電子カルテの創成期

ハリマオ65

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第9話:常本肇の新居が完成

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 11月10日から新築工事を始めて最長でも1982年5月中には、家を完成させると告げた。そして1981年10月20日は、仕事が暇だから10人で工事に取りかかった。まず、土を掘りセメントの土台を作り湿気が上がらないようにした。12月には土台作りが始まり、中旬に完成し柱と梁をくみ上げていった。

 年末には、家の形が完全にわかった。1982年1,2月で家の間仕切りがしっかりとわかるようになり、3月に部屋の断熱材、2階の床張りを終えた。暖かくなる頃には、階段も完成した。そりゃーありがたい、肇は、両親に頭を下げた。その話をソフィアにすると、今の住まいは狭すぎるので、少し不便でももっと広いところに住みたいと言われた。

 そこで、日本電気の仲間の池田益子さんが橫浜の農家出身と聞いていたので話を聞くと、離れの部屋が使ってないから聞いて見ようかと言ってくれた。1982年4月には窓が入り、1階のと2階のトイレを搬入して、風呂場を作り始めて、ユニットバスが搬入された。5月連休後には、ほぼ完成し、家の前の駐車場にコンクリートをはった。

 その後、点検して、早めに終わったので、各部屋のカーテンの設置までやってくれ、1982年5月9日に完成となり、その後、電機屋に頼んで、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、クーラーをリビングと3室に入れてもらい、ガスコンロも設置し、完成した。総費用が4400万円かかった。両親に話をすると喜んでくれ、泊まりに来てくれた。

 その後、1982年5月16日、福島の橫浜に泊まりに来るよと言い、孫をダッコして喜んでいた。そして、車で、横浜中華街へ行って、常本の両親と常本夫妻と2人の子供の6人で部屋を借りて、家の新築祝いパーティーを開いた。その時、長男の常本一郎が、分厚い祝儀袋を肇に手渡し100万円入ってるから、新しく電化製品などを買ってくれと語った。

 本当に、申し訳ないと言うと、冬の寒い時、また、遊びに来るからと笑って、帰って行った。そして、1982年5月23日、ソフィアの両親も家に、お土産を持って来てくれ、祝儀袋を渡してくれた。その中身は10万円が入ってあり、その週の日曜日に、お礼の挨拶に本牧いに出かけて行った。

 双子の息子、常本優一と常本優也も、もう少しで3歳になり、やんちゃ盛りで、後を追いかけ回る毎日で、両親とも、それには、手を焼き疲れてしまった。しかし大きな病気怪我も亡く過ごしていた。その年の夏、8月9日から常本肇、一家4人で北海道旅行へ出かけた。当日は朝5時に起きて、車で羽田空港に6時に到着。

 その後、7時半の飛行機で千歳空港へ向かった。9時過ぎに到着して電車で札幌駅から地下鉄乗り換え中島公園前の駅の近くのホテルにチェックイン。そして地下鉄で大通り公園へ行き散歩して電波塔に登ったりし昼過ぎに近くの食堂で昼食を取った。また、歩き出して狸小路の昔、懐かしい商店を見て回った。

 夕方は、ジンギスカン料理の店で、常本優一と常本優也は、肉をほおばり、ご機嫌。大人達は、生ビールにした続きを打って、美味しそうにたべた。今日は、散歩でかなり歩いたので21時過ぎには、大人達が眠くなり、ホテルに帰り、風呂に入ったり、シャワーを浴びたりして、22時には、床について、眠りについた。

 翌朝、8時にレンタカー屋に行き、8時半に札幌を出て定山渓から中山峠を向かった。そこで一休みして、美しい景色を眺めた。その後、ルスツの尻別山を見ながら、右折して北に向かい、左に羊蹄山を眺めなが北上し、道は左に曲がり、やがて、倶知安の町に入った。そこをニセコアンヌプリをめざしてに、山の周遊道路を走り、一休みした。

 そして倶知安方面に向かい左折して北上した。やがて余市のニッカウイスキーの工場が見えて、少し見学して、うまそうなウイスキーを買ってきた。その後、小樽で予約したホテルに入った。ホテル近くの南樽市場に行き、イカ刺しや貝のひものなど酒のつまみを買い込んで、部屋に戻り、風呂に入った。

 風呂を出てから買ってきたウイスキーをロックで飲むと、抜群の旨さに驚かされた。そして、今日の素晴らしい景色の話しながら、1時間足らずして、21時を過ぎると、眠たくなり、たまらず、ベッドに入ると爆睡した。
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