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19話:東日本大震災と恩人
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やがて2011年が明けた。この年、1月3日、富川夫妻と石上夫妻が、秋浜らの八重の実家で、新年会を開き、2010年を振り返り、新しい変化を感じながら、今年こそは良い年になって欲しいと述べた。
この頃になると、石上勇一君も少しずつ話をして、愛嬌を振りまいていた。彼は、おもちゃの車が好きで、カーマニアになるかもと、母の達子さんが笑った。
しかし。この望みもむなしく、3月11日午後2時46分、宮城県沖で国内観測史上最大のマグニチュード9の巨大地震が発生、同3時半前後には大津波が次々と沿岸部を襲った。
宮城、岩手、福島の3県を中心に死者は約1万5800人、行方不明者は約3500人に上った。東京電力福島第1原発では電源が止まり、原子炉は冷却機能を喪失。
核燃料が溶け、1~3号機は炉心溶融「メルトダウン」が、起きた。1、3、4号機は水素爆発により原子炉建屋が大破。放射性物質が大量に放出される最悪の事態に陥った。
政府の試算では、地震・津波による住宅などの直接的被害は16兆9千億円に達する。ピーク時には約47万人が避難し、国内外から支援の手が差し伸べられた。原発事故に見舞われた福島県では警戒区域「半径20キロ」への立ち入りが制限された。
その他、各地で除染作業が行われた。放射性物質に汚染された農産物が関東などでも見つかるなど農林水産・畜産業も大打撃を被った。政府・東電は「冷温停止状態」を宣言する見通しだが、廃炉までには30年以上かかると予測された。
その後、沙美東北への石油の輸送のためJRでは、日本海側から、北東北へ石油を送った。その後、日本海側の新潟から、磐越線を使い、勾配のきつい線路を旧式のSLを使って、年老いた運転手のベテランらしい習熟した運転を見せた。
それにより、郡山から南東北に石油を届けると言う素晴らしい出来事に、日本人も捨てたものじゃないと、大震災からの復帰への意欲を奮い立たせることができた。しかし、大津波に襲われた、東北沿岸は、目を覆うほどの大被害。
それに対し、東北への道路が開通してからは、芸能人の炊きだし隊の援助、多くの若いボランティアの活動など一致団結し東北支援の体制をとった。また、世界中からの多くの義援金も大きな助けになった。
その中でも、特に台湾の募金活動には、多くの日本人が感銘を受けた。その話の一部を書くことにする。東日本大震災後の被災地の映像を目にし、自宅の書斎で、涙した台湾人がいた。エバーグリーングループ総裁の張栄発氏。
日本統治下の台湾に生まれ、一代で世界有数の海運会社を育てた実業家。縁深い仙台が被災し、直後に個人名義で10億円を寄付した。日本統治期の1927年、台湾北東部に生まれた張氏は、少年時代から海運会社で働いた。
その一方、夜間学校に通い苦学して航海士となった。そして、船員生活を送った。会社を設立後、日本で購入した中古貨物船で海運業に乗り出したのは、30代前半のこと。
1968年、グループ前身の長栄「エバーグリーン」海運を立ち上げ、1980年代に国際コンテナ船業務を柱に事業を急拡大。史上初の世界一周航路で名をはせた。
1989年にはエバー航空を設立して航空事業に参入しホテルや金融を抱える巨大グループに成長させた。震災発生時は、経営の前線から身を引きつつあった時期に重なる。
東日本大震災は張氏の目にどう映ったのか。巨大な津波が仙台市の海岸部や、東北の市街地を飲み込んでいくニュースは、台湾でも大々的に報じられていた。
2011年3月11日、エバー航空が、すでに定期便を飛ばしていた仙台空港に大津波が押し寄せたのは、地震発生から約1時間後の16時前後だった。時差で日本より一時間遅い台北にある総裁室で、張氏は、テレビで流れるニュース映像をみて涙を流したという。
