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第4夜 夢魔
20、悪夢
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子どものころ、母親との約束事があった。
知らない人についていってはいけません。
お菓子をあげようといわれても、もらってはいけません。
知らない人に名前を呼ばれても返事をしてはいけません。
ひとりで行動してはいけません。
日が暮れるまえに何があっても帰ってきなさい。
……。
夜闇の中に、何かが息を殺して潜んでいる。
それは時折、わたしの背後からついてくる。
そういうときは決してうしろを振り返ってはならない。
たとえ、心臓が爆発しそうになっても全力で走って逃げて、安全な場所、家に逃げ込むのだ。
家には母がいる。
何かに追いかけられて怖かったというと、母は戸口に立ち大まじめで塩をまき、十字を切っておまじないをしてくれる。
悪霊は祓われましたよ、と母はいう。
そうすると、しばらくは完全に忘れてしまえる。
関心ごとがあぶくのように沸いて膨らんでは消えていく小さな胸に、恐怖体験や心配事はとどめておけなかった。
その日は、夕刻から雨が落ちはじめた。
春から季節がかわったのだ。
薄闇が家路を覆うのもいつもよりずっと早かった。
友達があまやどりしようというのに付き合ってしまった。
薄闇のなか一人で歩くとじんわりと恐怖が忍び寄る。
闇には、得体のしれない何かがうごめいていた。
普段は人とそれらの生息する世界が交わることはない。
あえて目をこらして凝視してはならない。
目を合わせてしまったら、それらに目をつけられてしまうから。
それが何なのか、わかりたくもない。
闇に何かが潜んでいるという感覚は、見えないことの恐怖や、闇の中で起きた事故や事件から、正しく恐怖せよと人が自己防衛のために生み出した警告なのか。
その日はいつものようにどんなにこちらがやり過ごそうとしても、やつらはわたしに気がついた。目がばちりと合う感覚。
得体のしれないものは、人の男の形をとって現れる。
「……そんなに急いでどこにいくの?」
腕をつかまれた。
「おいしいお菓子をあげよう」
いらないというのに、菓子を勝手に握らせる。
「傘がないの?ミナちゃんの家は近くかな?送ってあげよう」
教えていないのにどうしてわたしの名前を知っているのだろう。
続いて、ミナちゃんのほっぺの印がかわいいね、それにキスをしてもいいかいとそいつはいった。
そいつは、なだめすかして懐柔し、闇の中にひきずり込み、喰らおうとしていた。
母が気をつけなさいと言い聞かせていたのは、こいつのことだと思った。
闇の中に潜んでいた悪霊が、とうとう形をとり実力行使に訴えてきたのだ。
掴んだ手を振り払い、わたしは小さな足で無我夢中に走り出す。
神社の横を走り、公園を抜け、住宅街を走る。
そいつをまいて、振り切ったと思った。
家の扉を開けて飛び込んだ。
玄関が暗い。
安心したら、足を絡めてしまった。
盛大に転ぶ。
廊下の窓が開いていて、雨が水たまりを作っていた。
わたしはその中に前のめりにこけて、したたかに膝をぶつけ、手をついてしまった。
台所の扉の下から明かりが漏れる。
母はそこにいるのか。
よく見れば、廊下の水は開いた窓からではなった。
台所から流れていた。
母がいないのは、水道の故障に誰かを呼びに行ったのかもしれない。
それとももしかして、傘をもってわたしを迎えにいって、行き違いしたのかもしれない。
ぴちゃり、ぺちゃり。
べちゃり、くちゃり。
何かの音が、台所から漏れ聞こえてくる。
さっきわたしの腕を掴んだ悪霊が、先回りして待ち伏せしている可能性があることに気が付いた。
台所に潜む何かを確認せずにはいられない。
父の帰りはまだずっと先だ。
わたしは濡れる体を起こした。
そろりと扉を押して気がつかれないようにそっと覗いた。
台所のつけっぱなしの明かりは闇にうごめくものを照らし出していた。
わたしは何をみたのか、記憶がない。
ただ、恐ろしいものをみた。
恐怖のあまり、声のない悲鳴を上げ続けることしかできなかった。
わたしは汗だくでベッドから飛び起きるようにして目覚めた。
わたしは必死で、悲鳴を上げようとしているのに気がつくのだ。
ベランダに雨が落ちる音がする。
現実に起こったことではないと思う。
あの町中の一軒屋に住んだことはないし、あの神社と公園の横を歩いたことはない。そもそもそんな神社あるかどうかもわからない。
父と母は、わたしが6つのころに交通事故で亡くなり、ずっとお祖母ちゃんの田舎で育てられた。
