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第六章 新興宗教団体サバト

第19話 呼吸法

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 ──ここは?
 布団に寝かされていた。見覚えのない天井が見える。
 六畳ほどの畳が敷かれた部屋だった。窓はあるが、カーテンが引かれていて、その向こうからは雨が窓を打ちつける音が聞こえる。あの時着せられていた白装束ではなく、ロゴの入った白いTシャツと、知らない下着に着替えさせられていた。

 意識も記憶もハッキリとせず、まだ息苦しさが残っていた。息を吸うと、咳が混じってしまう。
 ──私は、あの時。
 そうだ、小野瀬さんに助けられたんだ。小野瀬さんは無事だろうか?
「起きた? 身体は大丈夫?」
 聞き覚えのある声がして見ると、崎田静江が引き戸を開けて覗き込んでいた。
「静江さん! 私、どうしてここに。小野瀬さんは」
「崇彦なら隣の部屋で寝てるわよ。あっちも大きな怪我はなさそう。本当は一緒の布団に寝かせようとしたけど」
 静江が笑って見せる。

「静江さんが助けてくれたんですか?」
「そう。楓ちゃんから連絡ないから心配して探したのよ。そうしたらあそこで煙が上がってるのが見えて。あそこは普段から野焼きしてるんだけど、こんな明け方に、雨予報も出てるのにおかしいなって思って行ったら、楓ちゃんと崇彦が地面に倒れててビックリしちゃった」
「助けてくれて、ありがとうございました。小野瀬さんには、私を助けてくれたんです」

「誰があんな酷いことを」
「サバトだと思います。サバトの施設に近づいた時に、襲われて。私を殺そうとしたのも、仮面とマントを着けた人たちでした」
 静江は何かを考え込むように唸った。
「まあ、何にせよ。無事で良かったわ。崇彦も起きたかしら。見てくるから楓ちゃんはまだ横になってな。水も置いといたから。あ、あと服はとりあえず私のだけど我慢してね。下着もちゃんと洗ってあるやつだから。ただ、ブラはサイズが合わなかったから着けてないけど我慢して」
 静江は自分の胸に手を当てると、部屋から出て行ってた。

 再び横になると、あの時の恐怖が一気に甦り、血流と共に全身を駆け巡った。
寒くもないのに、手足が震えていた。
 肉体よりも、精神が憔悴しきっていた。
 楓は横になったまま、目を閉じた。ゆっくりと、深く息を吸い込み、同じ時間を掛けてゆっくりと吐き出す。
 呼吸を数回繰り返す。

 貯水槽に落ちて救出されたあの日、運ばれた病院のベッドに横たわっていた。
『とりあえず、ゆっくりと深呼吸しろ』
 坪川の声が甦る。
『今は強いショックを受けてる状態だ。頭では大丈夫だと思っていても、身体と心は違う。落ち着かない状態で脳だけ活発になってしまったら、身体も神経も余計に参っちまう』
 あの時も強い動揺を受けていた。
『ヨガって流行ってんだろ。あれは、動きに注目されがちだけど、本当に大切なのは、呼吸法なんだ。しっかりと呼吸をすることで、自律神経を整える効果がある』

 思えば坪川なりの気遣いだったのだろう。それに従って、目を閉じてゆっくりと呼吸を繰り返しているうちに、過敏になっていた神経が、少しだけ和らいだ気がした。

 それから、緊張する場面では深呼吸をして気持ちを整える癖がついていた。
 呼吸による効果ではなくて、自己暗示によるものかもしれない。けれど、それによって心が落ち着く、一種のおまじないでもあった。

 深く息を吸い込もうとするが、煙を吸った喉はうまく働いてくれず、またむせ返ってしまった。それでも静江のくれた水を飲み、少しずつ呼吸を整える意識を持ち、身体をリラックスさせていく。

 徐々にではあるが、呼吸も落ち着いてきた。
 繰り返すうちに、吐き出す息と共に、張り詰めていた神経が、少し弛んだ気がした。
 強張っていた筋肉がほぐれていくうちに、目元から自然と涙が落ちていった。涙は、頬の輪郭を撫でてから、顔の横へと落ちていった。
 これは、何の涙だろう。
 わかっていた。
 これは、助かったことへの安堵でも、味わった恐怖へのものでもない。
 怒りであり、悔恨の涙だ。

