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第26章 劉備入蜀編

第178話 大いなる決断

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葭萌関に劉璋から送られてきた援軍が到着すると、劉備は唖然とした。
その陣容は、兵役を引退したのではないかと思われる老人兵で構成された、僅か三千人の集団なのである。
これでは、逆に足手まといになるのではないかとさえ思えるのだ。

「これを好意と受けとるのは、相当な修練が必要だな」
「まぁ、劉璋本人は、定かじゃないが、周りの臣は悪意しか持ってないんだろうねぇ」

龐統の言葉に頷く劉備は、早々に益州を離れた方がいいと考える。
この目に見える悪意が、いつ実力行使に変わるか分からないのだ。

「季玉殿への挨拶も止めた方がいいか。・・・士元、早々に陣払いの準備を始めてくれ」
「そいつは構わないが、せめて白水関の二人には声をかけた方がいいんじゃないかい?万が一、張魯が攻めて来た時、葭萌関の情報を知らなきゃ後手に回るぜ」

それは、確かにもっともなことである。早速、白水関を守る楊懐と高沛に使者を送った。
二将に挨拶を済ませれば、益州とは、おさらばとなる。
実りがあった遠征とは言えなかったが、今回は致し方ない。

『まだまだ、実績も徳も積まないと駄目だな』

劉備は不完全燃焼に終わる益州遠征を反省した。
ただ、その後ろでは、龐統と法正が、何やら綿密な打ち合わせを行っている。
陣払いだけの簡単な作業に、何の打合せをしているのかだろうか?

劉備は、二人の行動が不思議でならないが、別に確認するまでには及ばない。
ただ、漫然とその光景を見つめるのだった。


劉璋からの援軍が到着する二日前、ある報せを持って法正は龐統を訪ねた。
その話を聞いた龐統は、この男らしくなく眉間にしわを寄せる。

「ってことは、劉璋と我が殿を争わせるために張松殿が、その身を犠牲にしたっていうのかい?」
「その通り。わが友の命を賭した策略。必ず成就させて頂きたい」

法正は、切なる願いを龐統に訴えた。その願いとは、当然、劉備が益州をとることである。
この件は、事前に法正と約束していたので、龐統としても違えるつもりはない。

ただ、随分と重たいものを背負ってしまったというのが、率直な感想だった。
飄然と生きてきた龐統は、今まで、誰かのために何かをしなければという責任を感じたことがない。

この自分に似つかわしくない状況と、そのことを受け入れている自分自身に驚いた。
これもらしくない宮仕えをしている影響か?それとも劉備という人物がなせる業なのか?

ここまで、自分に変化をもたらす環境を龐統は、面白いと感じていた。
そして、法正を安心さるために大見得を切る。

「任せておきな。俺の道号、鳳雛の名は伊達じゃない」
「おお、感謝いたします」

龐統から、言質をとった法正は、素直に安堵した。
この天才軍師と自分が知恵を絞り合えば、恐らく荊州に帰ろうとする劉備を留めることが可能であろうと考える。

龐統も同様のようで、二人でじっくりと検討を重ねた。
二人の意見が一致したのは、攻め込まれれば劉備といえど、必ず反撃に出るということである。
そこで一旦、戦端が開かれれば、もう誰にも止めるのは難しくなっていくということだ。

つまり、相手に先に手を出させて、劉備が怒りを覚えれば作戦として成功ということになる。
但し、現状、難しいと法正は頭を振った。

何故なら、張松のように劉備に傾倒する者が出ないように、劉備とは接触しないようお布令が出ているというのである。
これは成都に残る信頼がおける者からの情報のため、確かなものだ。

となれば、一番近くにいる蜀将は白水関の楊懐と高沛だが、彼らとの接触も難しいのだろうか?
一度だけ、彼ら二人に龐統も会っているが、その時の高沛の態度が気になったというのは、劉備と同意見だった。

「高沛ってのは、どういう人物だい?」
「白水関の都督、楊懐と同輩だったのですが、今はその配下に甘んじています」
「ふーん。何か不満を溜め込んでそう匂いがぷんぷんするねぇ」

