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第五章 贄の儀

第18話 燃え盛る小屋で

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 月島楓は絶望の中にいた。
 小屋の中は暗く、外の様子はわからない。ただ、自分の死が一秒ごとに足を近づけてくる。自分がここにいることを、誰も知らない。誰も助けは来ないのだ。誰も知らない場所で、誰にも知られず自分は死んでいく。その恐怖は、耐え難いものだった。

 もしかしたら坪川の言うとおり、諸星日向もすでに殺されているのだろうか。行方不明になった彼女の存在は、そのまま消えてしまうのだろうか。だとしたら、私もきっと。

 その時、足音が再びした。先ほどよりもどこか慌てているように聞こえる。
 ドアが勢いよく開けられた。
 また、マスク姿の影が一人、そこに立っている。
「お前にとっては残念な報せかもしれないが、予定が早まった。準備も整ったので、今から〝贄の儀〟を執り行う。お前の魂は、魔女へ捧げられる」

 扉から何かを運び込んだ。それは荷台に積まれた藁だった。楓は織部から聞いた話を思い出した。

 ──住人たちは呪術師が家の中にいることを確認すると、家から出られないように外から木を釘で打ち付けて塞ぎ、周囲に藁や薪を並べ、四方から火を放った。その火は一晩中消えなかった。

 荷台がひっくり返され、楓の周囲に藁が散らばる。
 このままでは、焼き殺されてしまう。
 楓はロープを解こうと暴れるが、身体にきつく食い込み、手の皮が剥けてしまっているようだ。血の巡りが悪くなっているせいで、指先の感覚も鈍っている。必死に声を出して訴えかけようとするが、それは声にならず虚しい叫びとなるだけだった。

「これは祝福なのだ。お前は魔女に魂を捧げ、永遠のものとなる」
 そんなもの、詭弁だ。しかし、それを訴えかけることもできない。
 扉は閉ざされ、外から音がした。金槌で釘を叩く音。それは、扉を外から打ち付けている音だった。
 音が鳴りやみ、しばらくすると。壁になっている木の隙間から煙が入ってきた。火がつけられたのだ。このままでは魔女のように……

 ロープを柱にこすりつけて切ろうとするが、柱の角は面取りされていてうまくはいかない。
 扉の下の隙間から藁を伝って火の手が迫ってきた。
 それ以上に、小屋の中を覆う煙によって息がまともにできなくなってくる。
 咳き込むが、噛まされた猿轡によって、うまく息が吐き出せない。
 楓は舌でなんとか猿轡を押し出し、外すことに成功した。
 咳が止まらないが、息を吸い込もうとすると煙も一緒に吸ってしまう。
「誰か、助け……」
 声を上げるが、すぐに煙で息が詰まってしまい、うまく声が出せない。たとえ出たとしても、それが誰かに届くことはない。

 煙が目に染みて涙が出てくる、まともに目が開けられない。
 煙と熱が楓を包んでいく。
 自分は死ぬのだろうか。
 吸い込んだ煙で意識が朦朧としてきた。
 焼死は最も苦しい死因のひとつに挙げられるらしいが、多くの場合先に吸い込んだ煙によって二酸化炭素中毒が起こって意識を失い、そのまま亡くなってしまうという。
 どうせ死ぬなら、このまま意識を失ってしまった方が、楽に死ねるだろうか。
 しかしながら、たとえ死ぬ覚悟をしても、身体と脳に備わった生存本能が、それを許してはくれない。

 身体も心も、必死に生きたいと叫んでいた。
 やだ、まだ死にたくない。
「誰か!」
 どこにも届かないであろう叫び声が響く。
 熱い……苦しい……
 死にたくない……死にたくない……
「楓さん!」
 聞こえてきたのは、幻聴だったのだろうか。
 いや、たしかに外から声が聞こえた。
 あの声は、小野瀬さん?
 危ない、逃げて。
 と薄れゆく意識の中で思ったが、それが楓の口から出ることはなかった。
 闇が楓を包み込んだ。