 一人でも、やれると思っていた。
 しかし、結局自分は、一人では何もできなかった。
 そればかりか。また、助けられてしまった。
 不甲斐なさが、自分への怒りに変わっていた。
 自分は、何の役にも立ってないばかりか、自らの命と小野瀬を危険に晒した。
 情けなかった。
 『引船ヶ丘事件の真実』のような、読んだ人が救われるようなことを書きたいと思っていた。しかし現実は、自分は様々な人々に救われてばかりだ。
 そんな人間が書いたものなど、誰が受け取ってくれるだろうか。

 自分は、何のために取材し、何のために文章を書いてきたのだろう。このまま続けていても、人に迷惑を掛けてしまうばかりになるくらいなら、いっそ。
 けれど、この道を歩くのをやめて、自分に何が残るだろう。何ができるだろうか。
 自分には、何もない。

 ぼんやりとしていると昔の記憶が甦ってきた。
『うちじゃ女性は大変でやっていけないよ。代わりに僕が知り合いを紹介してあげようか。その胸なら君は体当たりの風俗ライターくらいにはなれるかもよ』
 あれは、今となってはどこの出版社だったかさえも思い出せない。それなりの大手だったはずだ。就職活動中、ある出版社の二次面接で、面接官だった男は楓に言った。

 結果は不採用だった。楓の就活用のアドレスには、不採用の通知だけでなく、あの面接官からのメールも届いた。『表向きは不採用だけど、君の出方次第では上申してもいいよ』と書かれたメールの続きには、日時とバーの名前が書かれていた。

 悔しかった。女ということで、こんなに下に見られるということが。今は昔よりも女性が社会進出したことで、こういったセクハラ紛いの言動はなくなりつつあると聞いていた。しかし、まだそれが完全にはなくなっていないのだと知った。
 楓はデリートキーを何度も押して、忌々しいメールを削除した。他のお祈りメールも一緒に消えたが、構いはしなかった。次の日には下着屋に行き、胸が小さく見えるブラを買った。

 なんでこんなことを思い出したんだろう。静江がブラの話をしたからだろうか。
 けれど同時に、思い出していた。その悔しさと怒りが、理不尽に負けまいという力もくれたのだ。

 ──あなたは、うまく行かないこともあるけれど、諦めなければ良い出会いに恵まれる星が出てる。あなたが抱いてる夢が、あなたをその出会いへ導いてくれる。

 からもらった言葉を思い出した。
 それでも自分に残るものがあるとすれば、支えてきてくれた周りの人々との繋がりだけだ。

 ──なんで、あんな良い子が……。

 ホープのマスター、新島の顔が浮かぶ。
使命や信念なんて大それたものでなくていい。それでも止まってしまった心が、少しでも報われるのならば。残された人たちが、前を向けるのなら。
 私は、絶対に真実を書いてみせる。

 足音がして、見ると引き戸が再び開いた。顔を覗かせたのは静江ではなく、小野瀬だった。
「小野瀬さん!」
「月島さん!」
 互いに思わず声が出てしまった。楓は布団から飛び起きた。

 小野瀬は部屋に入り、こちらへやってきた。
「大丈夫ですか」
 小野瀬に先に訊かれてしまった。
「はい、ショックは受けましたが、なんとか。小野瀬さんこそ、大丈夫でしたか」
「僕の方も、特に怪我はなかったので」
 小野瀬の笑顔を見た途端、また涙が溢れてきた。
「私……小野瀬さんに……私のせいで……助けてもらって……ごめんなさい」
 涙と嗚咽で、支離滅裂な言葉しか出なかった。

 小野瀬は、楓を胸に受け止めた。小野瀬の胸で泣き続けていると、小野瀬の大きな掌が、楓の頭を優しく撫でた。
「こちらこそ、一人にしてしまってすみませんでした。助かって良かったです」
「ありがとうございます……」
 感情が声を詰まらせる。絞り出すように、なんとか声にした。
「あと……その……」
 小野瀬が気まずそうに目を逸らす。
 ノーブラな上に下着姿のままだったことを忘れていた。
 慌ててタオルケットで隠す。

