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16話:原爆投下と日本の敗北とホテル建設

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 太平洋戦争の末期のB29の爆撃により日本の東京、横浜、その他の大都市が破壊された写真を見たりするたび、里見一家は、涙にくれ、なお一層、郷愁の念を強く持った。1945年の広島、長崎の原爆投下を知った時、里見兵衛は、モントレーから、レマン湖の方角に向かい、東の空に向かって里見一家は合掌した。

「太平洋戦争が終わると里見敬之が『ばかやろー、なんてひでえ事すんだ!』『罪のない女・子供まで生きたまま丸焼きにするなんて人間のする事じゃねー』と大声で怒鳴った」。
「里見家の人達は、意気消沈し何も手につかなくなり高齢の里見敬之は、1週間も寝込んだ」。
「回復すると、アメリカ人の嫌悪感を持つようになった」。

 二次世界大戦が終了した1946年、三井物産も参加してるMRA運動に、里見家でも参加した。MRA「Moral Re-Armament」とは、日本語に訳すと道徳再武装、国際的な道徳と精神を標榜する運動。1946年、MRAはスイスのコー 「Caux」に遺棄されていたコー・パレス・ホテルを購入、改修し利用することになった。このホテルは、欧州における各国の和解の中心地となった。里見一家が居を構えたブベーは、モントルーから車で数分の場所に建っていた。

 その後、世界中の重鎮の首脳や有名人が、モントルーを訪れ賑わうようになった。里見夫妻は、コー・パレス・ホテルに泊まり専属の看護婦2人と共に長期滞在て体調の変化があれば地元の医者に診てもらうようになった。その後1947年4月に、里見敬之が91歳でなくなった。その死を悲しんだケーティーは、近くの病院に入院し1949年に亡くなった。その時、資産を託された69歳の里見一郎は、父、里見敬之から莫大な遺産を相続した。

 1948年4月に遺産のうち5千万ポンドを使い豪華ホテルを建てることにした。場所は、レマン湖のほとり少し高台で眺めの良い土地を3千万ポンドで買った。ホテルの建物を2千万ポンドで建て合計5千万ポンドで地上5階で総客数300室の豪華な里見ホテルを建設。里見一族を中心として、その他、事務員、コック、ウエイター、ウエイトレスなど総勢50人を雇った。そのホテルを長女シルビアと里見泰介に任せる事にした。ホテルの仕事で里見一族は、三井物産を全員退職した。

 その後、第二次世界大戦を無傷で乗り切ったスイスは、終戦後、それまで経験した事のない様な経済成長を遂げ、特にレマン湖の湖畔モントルーには豪華ホテルが次々と建設された。レマン湖の景色の良い場所には、世界中の富裕層の別荘が立ち並んだ。そのためモントルーでは、日常的に人手不足が続いた。終戦後、里見一郎がスイスのプライベートバンクに預けた資産が順調に増えだした。1950年以降、イタリアをはじめとする多くの外国人労働者がスイスに移民した。

 昔の小国スイスは、すっかり様変わりし裕福な観光立国となり人口も倍増して国民の所得も倍増以上となった。経済的に豊かで自然豊かで安全な国として移民希望者が増えるのは、当たり前だった。このバブルの様な好景気に乗って里見ホテルは、大忙しで順調に利益を伸ばしていった。1952年、戦争と独占資本を批判したチャップリンは共産主義者の烙印を押され、アメリカを追放されてた。永世中立国「スイス」に移り住んだ彼は、スイスを愛しスイスで生涯を終えた。

 晩年を過ごしたレマン湖畔には、チャップリンの銅像が立ち、今も美しい湖を眺めている。同敷地内には、国の文化財にも指定されているかつての邸宅「マノワール・ド・バン」がある。チャップリンが脚本を書いた書斎や、家族と過ごしたリビングルームが当時の姿のまま残されています。広い庭から湖とアルプスの山々を見渡わたせるこの場所で、彼は家族と幸せな時間を過ごした。
*一部の情報は、当時の新聞から抜粋し記載しました。
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