宝生の樹

丸家れい

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第二章

自分の中の光

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 ***

 いざというときに、守れないなんて御免だ。

 松老院に取り憑く蝦蟇の妖怪が陰湿に笑うのを、松老院のどす黒く濁った藍色の気の近くにあった青の清らかな気が反発し合うのをただ黙って見ていることしかできなかった。

『手を離していただけませんか?』

 青の困惑した言葉を聞いてすぐに駆け付けたかったのに。

 青が許してくれない限り、側に近寄ることさえできない。
 これ以上、青に幻滅されるのが怖くて、東は動くことができなかった。
 
 章子と話を終えて立ち去ろうとする青の気配を察知した東は咄嗟に声をかけた。

「青」

 名を呼ばれた青が立ち止まる。

「なんだ」

 東を見ることなく言った青の声に、章子と会話をしていたときのような穏やかな色はない。声の調子を落として不機嫌な色に染まった青の元に、部屋の脇で控えていた東は腰を上げて歩み寄る。

「話がある」

 一泊間したのち青は嘆息をついて、東と逆方向に歩を進めた。

 遠のく足音に東の胸が詰まる。凍りかけた心を無理やり動かして、無機質な息を吐いた東は自嘲する。

 自業自得じゃないか。
 
 唇を噛みしめて俯いた東に、不意に声がかけられる。

「何をしている。部屋に戻るぞ。……私は疲れたのだ。早くしてくれ」

 拒まれたのではなかったのだと安堵した東は、急いで青の後をついて行った。

 京樂にある美弥藤の屋敷で用意された部屋は、饗宴が行われている客間とは中庭を挟んだ反対側にある居住棟の一室だ。予波ノ島の屋敷の私室の何倍もの広さがあるこの部屋は、元は保典の妻が使用していた部屋である。

 四十畳を優に超える、だだっ広い部屋を御簾で区切り、青と東は予波ノ島の私室と同程度の広さの空間を作って過ごしていた。

 昼間は春めいた陽射しに気温が高くなるが、夜気はまだ冬の名残を孕んでいる。
 結灯台の密やかな灯りが不規則に動いて、闇を揺らしていた。

 どのくらい時間が経っただろう。

 青と向かって座っていた東は、何から話せばいいのかわからず黙り込んだままだった。刻一刻と時間が過ぎていく中、青は苛立つことなく静かに待ってくれている。
 
 喉を上下させた東が意を決して口を開こうとすると、先に青がゆっくりと音を響かせた。

「……気配、というのか。私にはよくわからないが、最近になって、母上からとてつもなく嫌なものを感じる。……あれは、何だ?」

 急に話しかけられたため咄嗟に声が出なかった。東は咳払いをして、喉を抉じ開けて言った。

「それは……幸子には、魔物が憑いているからだと思う」

 東の言葉に驚くことなく青は、そうか、と苦笑した。

 青自身は気付いていないだろうが、青には霊感がある。
 人の目には見えない、人が放つ感情の類である気を敏感に察知する体質というのか。最近では、精霊の気配も感じ取っているようだった。

 常世と通じる能力を持つ自分の近くにいることで、青の感覚が感化され、さらに敏感になってしまったのか、天性のものが開花したのかはわからないが。
 
 人の気を敏感に読み取る青だからこそ、ずっと待ってくれている。自分が言いにくい気配を醸し出していたから、察してくれていたのだ。

 青の優しさに甘えてばかりの自分に歯噛みし、東はきつく拳を握り締めた。

「……八年前」

「うん」

「幸子に取り憑いている魔物の力を借りて、……國保の命を奪った」

 青の反応が怖くて俯きかけたが、東は堪える。
 一泊置いて、青が静かに口を開いた。

「……何故?」

 青の声音は静寂を纏って穏やかだった。東は続ける。

「それは、幸子が國保の死を望んでいたから……」

「そんなこと察しはついている。私が知りたいのは、そこじゃない」

「……」

 東は言い淀んだ。自分が白人だということを露見すると脅されたから、と言えば明らかに青のためだということになってしまう。それでは青のせいになってしまう。自分はそんなこと望んでいない。

 言いたくもない。
 
 東は布作面の下で瞳を薄く泳がせ、ゆっくりと口を開いた。

「俺は、自分に負けたんだ。……溜池が決壊したのは俺のせい。たくさんの人を死なせてしまった。完全なる驕りだった。何も知らず、自分の能力で皆を幸せにできると思い上がっていた。……それでも、俺は必要とされたかった。選択を間違えた自分を受け入れてくれるのなら、幸子でも魔物でも、誰でもよかったんだ」