もし、高沛の前に功を挙げる機会が舞い降りたら・・・
龐統の意のままに動いてくれそうな気がしないでもない。

もう少し詳しい情報を龐統は尋ねた。
二人は、そのまま話し込み、龐統の考え方を加える。すると、何とか白水関の兵を誘い込むことが可能という結論になった。

まず、虚報をもって、劉備の兵の大半が、すでに荊州に帰っていると伝える。
続いて、劉備のところには劉璋から頂いた贈り物が山積みのように残っており、まだ、運びきれていないという情報も流す。
最後に退却に際し、劉備から挨拶したいと、両名に申し出るのだ。

この策、劉備は伝えない。そのため、本当にやましい気持ちがない誘いとなり、こちらは警戒していないと思い込むだろう。
隙だらけの劉備を前にして、黙っていられとは思えない。

ましてや、白水関にいるのは東州兵である。
普段から、金品に目がくらみ狼藉を働くような連中だ。財宝に目がくらんで、楊懐と高沛に劉備攻めを突き上げること間違いないはずだ。

高沛は野心に疼き、東州兵は欲望に目がくらむ。
楊懐だけでは、絶対、抑えがきかなくなること請け合いだ。

作戦の目途が立つと龐統は、表情を固くして、「張松殿の冥福を祈ろう」と言い出す。
法正が賛成すると、二人は遠く成都の方角に黙とうを捧げるのだった。


劉備の使者が去った後、楊懐と高沛の二人は話し合いを行った。
「わざわざ荊州からやって来た劉備が、別れの挨拶をしたいというのを無視することは、失礼だろう」

高沛が表向きの意見を言うのだが、その心底は見え透いていた。
劉備の手勢、三万の内、一万五千は先行して荊州に向かっていると聞く。

残り一万五千の内訳も一万は、もともと益州の兵であり、実質、劉備の手元には五千しかいない計算になった。
白水関の兵力三万と葭萌関の益州兵を合わせて四万五千となれば、五千しかいない劉備軍の殲滅は、赤子の手をひねるよりも簡単である。

高沛の野心をくすぐるのに十分だった。
ここで劉備を討ち、その配下を劉璋の下につかせることができれば、その手柄は計り知れないものになるだろう。
また、部下の東州兵たちも、劉璋のお布令など、今まで従ったことがないと、身も蓋もないことを言い出すのだ。

実は楊懐自身も劉備の挨拶を無視することについては、礼儀に反すると考えていたのである。そのため、高沛の言う通り葭萌関に向かうことを承認した。

また、機会があればと、邪な気持ちも若干、抱いたことも否めない。
別れの挨拶をするだけにしては、少々、多い三万の軍勢を引き連れて、楊懐と高沛は葭萌関に向かうのだった。


劉備も数々の修羅場をくぐってきた男。
いくら隠そうとしも兵士が放つ殺気に気づかない訳がなかった。
楊懐と高沛が、挨拶に訪れた瞬間から、異様な雰囲気を感じ取っていたのである。

「こちらの戦局が定まらない内に、去ることを心苦しく感じている。申し訳ないが理解してほしい」
「承知しております。・・・しかし、劉皇叔と別れることになるとは、淋しいものですなぁ」

それほど、親しくしたつもりはないが、高沛が饒舌になって、返答してきた。この辺からして、すでに怪しいのである。
劉備は、この二人が何か企んでいると確信した。

「まぁ、今生の別れではない。濡須口での方がついたら、すぐ戻って来る」
「さて、それはどうでしょうな」

ここに来て突然、高沛は目的を隠すことを止めた。剣を鞘か抜いたのである。
楊懐も積極的ではないが、高沛に従うように劉備に剣を向けるのだった。

「おいおい、これはちょっと、おいたが過ぎるんじゃないか?」
「ふん、餌をぶら下げて、我らの前を通るからよ」

餌とは、何のことを言っているのか、さっぱりだったが、この二人との関係は破局を迎えたことは間違いない。
まぁ、龐統辺りが何か仕掛けたのだろうという予測はつくが・・・
その龐統はというと、したり顔を隠そうともしていなかった。

