電子カルテの創成期

ハリマオ65

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第4話:ソフィアの紹介と妊娠

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 泣き止んで、オリビアが、日本のことわざで、「善は急げ」と例えがあるから、早く結婚しなさいと言った。すると、来年4月頃に結婚式を考えていると、答えると、そーねと言った。そして、話が終わると七面鳥とクリスマスケーキで乾杯して、メリークリスマスと言い、楽しい、一時を過ごした。
 
 21時過ぎソフィアの両親と妹のジャネットに別れの挨拶をして本牧から第三京浜・三ツ沢から川崎の日本電気の寮に帰った。この話を常本肇が両親に電話で知らせると1979年、正月、会いたいと言われ1月3日、上野駅近くレストランを予約してソフィアの両親と妹のジャネットと肇の両親の7人で昼食をし紹介した。

 いろんな話をして歓談して、懇親を深めた。しかし、肇の両親は、長男の肇が、金髪のアメリカ人とのハーフの女性と結婚する事に驚きを隠せないようだった。しかしソフィアが日本人らしい様子をしてるのに安心したようだ。食事後、常本の両親もソフィアに幸せになってねと言うと涙もろいソフィアは、号泣。

 それが母のオリビア、妹のジャネットにも伝染して泣いていた。その姿を見て、階園母も、日本人と同じを気持ちを持っている人たちで、安心したわと喜んでくれた。そして15時に散会となった。常本の両親は、今晩、上野のホテルに泊まり、翌日、肇が東京見物を一緒について行き、14時、福島行きの列車で帰っていった。

 やがて1979年4月22日、結婚式当日となった。結婚式は、両家の家族以外と日本電気の仕事仲間5人と学生時代の友人の18人を呼んで、総勢30名で結婚式を開いた。場所は、ホテルニューグランドで新婚旅行は、その当時、肇の仕事が忙しく、箱根と熱海の2泊3日の短い新婚旅行となった。

 その後、常本肇は日本電気の独身寮を出て、少し駅から遠くても広めのアパートを借りた。その後、1979年12月に奥さんのソフィアが妊娠し、出産予定日が1980年6月14日と知らされた。この頃になるとは常本肇は、パソコンのハードウエアの仕事からソフトウェア「パソコンの応用技術」の部門に配置換えされてた。

 そして日本電気製のパソコンを使用分野を広げる仕事に就いて全国の施設で行われるパソコンの応用研究を探りに行く仕事を命ぜられた。翌年1980年4月から、ハードウェアからソフトウェア部門への配置転換と簡単に言っても、また、最初からやり直しみたいなものでソフトウェアの本を読んで理解するために夜遅くまで勉強を続けた。

 そうしているうちに1980年6月14日を迎えて、ソフィアは本牧の産婦人科病院で、双子の男の子を出産し、優秀な子に育って欲しいと、常本優一と常本優也と名付けた。その話を聞きつけ両親が本牧のソフィアの実家を訪問し、初孫の誕生を大喜びしてくれた。

 その晩、常本の両親は、彼のアパートに泊まって、昔、常本肇の祖父の常本善助が、大正時代、造船会社の株を買って、大儲けした話をした、その金額は、現在の金額に換算すると約1億円。その大金をもとにして、長野県木曽、平沢に漆器の会社を設立した話をした。

 その祖父の常本善助は、常本肇が2歳の1957年に胃ガンになり信州大学病院に入院したが、2ケ月に息を引き取った。そのため、肇は、常本善助の姿を覚えていない。このは話に対し両親の資産はと聞くと俺たちは、漆器店で、木曽漆器を売って、少しずつ蓄えを増やし、既に1億円近い資産を持ってると言った。

 今後、妹2人が困った時、力になってやってくれと言われた。それを聞いて了解しましたと言った。そのうち1980年が終わり1981年を迎えた。今年、近くの神社に初詣でして、思わぬ収入のお礼と子供達が健康的に育つことを祈願してきた。その後、1981年4月に、肇は、会社の上司に呼ばれた。

 部屋にはいると信州大学でコンピューターを医療に応用するための公開試験をすると言う情報が入ったので、早速、情報収集に行ってくれと言われた、日時は、4月12日、夜19時半から信州大学医学部附属病院の外科系の医局だと知らされた。4月12日、朝、家を出て南武線に乗り西国分寺駅で中央線に乗り換えた。

 そして八王子で、特急に乗り換えて松本へ11時過ぎに到着。松本駅で蕎麦屋に入って、うまい信州そばを食べてから国宝松本城へ向かい観光した。観光案内所で日帰り温泉を探し浅間温泉の風呂に浸かって大広間で仮眠した。
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