地震直後、張氏はポケットマネーから被災地への巨額の寄付を決め日本赤十字社を通じて送った。また、海運や航空のグループ傘下企業に対し、毛布などの支援物資を運搬するよう指示。エバー航空の機材を使用して各国政府や国際援助組織の物資まで無償で日本に運んだ。
この頃になると、石上勇一君も少しずつ話をして、愛嬌を振りまいていた。彼は、おもちゃの車が好きで、カーマニアになるかもと、母の達子さんが笑った。
しかし。この望みもむなしく、3月11日午後2時46分、宮城県沖で国内観測史上最大のマグニチュード9の巨大地震が発生、同3時半前後には大津波が次々と沿岸部を襲った。
宮城、岩手、福島の3県を中心に死者は約1万5800人、行方不明者は約3500人に上った。東京電力福島第1原発では電源が止まり、原子炉は冷却機能を喪失。
核燃料が溶け、1~3号機は炉心溶融「メルトダウン」が、起きた。1、3、4号機は水素爆発により原子炉建屋が大破。放射性物質が大量に放出される最悪の事態に陥った。
政府の試算では、地震・津波による住宅などの直接的被害は16兆9千億円に達する。ピーク時には約47万人が避難し、国内外から支援の手が差し伸べられた。原発事故に見舞われた福島県では警戒区域「半径20キロ」への立ち入りが制限された。
その他、各地で除染作業が行われた。放射性物質に汚染された農産物が関東などでも見つかるなど農林水産・畜産業も大打撃を被った。政府・東電は「冷温停止状態」を宣言する見通しだが、廃炉までには30年以上かかると予測された。
その後、沙美東北への石油の輸送のためJRでは、日本海側から、北東北へ石油を送った。その後、日本海側の新潟から、磐越線を使い、勾配のきつい線路を旧式のSLを使って、年老いた運転手のベテランらしい習熟した運転を見せた。
それにより、郡山から南東北に石油を届けると言う素晴らしい出来事に、日本人も捨てたものじゃないと、大震災からの復帰への意欲を奮い立たせることができた。しかし、大津波に襲われた、東北沿岸は、目を覆うほどの大被害。
それに対し、東北への道路が開通してからは、芸能人の炊きだし隊の援助、多くの若いボランティアの活動など一致団結し東北支援の体制をとった。また、世界中からの多くの義援金も大きな助けになった。
その中でも、特に台湾の募金活動には、多くの日本人が感銘を受けた。その話の一部を書くことにする。東日本大震災後の被災地の映像を目にし、自宅の書斎で、涙した台湾人がいた。エバーグリーングループ総裁の張栄発氏。
日本統治下の台湾に生まれ、一代で世界有数の海運会社を育てた実業家。縁深い仙台が被災し、直後に個人名義で10億円を寄付した。日本統治期の1927年、台湾北東部に生まれた張氏は、少年時代から海運会社で働いた。
その一方、夜間学校に通い苦学して航海士となった。そして、船員生活を送った。会社を設立後、日本で購入した中古貨物船で海運業に乗り出したのは、30代前半のこと。
1968年、グループ前身の長栄「エバーグリーン」海運を立ち上げ、1980年代に国際コンテナ船業務を柱に事業を急拡大。史上初の世界一周航路で名をはせた。
1989年にはエバー航空を設立して航空事業に参入しホテルや金融を抱える巨大グループに成長させた。震災発生時は、経営の前線から身を引きつつあった時期に重なる。
東日本大震災は張氏の目にどう映ったのか。巨大な津波が仙台市の海岸部や、東北の市街地を飲み込んでいくニュースは、台湾でも大々的に報じられていた。
2011年3月11日、エバー航空が、すでに定期便を飛ばしていた仙台空港に大津波が押し寄せたのは、地震発生から約1時間後の16時前後だった。時差で日本より一時間遅い台北にある総裁室で、張氏は、テレビで流れるニュース映像をみて涙を流したという。
地震直後、張氏はポケットマネーから被災地への巨額の寄付を決め日本赤十字社を通じて送った。また、海運や航空のグループ傘下企業に対し、毛布などの支援物資を運搬するよう指示。エバー航空の機材を使用して各国政府や国際援助組織の物資まで無償で日本に運んだ。
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