 白人である自分を匿ってくれている青に迷惑をかけたくないというのも事実。だが、自分の中に巣食う闇に負けたのもまた事実だった。
 
 黙って聞いていた青は、ふぅん、と納得したのかしていないのか曖昧な返答をした。次いで、胡坐をかいた膝の上で頬杖をついた青は苦笑する。

「私では、役不足だったというわけだな?」

 東は顔を顰めた。

「違う。そんなこと言っていないだろう!」

「おまえは今、自分の口で言ったぞ。誰でもよかったと」

 東は口を噤んだ。
 深い溜息をついた青は続ける。

「まぁ、よい。話してくれてありがとう。私も大人げなかったな」

 境界線を引かれた気がした。青の心が、離れていく気がした。
 東は咄嗟に口を開く。

「そんなことない。俺が悪かったんだ。俺が」

 東の必死に紡ぐ言葉を青は遮った。

「溜池のことは東のせいではない。決壊した溜池は上尾で一番古くに作られたものだったからな。あれは、こちらが気づかなければならなかったと思っている。が、……東はどうしたいのだ」

「どう、したい?」

 そうだ、と青は頷いた。

「おまえの本心が聞きたい。自棄を起こして國保の命を奪ったのだな? では、次は? 章子さまが生んだ赤子の命を奪ったのは、何故だ」

「何故って……」

 それは幸子に命令されたからだ。逆らえないからだ。

 でも、そうじゃない。
 青はその先を知りたいと言っている。
 
 ふと、東は思い出した。
 章子が出産を終えて間もない頃、青と共に祝いに行ったことを。その際に、章子から赤子を抱っこしてみないかと言われ、東は戸惑いながらも抱かせてもらったのだ。

 初めて抱いた赤子は、とても小さくて柔くて、あたたかい光に包まれていた。
 泣きたくなるほどの優しい気に包まれた東は、怖かった。
 
 赤子は何も知らない。今から命を奪われるだなんて。
 自分の命を奪う相手に抱っこされているだなんて、知る由もないだろう。
 
 なんども、なんども、心の中で謝った。
 なんども、なんども、自分が死んだ方がいいんじゃないかって思った。
 
 言い訳にしかならないってわかっている。
 言い訳にしかならないから、自分の本音から目を逸らしていた。

 本当はやりたくなんかなかった。

 自分がもっと強ければ、青と心の底から穏やかに過ごせていたかもしれない。
 國保と、生まれてきた赤子と共に過ごせていたかもしれない。
 
 そんなあったかもしれない未来を自ら握り潰したのだ。
 この手で。
 
 もう、やりたくなんかない。

「どうして泣いているのか、自分でもわかっているな」

 そう青に指摘されて、東は自分の頬に涙が流れていることに気付いた。手の甲で涙を拭い、東は頷いた。

 青は安堵したように息をついた。

「よし。では、もう母上と関わるなよ」

「いや……でも」

「他に母上に関わりたい理由があるのなら、無理にとは言わんが」

 青の含みのある言い方に東は首を振った。
 青はぞんざいに軽く手を振って鼻を鳴らした。

「ならば、もう放っておけ。……実の娘ながら、母上のことは好きになれん。……昔は何故か、母上の言うことを律儀に守っていたがな」

 過去の自分を呆れたように笑う青の声に、東は深く微笑んだ。

 幸子からの呪縛を解きつつあるのだな。

 青から放たれる清純な気に心から安堵した東は下唇を噛み締めた。

「俺は、……もう闇に染まってしまった。青の光が眩しくてたまらない」
 
 後戻りすることができない自分の人生を悔いているというのとは違う。自分で選んだことだ。だが、せめて青の隣で歩むにふさわしい人でありたかったと思う。

 東が布作面の下で自嘲していると、青はきょとんと目を丸くした。

「おまえは何を言っているんだ。陰陽の巡りがあるからこの世が成り立つのだと教えてくれたのはおまえだろう。……闇に染まったからなんだ」

 呆然とする東に、青は困ったように、しかし優しく微笑んだ。

「おまえは自分の中にある光を見つけられただろう。自分がどうしたいのか、選べばよいのではないか。自分が何を大切にしたいのか」

「……俺が、大切にしたいもの」

 そう東がおぼろげに呟くと、不意に青が動いた気配がした。
 近づいてくる衣擦れの音が目の前で止まる。
 次いで、ふわりと青の香りに包まれた。

「今まで、よくひとりで耐えてきたな」

 おまえは強い、と声を震わせた青の慈愛に満ちた温もりに抱き締められた東の深紅の瞳から自然と涙が溢れた。
 東は、青の肩に摺り寄せるように顔を埋めて声を殺して泣いた。

 より一層強く抱き締めてくれる青の背中に腕を回して、言いようのない安らぎに身を委ねた。


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