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31話「最終章」:加藤塾にと南半球旅行と加藤さんの死

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 すると、喜んでくれるので,おにぎり、パン、お稲荷さんを持たせた。この活動が、この地区で知られるようになると、日吉の慶応、法政、日大の学生でボランティアをしますと言う学生が現れた。

 そこで、お願いして、お土産で食べ物や残った飲み物を持って帰った。これにより、週に2回、水曜の金曜に加藤夫妻と範子さんが出るだけになった。竜二と範子さんが、毎日、塾が始まる前に,食料品を入れた段ボールにいれて。持ち込むだけとなった。

 そして月謝で余った分は学生達で分けて良いと言うことにした。そのうち学生の代表が慶応大学の清水守君と決まった。そして学生達で,もらう月謝内で食料品を調達し、塾を運営しますので任せて下さいと言われた。

 それを聞き、2010年からは加藤優造と竜二は全部任せることにした。2010年に、やっと自由になる時間が増えたので海外旅行に行かないかと山倉範子さんが加藤香織さんと話し合っていると、病気から立ち直った加藤優造さんも行ったことのない所へ行って見たいなと言った。

 そこで、グアムへの避寒旅行え、提案すると良いねと言うので予約した。しかし、なぜか、今年は予約が、埋まるのが早く、満員で取れなかった。そして2010年を迎えた。2010年、初詣で家内安全、健康祈願、商売繁盛をお願いしてきた。

 その後、豪ドルの金利が上昇してきたので、少し様子を見て2010年から2011年の5%というオーストラリア・ニュージーランド銀行の5年定期預金を開始した。1口約4万豪ドルを24ヶ月間、毎月、5年定期預金に連続して預けることにした。

 東京駅近くのオーストラリア・ニュージランド銀行・東京支店に竜二が足を運んで、口座を作る手続きを聞いて必要書類を提出し入金を開始。その後はインターネントで手続きできると聞いて、それ以降も毎月4.17万豪ドルを2年間、連続して預け入れしたいと窓口に言った。

 今日現在、その手続きを取ることは出来ないので,ご自分でやって下さいと言われ、その方法を懇切丁寧にパソコンを使って,教えてくれた。そして、窓口のグラマーで大型な豪州美人に、お礼を言って店を出た。

 もちろん、竜二は英語が出来ないので彼女が日本語で対応してくれた。しかし,この年は、例年にも増して寒い年だった。そんな2012年1月28日の寒い朝、加藤家で大きな悲鳴が聞こえた。

 範子さんが、大変だと言うと、竜二と2人で加藤さんの家に駆け込んだ。すると加藤優造さんの布団の枕元に憔悴しきった奥さんの香織さんが座り込んで泣き伏していた。そして加藤優造さんが亡くなったと小さな声で言った。

 すぐに竜二が加藤さんの脈をとると脈を打ってない。そこで消防署に連絡して救急車を呼んでもらい3人で同乗して橫浜労災病院に運ばれて死亡が判明。病名は心不全と言われた。この寒い時期には、結構あるんですと医者に言われた。

 2012年1月28日死亡、享年64歳の若さだった。すぐに加藤さんの長男、加藤和男さんと長女の加藤福子さんに電話を入れると1時間ほどで病院に到着。朝9時を過ぎたので地元の葬儀社に連絡して4日後の葬儀所が開いているというので2月1日、朝10時から葬儀を予約。

 加藤さんの東京の実家のには、知らさせなかった。相模湖町の矢島家の香織さんの御両親は、昨年なくなっており近親者と加藤塾のメンバーの慶応、法政、日大の学生7人と世話になった塾生が20人の子供達と共に来てくれた。

 その後。公民館の関係者と公民館を紹介してくれた地元の人の合計40人が、駆けつけてくれた。そして加藤さんの長男の加藤和男が弔辞を述べて、竜二も加藤さんとの思い出を話すと、会場からすすり泣きが聞こえた。そして地元のお寺に埋葬された。

 そして加藤和男さんが、実家に奥さんの加藤啓子さんと2人の子供と残された加藤香織さんの5人で暮らす事になった。この日は、寒い日で朝、みぞれが、落ちてきたが、葬式を終えた頃から晴れてきて埋葬された。

「お寺から帰る頃、雲間から一筋の光が、奥さんの香織さん、竜二と範子さんの方に降り注ぎ」
「まるで亡き、加藤優造さんが残された3人の人生の灯りをともしてるかのように」
、香織さんには思えて、思わず涙が流れ落ちた。
【完結】
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