 ──くそっ!
 と、小野瀬崇彦は木の壁を叩いた。
 滝に向かっている途中、近くの森から煙が上がっているのが判った。
 ハンドルを切り、その煙へと向かっていった。
 途中で『私有地につき、立入禁止』と書かれた貼り紙がぶら下がったロープが張られていたが、構わず小野瀬は車でそれを突き破った。
 木を繋ぎ合わせただけの粗末な小屋があり、入口と思われる扉付近に火の手が上がっていた。夜明けまで時間があるはずなのに、なぜ?
 辺りには、誰もいなかった。
 車を降りて、小屋へ走っていく。
「誰か!」
 という声が、小屋の中から聞こえた気がした。
「楓さん!」
 小野瀬はその声に咄嗟に応えたが、小屋から声は聞こえなくなっていた。
 入口の扉は火で包まれ、壁には窓もない。
 木の隙間から中が見えるかもしれない。
 まだあまり火の手の回っていない小屋の側面に移動し、隙間から中を覗く。扉付近の火はもう小屋の中にも燃え移っていた。暗闇の中、たしかに炎に照らされた月島楓の姿を一瞬捉えた。
「楓さん!」
 と呼びかけるが、反応はない。気絶してしまっているのだろうか。消防や救急車を呼んでいる暇はなかった。待っている間に、手遅れになってしまう。
 裏手を確認するが、裏口のようなものはない。
 造りは雑だが、壁には分厚い木が使われていて、素手では壊せそうにない。近くに転がっていた石を拾い上げ、壁に打ち付けるが簡単に壊れてはくれなかった。

 車にタイヤ交換用の工具はあるが、この壁を壊すには頼りない。
 その時、小野瀬にあるアイデアが浮かんだ。
 車に戻りサイドブレーキを下ろし、ギアをドライヴに入れた。
 危険だが、このままではどのみち。今、手を打たなければ間に合わない。
 一か八か、これしかない。
 アクセルを踏み込み、小屋の側面へ車ごと突っ込んだ。
 ボンネット部分が小屋の中へめり込んだ。無理矢理バックして確認すると、小屋の側面の木は割れ、なんとか人ひとりがくぐれそうな穴が空いていた。穴の付近に車のライトを照らしたままにして、小野瀬は車を飛び出して隙間から小屋の中へ飛び込んだ。

 小屋の中央の柱に月島楓が縛り付けられていた。
 ハンカチで口元を覆ったが、小屋の中には煙が充満していて、すぐに煙を吸ってしまい、息が苦しくなる。煙が目に染みて、視界もぼやけている。それでもなんとか辿り着き、固く結ばれた結び目を解いた。

 火が迫っていたが、不思議と熱は感じなかった。今はとにかく、楓を小屋の外へ連れていかなければ。無我夢中になっていたせいか、気力だけが身体を動かしていたのか、月島楓の身体を小屋から押し出し、自分も脱出して芝生に寝転んだ時には、ほとんど無意識に近い状態だった。

 小屋の中で眼鏡を落としてしまっていた。
 視界がボヤけてよく見えない。
 なんとか立ち上がり、咳込みながら、楓の身体を抱え込んで小屋から離してやる。
 脈はあり、意識を失っているが、それが幸いしてあまり煙を吸い込みすぎてはいないようだ。
 気道を確保して、口から息を吹き込んでやる。以前、会社で講習を受けたことはあるが、正しいやり方など覚えてはいなかった。効果があるかさえわからない。それでも、懸命に繰り返した。
 しばらくすると、ゲホっという激しい咳と共に、意識が戻った。
 反射的に新鮮な空気を吸おうとするが、咳き込んでしまい、むせ返ってしまっていた。上体を起こして背中をさすってやる。

 次第に呼吸は徐々に落ち着いてきたが、目はまだぼやけているようだ。
 宙を見ながら、小さく「小野瀬……さん」と呼ばれた気がした。
「まだショック状態が続いてます。もう大丈夫です。今は身体を落ち着けることだけ考えてください」
 ちゃんと聞こえているかは判らなかったが、ゆっくりと、小さく呼吸をしながら、楓はまた目を閉じて寝息を立てながら眠った。
 楓を救うことに夢中で気が付かなかったが、小野瀬自身も煙を多量に吸って意識がまだハッキリとはしていなかった。
 早く、救急車を呼ばなくては。

