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矢武崎結衣
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ひどく寒い。四方八方が闇に閉ざされ、ゆったりと睡魔が襲ってくる。
何だろう、海の中を漂っているような感じ……でも、なんだかとても心地がいい……。
軽くそんなことを考えた。ただの詩的な想像だった。
ごぼ……っ。
ごぼごぼっ……。
ごぼごぼごぼっ……。
口からこぼれた空気が、水泡となってゆっくりと海上にのぼっていく。
瞬間、目を見開いた。
ただの比喩だったものが現実になったことを、頭の中で認識する。と同時に、唐突に息ができなくなり、身体が反射的に激しく動作した。
……! うそ。どうして。どうして。
パニックになる脳の中で、必死に、なぜこの状態に至ったかという疑問への答えと、生き残るための方法を探した。
しかし、零度以下と思われる寒水が肺の中になだれ込んできて、心肺機能を凍らせようとしてくる状況で、有益な考えなど出るはずもなかった。
嫌だ。嫌だ――。
死にたくないと願っても、現実は非情に死の恐怖を突きつけてきた。
それでも諦めず、身体を動かし続ける。が、海上の光ははるか遠く、絶対に届かない場所で輝いていた。
やがて、身体は凍ったように動かなくなり、海の中を浮遊した。瞼を閉じようにも、その僅かな力さえ海水に奪われている。薄れゆく意識の中、最後に脳の視覚野が映し出した映像は、海と同化し、消えていく自分自身の身体だった。
矢武崎結衣は瞼をゆっくりと開ける。電灯の白い光が目を直撃してきた。光の近くに誰かがいて、こちらを覗き込んでいる。視界がぼやけ、顔の輪郭と杏色の髪しか認めることができない。
まったく知らない人だ。
間もなく、異常なほどの睡魔が結衣を襲った。彼女は再び夢の世界へ舞い戻ることとなる。
次に目を覚ました時、結衣の身体は上下に揺れていた。病院着のような白い布一枚を着ている彼女は、倒れこむように前に体重を預け、それから、温かくて柔らかい物体を全身で感じた。自身の顔面に絹糸のような髪の毛が触れていた。結衣のものではなかった。それは杏色だった。
彼女はビクッと半身を起こし、目を丸くして前を見た。人間の後頭部が至近距離に存在していた。彼女の身体は誰かに背負われていた。
「起きまシタカ」
混乱する頭に突如飛んできた声。低い声だった。聞こえてきた方向的に、自分をおぶっている人間が発した言葉ではなさそうだ。
結衣は右の方に顔を向けた。そこにはバケツのような体に、細い手足のくっついたアンバランスな形をした、得体のしれない何かがいた。
そいつは体の中央部に埋め込まれた赤い球体をぐるぐると動かして言った。「初めまして。わたしの名前はニム。自律型ヒューマノイドロボットデス。よろしくお願いしマス」
「ロボッ……ト……?」
結衣は、駆動音を立てながら歩いている自称ロボットを見つめながら、はっと息をのんだ。
「ここは……?」
「施設ナンバーB‐1037564、住民の避難及び生活用に建築された地下シェルターのひとつデス。あなたはここで冷凍保存されていマシタ。わたしたちは依頼人の命によりあなたを蘇生し、このシェルターから連れ出すことを目的としていマス」
「は、あ……?」
まいったな、何がなんだかわからない。
ロボットが淡々と、エコーがかった機械的な声で言葉を紡ぐあいだ、結衣は混乱する頭を落ち着かせようと懸命に努めた。
冷凍保存――ロボットが言ったフレーズについて考えてみる。いわゆるサイエンスフィクション作品群に出てくるコールドスリープのようなものとして、どういったものかは理解することができた。なぜか不思議とはじめて聞いたときにありがちな、驚きや不信感がわいてくることはなかった。
だがそれが、自分に関係していると結びつけて考えてみると、途端に接点が浮かばず、記憶自体があやふやに霧散し、今までの自分のことを思い出すことができなくなった。知識自体は覚えているのに、それに関連したエピソード類が完全に欠落していた。
ゆえに、いまなぜ自分がここにいるのかという問いに対する答えを持ちえない、記憶喪失の状態であることをただちに自覚した。
「すみません……なにも思い出せません……」
いち早く自分の状況を報告したほうがいいと結衣は思った。その上で会話をしたほうがスムーズにことが運ぶはずだ。
「心配いりまセン」ロボットは平坦な声で言った。「長期の冷凍睡眠の副作用として記憶障害の例は報告されていマス。あなたは地球時間で三十年五ヵ月十四日二時間十一分四十六・二秒眠っていマシタ。記憶の損傷は仕方がありまセン。でスガ、安心してくだサイ。それは一時的なものだという結論がでていマス。しばらくすれば、全て思い出すことができるでショウ」
「そう、ですか……」
うさん臭さを感じたが、言及することはしなかった。信じたほうがいくらか精神的に救われる。
「…………」
結衣を背負っている杏色の髪の女は、無言のまま蛍光灯で照らされた通路を粛々と歩いていた。
「……あ、あの……」
「…………」
結衣はコミュニケーションをとろうと試みたが、反応は返ってこなかった。
その一方的なやり取りの後に、すごく気まずい空気が流れた。結衣は払拭するために、意識せず自然と会話を続けようとする。
「……重く、ないですか……?」
「…………」
依然として、答えは返ってこなかった。
しかし不機嫌になったりだとか怒ったりだとかはしなかった。別に期待していたわけでもなかった。
「何か知りたいことはありまスカ」
自身をニムと名乗ったロボットが言葉を発した。空気を読んでの発言だったのかはわからない。
「え、えと……」特にない、と答えるのもなんなので、結衣はなにか質問することにした。しかし何を訊けばいいだろう。
ふと周りを見渡した。人が二、三人は行き来できそうな通路は、結構遠くまで続いており、行き止まりは未だ確認できなかった。するとその時、結衣の脳裏に突然、なにかの映像が浮かび上がった。それは、大通りの交差点を行きかう大量の自動車と、周囲の雑踏、そして上空にある巨大な四角形の建物……ゆうに千メートルを超えていそうな真っ黒な飛翔体の姿だった。確かに飛んでいる。動かずにじっと停止して飛んでいる。奇怪なオブジェというわけでもなさそうだ。だって、デカすぎる。辺りの風景、高層ビル群や車、人々はその飛翔体の影に丸ごとのみこまれていた。太陽は遮られ、全く見えなかった。
――なに、これ……?
