2 / 2
諦めない二人
しおりを挟む
「うわっ!? 虹那! 帰ってきてたんなら、声かけてや! びっっくりしたぁ~」
集中モードからようやく私の存在に気づいた五十嵐常務は、大げさに声を上げて驚いていた。
その拍子に、デスクに置いていたペン立てが音を立てて倒れる。
彼の整頓されたデスクに散らばったペンたちが、まるで彼の驚きを代弁するかのように転がった。
集中を切らせてしまったことを少し申し訳なく思いながら、「ノックして、『戻りました』と申し上げましたよ」と、私はいつものようにそっけない言葉を返した。
私の声は、まるで感情の波一つない湖面のように穏やかだ。
五十嵐常務は、私の手にある紙袋をすぐに発見し、興味深そうに目を輝かせた。
その瞳は、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のようだ。
私は彼の視線に促されるように、彼のデスクへまっすぐ向かった。窓の外では雪が音もなく降り続き、ビル群の隙間を白いカーテンがゆっくりと降りていく。
外の寒さとは裏腹に、役員室の中は暖房が効いていて、肌にまとわりつくような暖かさだった。
少し汗ばむほどで、ワイシャツの背中がじんわりと湿るのを感じる。
「常務、こちら」
彼のデスクの空いているスペースに、そっと紙袋を置く。
紙袋がデスクに触れる音は、雪が積もるように静かで、この部屋の暖かさによく馴染む。
「え? 何? まさか、バレンタインのチョコ~?」
彼の声は弾んでいた。
その声には、隠しきれない期待と、ほんの少しの茶目っ気が混じっている。
彼の顔に浮かんだ笑顔は、春の陽光のように眩しかった。
「はい、そうです」
甘いものに目がない、子供舌の五十嵐常務のことだから、きっと両手を挙げて大喜びするだろうと想像していた……のに、彼は私の返事に何度も瞬きを繰り返し、じっと私を見つめ返した。
その瞳には、普段の冗談めかした光とは違う、戸惑いと、ほんの少しの期待のようなものが宿っていた。
まるで、彼の中で何かが大きく揺れ動いたかのような、複雑な色合いをしていた。
「え、ホンマ?」
「はい」
「虹那から?」
「……」
言われた言葉を少しだけ反芻して、今度は私が驚く番となった。
彼の真っ直ぐな視線に射抜かれ、胸の奥がキュンと締め付けられる。
しかし、努めて平静を装い、軽く咳払いで誤魔化した。
「いえ、言葉足らずで大変申し訳ございません。こちらは、『総務課』より預かったものでございます」
私の言葉を聞いた途端、彼の表情から期待の色が消え去り、代わりに安堵のような、拍子抜けしたような表情が浮かんだ。
彼の顔から、緊張の魔法が解けたかのように笑った。
「なぁ~んだ! びっっくりしたぁ~」
どこか心底びっくりしたような声が、彼の口から漏れる。
「……」
そんなに驚かなくても、と言いたいところだが、私が彼の秘書となってからの3年間、一度も個人的にチョコレートを渡したことはないのだから、彼の反応は当然なのかもしれない。
私と彼の間には、常にプロフェッショナルな壁が存在していた。
総務課からの贈り物だとわかってから、ようやく「やったぁ~! チョコだ~!」と、五十嵐常務は満面の笑みで喜び始めた。
先ほどまでの彼の表情の変化が、まるで夢だったかのように消え去る。
その横で、私が買ってきたコーヒーとバゲットのセットを広げて用意する。
温かいコーヒーの香りが、役員室にふわりと漂った。
その香りは、冷えた空気を優しく包み込み、どこかホッとするような安心感を与えてくれる。
そんな私の手元を、五十嵐常務は楽しそうに見ていた。
彼の視線は、まるで私の手元に何か面白いものがあるかのように、キラキラと輝いていた。
「ねぇ? 虹那からは、本当に無いの? チョコ!」
「私は、基本的にいただく専門ですので」
こういう軽口は日常茶飯事なので、私はいつものように、聞き流す程度の相槌を打った。
いつもの、何気ないやり取り。そのはずが、
「え?」
五十嵐常務が、再び固まった。
瞳が大きく見開かれた。
「それって、俺からチョコ渡したら、受け取ってくれるってこと?」
予想外の解釈に、さすがに私は慌てて首を横に振った。
心臓がドクリと大きく脈打った。
「……違います! そういう意味では決してございません。私は、個人的にチョコレートを用意していない、ただそれだけの意味です」
顔に熱が集まるのを感じる。
耳の先まで赤くなっている気がした。
こんなにも動揺している自分を、彼に悟られたくなかった。
「ははは、慌てすぎや」
いつもと変わらない、屈託のない笑顔で、ケラケラと笑われてしまった。