 小野瀬は携帯電話を取り出そうとした。そこに声がした。
「小野瀬くん、大丈夫か」
 そこにいたのは、駐在所にいた老警官、河本だった。
「彼女、誰かにそこで殺されそうになってて、なんとか……助け出しました。救急車を……」
 小野瀬の訴えに、河本は「ふーん」と言っただけで、助けを呼ぶ気配はなかった。
 なぜ、動いてくれないんだ。助けを……。
 脳裏に、つい先ほどのやり取りが甦る。そして、ようやく気付いた。
「あなたは……さっき『女の子は俺たちが助けてやる』と言いました。なんで……女の子って、知っていたんですか……」
「そりゃ、その子が駐在所に寄ったから知ってたのさ。その子のことだろうってね」
「なら、なぜあの時、記者について『ここ数日は見なかった』と言ったんですか……」
 小野瀬は咳き込みながら、老警官に訴えかけた。
「あなたは……咄嗟に月島さんと関わりがあったことを隠そうとした。自分が関わっているのを知られたくないという思いから。何より、応援を呼ぶと言っていたのに、誰もいないじゃないですか。あなたは、応援など呼ばずに、僕の後を追ってきた」
「まったく。あのまま死んでおけば良かったのに、面倒だな」
 老警官は表情を一変させた。
 地面から何かを拾い上げ、こちらに向かってきた。
 おそらく、壁を壊した際に落ちた壁の材木だろう。
 逃げなければ。
 しかし満身創痍の小野瀬の身体は、うまく動かなかった。
 せめてもと、楓の身体を自分の身体で覆った。
「魔女に生贄を出さなきゃ、怒りを買っちまう。魔女を殺せればいいのによ」
 ──魔女を、殺せれば?
「あなたたちは、魔女信仰をしていたんじゃないですか。生贄で魔女を甦らせようとしていたんじゃ……」
「そんなわけねえだろ。信仰なんてねえよ。どうでもいい、みんな邪魔しやがって。おっと、これはダメじゃないか」
 小野瀬の手から携帯電話を奪い取り、地面に捨てて踏み付けた。
「さよならだ。邪魔をしたお前が悪いんだ」
 角材が振り上げられた。
 それは真っ直ぐに小野瀬の頭部を狙っていたのは、ボヤけた視界でも判った。
 咄嗟に頭を手で隠し、顔を伏せた。
角材が振り落とされ、何かに打ち付けられる鈍い音がした。
「ってえ……」
 しかし、次に聞こえてきたのは、自分が殴られた音ではなかった。
 顔を上げると、河本が頭を押さえて、膝から崩れ落ちていた。
 その背後から、角材がもう一度振り下ろされ、再び河本の頭部に叩きつけられた。
 声もなく、河本は地面に崩れ落ちて動かなくなった。
 河本を殴りつけた人物は離れていてよく見えないが、小野瀬の視界はそれを捉えた。
マントと仮面を着けた人のような姿が見えた気がした。
「あ……あなたは……誰、ですか……」
 何が起きているのか呑み込めないまま、小野瀬の意識は地面に倒れ込むと同時に途切れた。

     *

 ──なんということだ。
 その惨状を見て、浅井あさい真司しんじは愕然とした。
 小屋だったその物体は、黒く焼け焦げている。
 降り出した雨が火を鎮め、そこから灰色の煙が立ち上っていた。
 普段から野焼きをしている場所なので、煙を見ても通報はされないはずなので、それは問題ない。
 しかしながら、そこにいるはずだった月島楓の死体はない。

 代わりに、そこにいるはずのない河本が、警官の制服姿のまま草むらに横たわっていた。後頭部からは血が流れていて、意識を失っているが息はあるようだ。
 近くには河本のであろう、駐在所の原付バイクがある。それともう一台、フロント部分が大破した乗用車が乗り捨てられている。ナンバーを見ると、品川だった。

 ──俺だ、ちょっと面倒になってきた。計画を早めた方がいい。

 河本から連絡があったのは、三十分ほど前。浅井は火を放ち、逃げるようにその場を後にした。
 河本の言う『面倒』とは、もしかしたらこの車に乗っていた人物のことかもしれない。誰かが、あの女を探しに来たのだ。

 浅井は拾った名刺を思い出した。月島楓と共に東條大学へやってきた男、奏明社の小野瀬とかいう男だ。そうであるならば、ここにある品川ナンバーの車も説明がつく。
 あの女は、どこへ消えた。
 そして。
 俺たちは、失敗してしまったのか。

 浅井は雨の中、呆然と立ち尽くした。
 落ちる雨と上る煙だけが、淡々と時を刻んでいた。
 念のため手袋をはめてから、車の中を見る。
 社用車のようで、特に情報はなさそうだが、ある事に気付いた。
 ドライヴレコーダーが付いている。
 少し探すと、記録用のSDカードが見つかった。これで状況が判るかもしれない。
 カードを抜き出してポケットにしまい、河本を車に乗せ、浅井はその場を去った。
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