「餌に食いついたとは、言い得て妙だねぇ。じゃあ、これから釣り上げるとするか」
龐統が手を挙げると、どこに潜んでいたのか劉備も知らなかったが、弓を構えた兵たちが姿を現す。
そして、照準を楊懐と高沛に合わせるのだった。

「くそ、兵を潜ませているとは、・・・我らを嵌めたのか?」
「いや、この場合、欲に目がくらんで嵌る方が悪いでしょ」

激高した高沛が剣を振りかざしたところ、黄忠の矢がその剣を弾く。
楊懐が呆気にとられている隙に、気がつけば魏延の刃が目の前にあった。
これで、大将二人が、あっさりと捕まったのである。

残るは付き従ってきた東州兵三万だが、指揮官がいないままでは、統制がとれている軍隊に敵うわけがない。
しかも、劉備軍の兵は少なくなっていると聞いていたが、東州兵の前には同数以上の兵が槍を構えていた。
諦めて、素直に白旗を上げる。

さて、楊懐、高沛の二人についてだが、どうしたものか劉備は頭をひねった。
「我らを殺せば、全面戦争に突入するぞ」と、高沛が喚き散らして、うるさいので猿ぐつわを噛ませる。

『全面戦争ねぇ。刃を向けられて、なかったことにするほど、お人好しじゃねぇんだよな』

しばらく考え込んだ劉備は、一つ、楊懐に質問を投げかけた。
「ちょっと小耳に挟んだんだが、季玉殿は蜀将に俺と交友を図るなという指示を出したってのは、本当かい?」
「当たり前だ。貴様のような輩と言葉を語ってよい訳がないだろう」
「ふーん。てことは、俺と仲良くする気はないってことだな」

結論から言うと、そういう意味が含まれた劉璋の指示である。
張松のような人物を出さないための手段だが、実際にそれを聞いた劉備が、どう思うかまでは、頭が回らなかったようだ。

若干、龐統に乗せられた感があるところが不満だが、劉備は、大きな決断を下す。
楊懐と高沛を打首にするのだった。

つまり、高沛がいうように益州との全面戦争に踏み切ったということになる。
残るは東州兵の扱いだが、ここで意外な人物たちが声をかけてきた。
それは劉璋から派遣されてきた老人兵の代表、数名である。

「こいつらは、劉皇叔に逆らうという馬鹿な真似をしましたが、我らが言って聞かせるので、命は助けてやって下さいませんか?」
どうやら、派遣されてきた老人兵は、引退した東州兵の集団だったようで、白水関にいたのは、彼らの次代の者たちらしかった。

命を救ってくれるのであれば、代わりに自分たちの命を差出すとまで言う。
そんな、彼らに劉備は、「捨てる命があるなら、勿体ないから俺のために使ってくれよ」と、声をかけた。

そして、降伏している東州兵の前に立つ。
「俺はこれから、劉璋と戦う。だが、この戦には大義はない。あくまでも俺の野望のためだ。それでもいいから、俺とともに戦いたいという者だけ、ここに残ってくれ」

すると、初め、静まり返っていた東州兵の中から、次第に『劉皇叔、万歳』の大合唱が始まる。
そこには、命を救われるという打算もあるだろうが、この結果には劉備も満足した。

新たに三万の兵力を手に入れることに成功したのである。
ご満悦の劉備の後ろで、龐統が明らかな不満顔を示した。

「士元、どうした?」
「ずるいでしょ。こっちは、この東州兵を仲間に引き込むため、色々、策を考えていたってのに、全部無駄になってしまいましたよ」

その言葉に、今度は劉備がしたり顔を返す。
「ははは。俺を躍らせようとしたのと、これで相子だな」
龐統は、肩をすくめて頷くが、口元は綻んでいた。

一方、法正は亡き張松に思いをはせる。
これで、やっと出発点に立つことができた。ここからが大変なのは承知済み。
しかし、このまま、ひた走り、友の願いを必ず成就させると誓うのであった。
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