寿町の星

ハリマオ65

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13話:善一が2人の子の親と幸子さんの夫の葬儀

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 そして、10月2日、夢想夫妻は山梨の善一が住むファナックの寮へ行った。12時過ぎに行くと、今日、ちょうど、彼女、斉田恒子さんが産婦人科に入院したと教えられた。そして、山中湖の湖畔に2泊する事にしたから、これから一緒に恒子さんに面会に行こうと言った。そしてファナックの社内のレストランで昼食をとった。

 その後、車に分乗して富士吉田の病院の産婦人科へ向かい20分位で到着し病室で斉田恒子さんに面会して夢想夫妻が自己紹介をして母が買ってきたお花を花瓶に入れた。かなり緊張していたので、母が、こめんね、1人で実家から離れて寂しいのに、子供ができるなんてと優しく言うと2人でしたことですから、なんとか頑張りますと言った。

 御両親のご了解は、取れたのでしょうねと母が善一に聞くと彼女の実家に行って挨拶して一応了解してもらったと言った。世之介がそれは良かったと言った。数日、山中湖畔のホテルに泊まりますので、また来ますと言った。10月3日まだ、生まれないと言われたので、河口湖の方をドライブした。翌10月4日の朝7時に、生まれたと連絡があり面会開始10時に病室を訪ねると男の子の双子が生まれた。

 それぞれ夢想賢一と夢想賢二と名付けたと善一から聞かされた。それを見て母が初産で双子、大変だったわねと彼女の手を握ると、涙を浮かべて、ありがとうございますと言った。それもまた何か必要な物があったら連絡してくれと夢想夫妻が言って部屋を出て横浜へ帰っていった。その半年後の2000年12月6日、池田君から電話が入りN証券を退職したと告白した。

 その後、一緒に温泉でも行こうと夢想が池田に伝えると、そりゃありがたいと言うので、夢想は最近買い換えたばかりのトヨタ・エスティマに乗り橫浜駅で12月8日待ち合わせた。そして、橫浜、戸塚、藤沢から茅ヶ崎の海辺のカフェに入り、一休みした。その後、家田君が運転させてくれと言うので、運転を交代した。そして熱海港に近い温泉ホテルについてチェックインした。

 そして、その晩は池田君の話を夢想は黙って、じっと聞いて、まるで池田君のストレスを解放してやるかのように、ただ聞いてあげた。すると酒が入ったこともあって、池田君が人間って雄弁なことは仕事する上では必要条件だが、十分条件ではないと、俺は反省を込めて言いたい。人間としての十分条件は、やさしさ、愛、おもいやりだときっぱり言った。

 変な、おべんちゃらなんて何の役にも立たない。辛い時、悲しい時、そばにいて欲しいとき、いてくれて、夢想の様に何も言わず、じっと静かに聞いてくれる事だと泣きながら言った。俺には残念ながら、それがかけていたと、もう遅いが反省すると言うと号泣した。それを聞いて、それは、お前がどう思うと構わない、俺は、ただ、俺のできる事をするだけで背伸びして、やろうと思わないだけだと言った。

すると池田君が俺は、お前に会えて本当に良かった。お前は本当にすごい奴だと肩をたたいた。そうて、へべれけになったので、布団に入って寝た。と言うか、実際には、夢想は、池田君のいびきで、あまり寝れなかった。そして、翌日は9時まで寝て朝食をとり熱海の海岸を散歩した。そして池田君が、夢想に今後も付き合ってくれよなと言うので、わかったよと答えた。

 その代わり昨晩、お前のいびきで良く眠れなかったから、今日の運転はお前に任すと池田君に言うと良いのかと言った。今日は箱根を回って帰って良いかと言うので構わない、ただガソリン入れておいてくれと笑いながら言った。わかったよと笑いながら鍵を夢想からもらった。そうして、熱海からの曲がりくねった上り坂を走って箱根へ向かった。