「二人とも無事で良かったよ。何か食べる? といってもまだ食欲湧かないか」
 言葉よりも先に身体が答えた。楓の胃が悲鳴を上げていたのだ。
「あら。じゃあお粥か何かつくってくるわ。丁度沸くと思うから、二人とも先にお風呂入りな。崇彦はうちの父親の服しかないけど、部屋にまだあるから好きに着て。楓ちゃんも私の服好きなの着てていいから。どっちが先に入る? もちろん一緒でもいいけど、狭いから無理か」
 静江は笑いながら言った。

 小野瀬に聞くと先に行ってくださいと言われ、楓は風呂を借りることにした。
 静江と一緒に下に降りて洋服の入った箪笥を教えてもらう。静江は店の開店準備に戻っていった。ギンガムチェックのブラウスと、ジーンズを借りることにした。これならブラがなくとも目立たないだろう。

 シャワーで身体を流していく。
 まだ全身に煙の臭いが染み付いているように感じる。鼻にずっと残っているせいで、どれだけ石鹸をつけても身体から落ちないように感じた。
 小野瀬も楓の後に風呂に入り、静江の父親のものらしいポロシャツとジーンズ姿になって戻ってきた。眼鏡が変わっていたのが気になっていたが、壊れてしまって今はスペアを使っているからだという。

「小野瀬さん、どうしてあそこに」
「誰かからメールが来たんです。月島さんが危険な状態だと。それで東京から急いで来ました」
 東京からわざわざ助けにきてくれたのかと思うと、楓はまた泣けてきてしまった。
 必死に涙を堪えるが、おそらく涙目になっているのは小野瀬に見られているだろう。

「坪川さんとかにも連絡をしたのですが、携帯を壊されてしまいまして。あの警官に。今頃どうしているか確認できません」
「警官って?」
「駐在所の警官です。彼は犯人の一味でした。月島さんが立ち寄ったことで、情報が伝わったんだと思います」
「あの、おじいちゃん警官がですか」
 あの穏やかで優しい見た目からは想像もつかない。
 犯人の一人ということは、まさかあの警官もサバトの一人ということなのだろうか。
「この事件は、思ったよりも根が深そうです。月島さん、危険なので東京に戻った方が」
「いえ、諦めません。絶対に」
 楓は小野瀬の目を見据えながら言った。小野瀬は説得の言葉を失ったようだ。

 小野瀬に陽石駅で別れてからの経緯を説明していると、階段に足音を響かせながら、静江がおぼんを手に戻ってきた。小さな土鍋に詰められた米粒たちが、白く輝いている。上には鮭のほぐし身と三つ葉が乗せられていた。
「無理しないで食べなよ」
 お店も開店しているので、静江は一階に戻っていった。

 静江に感謝をしながら、レンゲで粥を掬う。冷ましながら口に運ぶと米の甘味と控えめに振られた塩が調和して、口から身体全体へと沁み込んでいった。
 一口目を噛みしめながら、その温かさに楓はまた涙してしまった。
 小野瀬の前で泣き続けてしまい、情緒不安定な女だと思われてしまいそうだ。
 ちらりと横を見ると小野瀬は、泣いてる楓に気付かずに粥を食べていた。
 バレないうちにそっと涙を拭いて続きを食べた。
「生きてて良かった……」
 ふと口から言葉が零れた。

 食べ終わり、一階へと食器を運んでいく。開店はしているが、昼前なのでまだ客は誰も来ていないようだ。
「ご馳走様でした」
 米一粒残さずなくなった土鍋の乗ったおぼんを渡しながら言った。
「あら、そのまま置いといてくれて良かったのに。無理しないで」
「大丈夫です。お粥食べたら、とても元気が出ました。洋服もありがとうございます」
「良かったわ」
 小野瀬もおぼんを渡して、静江に向かって言った。
「静江さん、ちょっといいですか」
 静江は不思議そうに、頷いた。
 四人掛けの席で楓と小野瀬は静江と向き合った。
「ずっと考えていたんですが」
 と前置きを置いて、小野瀬が語りだした。その口調は真面目なものだ。

「月島さんが監禁されて危険な状態だと僕にメールをくれたのは、静江さんですよね」
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