結衣は、もしかしたら抜け落ちた記憶の一部じゃないだろうか、と考えた。だから質問するならこのことが一番いいと思った。答えしだいでは連鎖的に記憶を呼び起こすことが可能かもしれない。
が、その前にまず訊きたいことがあった。
「じゃあ……」結衣は声を発する。「ここにわたしたち以外の人はいないんですか?」
シェルター内の無人さ加減についての答えが欲しかった。こんなにも人の気配がないなんて不自然だ。冷凍睡眠の機構が稼働中なら、自分のような睡眠中の人間を管理している職員ぐらいいるのが当然だと思った。
「ハイ。人間はいまセン。はっきりとした年はわかりまセンガ、このシェルターは約十年ほど前に放棄されたものと考えられマス」
「えっ……ならなんで、冷凍睡眠は続いているんですか……?」
「電力はいまも供給され、冷凍睡眠をはじめとするいくつかのシステムは稼働を継続しているようデス」
「それって……」
ニムの回答が何を意味しているかということに、結衣は、はっきりと気づいた。ニム本人がそれを考慮しての発言だったかは知る由もないが、それは結衣にとってかなり残酷な真実だった。
――見捨てられたのだ。私は。
彼女は、自分を背負っている人の肩を掴んでいる両手を、ぎゅっと握りしめた。
「……依頼人は、誰なんですか……?」
「このシェルターの元職員であるということは確認済みデス。それ以上のことはわかりまセン」
元職員ということは、罪悪感か、それとも……。
考えるだけ無駄だと思った。どうせ答えが出たとしても、何もできない。それに自分を見捨てた人間のことに思考のリソースを割くのは、何とも腹立たしいことだと思った。
……次の質問に、いこう。
「空にとてつもなく大きい四角形の物体が飛んでる画みたいなのがふいに浮かんだんですが、これ何かわかりますか?」
「それはパンドラデス」
「ぱんどら……?」
「旧時代に地球に現れた謎の飛行物体の呼称デス。地球外生命体の宇宙船だという見解が有力デス。人類はこの物体の中から様々な異生物の文化的遺産を発見しマシタ。それらはすべて人類の技術や哲学を遥かに凌駕する高度なものでシタ。これによって人類のテクノロジーレベルは飛躍的に上昇しマシタ。第3階層に到達するのも時間の問題でシタ」
「……でしたって、過去形?」
「パンドラの最奥にそれは存在したのデス。人類は禁断の領域に足を踏み入れマシタ。その場所には、アーククリエイターが眠っていたのデス。アーククリエイターは世界に散らばりアーカイブからウォースピリットを生み出しマシタ。ウォースピリットは人類に向けて侵攻を開始しマシタ」
「あーく、くりえ……? うぉー……す、すぴ……?」
「ウォースピリットは五年で七割の人類を駆逐しマシタ。人類も最新の軍事技術で対抗しマシタガ、ウォースピリットの前ではただ被害を増やすだけでシタ。結果、三十年で地球上の九割の生物が死滅しマシタ。人類も存亡の危機デス」
「ま、待ってください。ちょっと途中から専門用語が……アーククリエイターって何ですか?」
「ウォースピリットの生みの親デス」
「……ウォースピリットって?」
「アーククリエイターがアーカイブからサルベージした人型兵器デス」
「……?」
「知らなくていい」
突然、女の人の声がした。それは結衣を背負っている女が発した声だった。
「君はいまは何も知らなくていい。どうしても知りたかったら、これから行くところでいくらでも調べられるし、教えてもらえる。だから何も心配いらない」
「これから、行くところ……?」
「君が生活していた世界と何ら変わらないところだ。学校にも行けるし、とにかく戦いとは無縁の場所さ。そこまでは私たちが責任をもって送り届ける。だから余計なことは考えなくていい」
女の人は結衣にわずかに顔を向けた。女の人は、顔の大きさに不釣り合いな大きさのゴーグルをはめていた。結衣は、そのレンズの奥にある彼女の目を見た。
瞬間、あ、と結衣は声を漏らした。「……いえ、なんでもないです」
こんなことをいったらバカにされると思ってすぐに顔をそらした。しかし、結衣は確かに見たのだ。
女の人の目の中で炎のようなものが躍動していたのを。
もう一度見て確認しようと思ったが、すでに女の人は前に向き直っていた。
なぜか気になった結衣は、じーっと不愉快に感じ取られないように、ゆっくりと目が見られる位置まで顔を回りこませようとした。
すると、通路の遥か先に何かが現れたのを視界の端にとらえた。同時に女の人の歩みが止まる。
そして結衣は、彼女の目をもう一度見ることができた。が、そこに炎らしきものは見当たらなかった。
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