 やがて箱根峠の手前を左折して箱根スカイラインを走り、途中景色の良い所で車を止めて、眼下の芦ノ湖と雪をかぶった富士山を眺めた。ぐるっと回って桃源台に向かい、そこで昼食をとった。その後、箱根関所を見学した。そこから、ターンパイクで箱根を降りて小田原へ行って、西湘バイパスを走って、橫浜駅に16時過ぎに着いて池田君と別れた。

 今年、兼松夫妻が用事があってクリスマスパーティーに来れないと連絡が入った。やがて2000年が終わり2001年となった。 今年も初詣で夢想夫妻と子供2人で出かけ家内安全と各人の思いを、お願いして帰った。そして1月10日、兼松幸子さんから電話が入って、旦那さんの兼松豊和さんが心臓病で入院したと連絡が入った。既に80歳で循環器内科の先生が心臓の機能が落ちているのが心配だと話していた。

 兼松幸子さんは毎日病院に来ては、夜家に帰る生活していると聞いた。そして1月20日、早朝、兼松幸子さんから電話が入り旦那さんの兼松豊和さんが心不全で亡くなったと連絡が入った。息子の太郎さんが以前、交通事故で亡くなり、身寄りがないと沈み込んでいた。すると夢想世之介が優しく、それなら、うちに来て生活しましょうと言った。

 それじゃ悪いわと言うので、今迄、あなたに、どれほど助けられたか、それを考えると、こんな事、小さな事ですよと笑顔で言った。奥さんが、うちは夫婦2人きりだったと言い泣いた。その話を聞いて人の情けって本当にありがたいものねと兼松さんが言い涙を浮かべた。すると兼松幸子さん、僕らが困ってる時に助けてくれた恩人だから、これぐらいのことあたり前ですと言った。

その後、葬式の手伝いもしますからというと、お願いしますと言った。後日、葬式の会場と葬儀の案内所を出す宛先を聞いて手配した。葬儀は1月25日となり参加者は11人とわかった。葬儀の日、保土ケ谷の家をエスティマで出て、兼松さんの親戚の4人をのせて7人で橫浜市営の葬儀場に向かった。そして、葬儀が終わり墓地へ埋葬へ言って終了した。

 その後、徐々に暖かくなり4月を迎えて兼松幸子さんと3人で熱海温泉に車で出かけた。熱海について、ゆっくりと温泉に入り、奥さんと兼松幸子さんが風呂で、兼松豊和さんの話や結婚後のエピソードを聞かされた。夕食後ビールを飲んで兼松幸子さんの話に夢想夫妻が耳を傾けていた。すると、私ほんとは、お酒好きでねと言い、ビールをあけていった。

 すると、学生時代、会社時代、旦那さんのなれそめの話、きわどい話、だまされた話など、多くの話が出た。しかし、夢想夫妻は何も言わず、ただひたすら幸子さんの話を聞いていると、やがて0時になり床についた。そして翌日、帰りに小田原魚センターで魚の干物を買って橫浜に帰った。兼松幸子さんが来てから、彼女が料理上手で旨いものが食べられて助かると、夢想夫妻が喜んでいた。

 2001年になっても株価の下げが落ち着く気配がなかった。そんな時、2001年2月10日、池田君から電話でシティバンク面白いから、一緒に行かないかと言われ、橫浜駅で待ち合わせた。朝10時に待ち合わせ橫浜駅西口のシェラトンホテル近くのシティバンク橫浜支店に入って説明を聞いた。すると投資勉強会と口座開設の粗品の情報が気に入って、1千万円以上のゴールドメンバーに登録した。

 そして担当者から世界株の低調な時は、円高と金、原油が動くと教えられてた。現在の円高で豪ドルの為替取引がお奨めですと説明を受けた。長期間のチャートを見せてくれた。この話に確かに言っている事は間違いないと池田も納得した。為替手数料が片道1円といわれ1豪ドル52円なら買いで53円、売りで51円と言われた。2%なら悪くないと池田が言った。そして池田がシティバンクは米国でもトップクラスの金融機関なのでメインバンクとして使った方が良いかも知れないとと言うことになった。
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