だけど、梅雨がはじまり雨の音をきくと、毎年一度はこの悪夢を見るのだ。
知らない人についていってはいけません。
お菓子をあげようといわれても、もらってはいけません。
知らない人に名前を呼ばれても返事をしてはいけません。
ひとりで行動してはいけません。
日が暮れるまえに何があっても帰ってきなさい。
……。
夜闇の中に、何かが息を殺して潜んでいる。
それは時折、わたしの背後からついてくる。
そういうときは決してうしろを振り返ってはならない。
たとえ、心臓が爆発しそうになっても全力で走って逃げて、安全な場所、家に逃げ込むのだ。
家には母がいる。
何かに追いかけられて怖かったというと、母は戸口に立ち大まじめで塩をまき、十字を切っておまじないをしてくれる。
悪霊は祓われましたよ、と母はいう。
そうすると、しばらくは完全に忘れてしまえる。
関心ごとがあぶくのように沸いて膨らんでは消えていく小さな胸に、恐怖体験や心配事はとどめておけなかった。
その日は、夕刻から雨が落ちはじめた。
春から季節がかわったのだ。
薄闇が家路を覆うのもいつもよりずっと早かった。
友達があまやどりしようというのに付き合ってしまった。
薄闇のなか一人で歩くとじんわりと恐怖が忍び寄る。
闇には、得体のしれない何かがうごめいていた。
普段は人とそれらの生息する世界が交わることはない。
あえて目をこらして凝視してはならない。
目を合わせてしまったら、それらに目をつけられてしまうから。
それが何なのか、わかりたくもない。
闇に何かが潜んでいるという感覚は、見えないことの恐怖や、闇の中で起きた事故や事件から、正しく恐怖せよと人が自己防衛のために生み出した警告なのか。
その日はいつものようにどんなにこちらがやり過ごそうとしても、やつらはわたしに気がついた。目がばちりと合う感覚。
得体のしれないものは、人の男の形をとって現れる。
「……そんなに急いでどこにいくの?」
腕をつかまれた。
「おいしいお菓子をあげよう」
いらないというのに、菓子を勝手に握らせる。
「傘がないの?ミナちゃんの家は近くかな?送ってあげよう」
教えていないのにどうしてわたしの名前を知っているのだろう。
続いて、ミナちゃんのほっぺの印がかわいいね、それにキスをしてもいいかいとそいつはいった。
そいつは、なだめすかして懐柔し、闇の中にひきずり込み、喰らおうとしていた。
母が気をつけなさいと言い聞かせていたのは、こいつのことだと思った。
闇の中に潜んでいた悪霊が、とうとう形をとり実力行使に訴えてきたのだ。
掴んだ手を振り払い、わたしは小さな足で無我夢中に走り出す。
神社の横を走り、公園を抜け、住宅街を走る。
そいつをまいて、振り切ったと思った。
家の扉を開けて飛び込んだ。
玄関が暗い。
安心したら、足を絡めてしまった。
盛大に転ぶ。
廊下の窓が開いていて、雨が水たまりを作っていた。
わたしはその中に前のめりにこけて、したたかに膝をぶつけ、手をついてしまった。
台所の扉の下から明かりが漏れる。
母はそこにいるのか。
よく見れば、廊下の水は開いた窓からではなった。
台所から流れていた。
母がいないのは、水道の故障に誰かを呼びに行ったのかもしれない。
それとももしかして、傘をもってわたしを迎えにいって、行き違いしたのかもしれない。
ぴちゃり、ぺちゃり。
べちゃり、くちゃり。
何かの音が、台所から漏れ聞こえてくる。
さっきわたしの腕を掴んだ悪霊が、先回りして待ち伏せしている可能性があることに気が付いた。
台所に潜む何かを確認せずにはいられない。
父の帰りはまだずっと先だ。
わたしは濡れる体を起こした。
そろりと扉を押して気がつかれないようにそっと覗いた。
台所のつけっぱなしの明かりは闇にうごめくものを照らし出していた。
わたしは何をみたのか、記憶がない。
ただ、恐ろしいものをみた。
恐怖のあまり、声のない悲鳴を上げ続けることしかできなかった。
わたしは汗だくでベッドから飛び起きるようにして目覚めた。
わたしは必死で、悲鳴を上げようとしているのに気がつくのだ。
ベランダに雨が落ちる音がする。
現実に起こったことではないと思う。
あの町中の一軒屋に住んだことはないし、あの神社と公園の横を歩いたことはない。そもそもそんな神社あるかどうかもわからない。
父と母は、わたしが6つのころに交通事故で亡くなり、ずっとお祖母ちゃんの田舎で育てられた。
だけど、梅雨がはじまり雨の音をきくと、毎年一度はこの悪夢を見るのだ。
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