天高く馬肥ゆる草野球

萌菜加あん

文字の大きさ
13 / 26

第十三話 宝生の想い人

しおりを挟む
割れたコップはプーさんのイラストが描かれた聡子のお気に入りだった。
プーさんの顔に罅がはいって、まるで泣いているような顔に見えた。

目の前の男の言った言葉がうまく理解できなくて、
聡子はどこかぼんやりとした思考のままに
床に散らばった破片を片していると、指を切ってしまった。

「痛ったあ」

思わず呟くと、
指先に鮮血が盛り上がっている。

「見せてみろ」

黒髪の男が聡子の手を取り、指を舐めた。

聡子の全身に戦慄が走る。
しかし抗うことすらできない。

鴉の不吉な羽のような髪から覗く、
闇色の瞳に魅入られて、聡子は瞬きひとつできないのだ。

そんな聡子を一瞥し、男が低く嗤う。

「俺が恐いか?」

そう、恐いのだ。
今まで感じたことのない、
得体の知れない恐怖を聡子はこの男に感じるのだ。

聡子は恐怖に屈してしまいそうになる己を叱咤し、
その手を振り払って後ずさるのだが、
壁際に追い詰められ、手首を掴まれる。

闇色の美しいけど空虚な瞳が、
じっと聡子を見つめる。

「東雲聡子、宝生グループ関西支社の窓際OLにして、
宝生グループ総帥、宝生彰の想い人……か」

触れるほど近くに男の顔がある。
吐息が顔にかかるくらいの距離で、聡子は顔を顰めて身体を捩る。

「前半はその通りです。
しかし後半は大きく間違っていますよ?」

聡子はようやくのことで声を絞り出した。

「はあ? 私が宝生社長の想い人だと? 
なにそれ? ちゃんちゃら笑っちゃいますよ。
しかもへそでお茶が沸きます。
宝生社長はあれでも日本屈指の財閥の総帥で、
私はただの窓際の三流OLなんですってば。
なにをどうすればそんな愉快な話になるのかがわかりません」

聡子は全身全霊でその言葉を打ち消したのだが、
なぜだか胸が痛んだ。
瞼裏にあまりにも鮮やかに蘇る金髪の面影が、
わけもなく切なくて、なんだか泣きたい気持ちになった。

「いや、間違ってなどいないのだよ」

ひどく落ちついた様子で淡々と告げるその声色に、
なぜだか聡子の胸がトクンと高鳴った。
車のエンジン音が店の前でとまった。

「どうやら、迎えが来たようだ。ご同行願おうか? レディー」

差し出された手を聡子は払いのける。

「嫌です。絶対嫌! 
飴玉貰ったって一緒に行くもんか」

そう言って聡子は必死の抵抗を試みたが、
黒尽くめの屈強な男が三人ほど部屋に入り込んできて、
白いハンカチを口に宛がわれ、そこで意識が途切れた。

◇  ◇   ◇

「もう、こうなるんだったら、
最初から聡子姉に頼めばよかったんだよ」

新之助が鼻を膨らます。

「だけどよう、富雄の大将が倒れて
大変なんじゃねえのか? 聡子ちゃん」

梅さんはなんだか申し訳なさそうな表情で、
考え込むように腕を組んだ。

「っていうか、こっちもすでに非常事態だっつうの。
富雄さんは別に命に別状があるわけでもないんだし、
そもそも明日負けちまったら商店街がなくなっちまうんだぞ。
聡子姉も話せばきっとわかってくれるよ」

商店街の野球チーム『ボロ勝ち』のユニフォームを着たままで、
金髪とちびっことおっさんが三人が、商店街の豆腐屋『東雲』の前に佇む。

宝生が店の奥の和室の引き戸を開ける。

「お~い、聡子~? 聡子さ~ん」

家の中はシンと静まり返ったままだった。

「あれ? 病院かな」

宝生はきょろきょろと部屋の中を見回す。

部屋の奥に割れたコップの破片がそのままであった。

宝生の背中に戦慄が走る。

「聡子!」

宝生が狂ったようにその名を叫んで、
夕闇に染まる商店街を走り抜けた。

◇  ◇   ◇

覚醒しきらない意識の中で、水音がしていた。

やわらかく温かいこの場所は一体どこなんだろう……。
ゆっくりと聡子の瞳が開かれ、思考回路がストップする。

「だから、ここはどこ?」

あまりに現実離れしたこの状況に、
聡子は軽く怒りさえ込み上げてくる。

巨大なベッドにはたくさんのクッションが置かれ、
半ばそのクッションに埋もれるようにして聡子は眠っていたのだった。

むっくりと起き上がり、聡子は周りを見回した。

やわらかで温かいと感じたのは、
この超高級布団の所為だったのだと合点する。

黒を基調とした豪奢でおしゃれな部屋なのだが、
どこか冷たく、寂しい感じがした。

(ここはどこかのホテルなのだろうか、
それともマンションの一室なのだろうか)

聡子はふらつく足取りで窓辺に向かう。

ブラインドの隙間から宝石をちりばめたような夜景が広がっていた。
車が渋滞して長蛇の列を作っている。

おそらく人の往来の多さから察するに市内の中心地に位置するのであろう。

「やっと起きたか」
タオルで髪の水滴を拭いながら、黒髪の男が佇んでいた。

ゆったりとした濃紺の綿のズボンに上半身は裸のままで、
ミネラルウォーターのペットボトルを手にもっている。

「ひっ」

見慣れぬ若い男の半裸に、聡子は怯んでしまう。

「あの……ここはどこですか?」

「俺の別宅だ。ちょっとお前と話がしたくてな」

「話、ですか? 話をするためにわざわざ薬で眠らせて、
こんなところに連れてくる必要が? 
その辺のカフェで充分でしょうに」

聡子の声色にそこはかとない怒りが籠る。

「誰にも邪魔されたくなかったものでね。
あれはあんたに惚れている。
どんな手を使ってでもあんたを探し出すだろうよ」

「あなたもしつこいですね。
それはとんだ誤解ですって何度言ったらわかるのですか?」

いい加減苛立ってくる。

「違わないさ。宝生は三年前のあんたの入社試験の日以来、
ずっとあんたのことを想い続けている」

「三年前?」

聡子は鸚鵡返しに呟いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。 **2026.01.02start~2026.01.17end**

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

春の雨に濡れて―オッサンが訳あり家出JKを嫁にするお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。なお、本作品はヒロイン目線の裏ストーリー「春の雨はあたたかい」のオリジナルストーリーです。 春の雨の日の夜、主人公(圭)は、駅前にいた家出JK(美香)に頼まれて家に連れて帰る。家出の訳を聞いた圭は、自分と同じに境遇に同情して同居することを認める。同居を始めるに当たり、美香は家事を引き受けることを承諾する一方、同居の代償に身体を差し出すが、圭はかたくなに受け入れず、18歳になったら考えると答える。3か月間の同居生活で気心が通い合って、圭は18歳になった美香にプロポーズする。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

処理中です...