥が深かった。
そして、このことに気付いている者が、世の中に何人いるだろうか・・・

目が合った荀彧も、驚きの表情で頷き返してきた。
おそらく、劉備は、いや簡雍は真っ先に気づいていたのだろう。
だが、惜しむらくは徐州は復興することを優先しなければならないほどに傷を負っていた。

二、三年後なら、ともかく、今は曹操や袁紹に対抗するだけの力がない。
徐州侵攻は、失敗に終わったが、無駄ではなかったということか・・・
皮肉なことだが、今は、この優位性を存分に活用させてもうことにする。

「分かった。それでは我らは天子奉戴のために洛陽をめざそう」
曹操は立ち上がると家臣の皆々の前で、そう宣言した。
この決定は、曹操にとって、大きな転換期の一つとなるのだった。
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