彼の笑い声が、私の心臓の鼓動をさらに速くさせる。
ようやくからかわれたのだと理解した。
いつものことなのに、取り乱してしまった。
「まぁ、虹那のことは、よ~くわかってるつもりやで~。何年の付き合いやと思っとん?」
「先ほど、盛大な勘違いをされていましたのに」
つい、皮肉めいた言葉が口をついて出た。
私の言葉は小さな棘のようなものしか発せない。
「すぐ揚げ足取る~。あ、虹那。チョコは後でゆっくり食べる。先にご飯にするから、チョコは冷蔵庫になおしといてくれる~?」
彼は、バゲットを美味しそうに一口かじりながら、私に視線を向けた。
「直す、ですか?」
「そうそう。入れといてって意味。地味に関西弁でメンゴ」
バゲットを口いっぱいに頬張り出した五十嵐常務を横目に、ついでにウェットティッシュも用意しようと、私は簡易冷蔵庫のある別室へ向かった。
彼の陽気な鼻歌が、背後から聞こえてくる。
その鼻歌は、彼自身の心の軽やかさを表している。
しかし、役員室のドアを閉めた途端、思わず「はぁ~」と深く息を吐き出し、両手で顔を覆ってしまった。
頬の熱が、まだ冷めない。
彼の一言一言が、まるで私の心の奥底に眠る何かを揺り動かしているかのようだった。
この胸の高鳴りは、一体何なのだろうか。
心臓がまだドキドキと早鐘のように鳴っている。
身体中に血液が勢いよく駆け巡っているのが自分でもわかる。
役員室のドアを閉めたとはいえ、隣の部屋で彼がバゲットをかじりながら、温かいコーヒーを飲んでいると思うと、どうしても落ち着かない。
「……一体、何を考えているんだ、私は」
つい、動揺してしまった。
プロの秘書として、こんなにも感情を揺さぶられるなんて、我ながら情けない。
“俺からチョコ渡したら、受け取ってくれるってこと?”
あの時の、常務の言葉と表情が、頭の中で何度もリフレインする。
彼の真剣な眼差しが、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
まさか、そんなことを言われるなんて。
完全に意表を突かれた。
一瞬、心臓が止まるかと思うほどの衝撃だった。
冷静に考えれば、あれはいつもの調子の軽い冗談だったのだろう。
彼の飄々とした性格を考えれば、それ以外の何物でもない。
深読みしすぎだ。
常務は、私の気持ちなど、これっぽっちも気づいていないに違いない。
そう、彼はあくまで私のことを「有能な秘書」として見ているだけなのだ。
秘書という立場でありながら、個人的な感情に振り回されるなど、プロ失格だ。
私は、自分の頬を両手で軽く叩き、意識を仕事モードへと無理やり切り替えた。
パチン、と乾いた音が室内に響き、少しだけ顔の熱が引いた気がした。
常務の秘書である私が、個人的な感情を持ち込むことは、決して許されない。
もし、社内で私たちの間に何かがあると噂になれば、常務の築き上げてきた輝かしいキャリアに泥を塗ることになるかもしれない。
業務上、どうしても二人きりの場面が多いとはいえ、あらぬ邪推をする人間が出てこないはずがないのだ。
それは、私が最も避けたいことだった。
彼に迷惑をかけることだけは、絶対に避けなければならない。
それに、私には、いつか必ず本社に戻るという大きな目標がある。そのためには、ここでしっかりと実績を積み、誰からも認められるような仕事をしなければならない。
今の自分の未熟さを克服し、もっと成長しなければならないのだ。
語学の勉強も、専門知識の習得も、まだまだ足りないことばかりだ。
私は、別室の簡易冷蔵庫を開け、総務課から預かったチョコレートを丁寧に棚にしまった。
常務が後でゆっくり楽しめるように、一番奥の、冷気のよく当たる場所を選んだ。
冷気に触れると、じんわりと手のひらから熱が引いていく。
冷たいチョコレートの包みが、私の熱い指先に心地よかった。
冷蔵庫の扉を閉めた瞬間、ふと、本社にいた頃の、あの夏の日の光景が蘇った。
蒸し暑い応接室。
外から差し込む陽光が、室内の埃をキラキラと照らしていた。
冷たい夏玉露とストロー。
常務の驚いたような、そして最後には優しい笑顔。
あの時、私は彼の何に惹かれたのだろうか。
仕事ができること、容姿が優れていること、それだけではない。
彼の、人を惹きつける不思議な魅力、そして、何よりも、私のささやかな気遣いを、きちんと受け止め、評価してくれたこと。
あの時、常務は、私の可能性を見出してくれたんだ。
常務にとって、私はただの秘書。
それは分かっている。
明確な上下関係と、仕事上のパートナーシップ。
それ以上の関係は、今の私には望めない。
でももし、本社に戻ることができたら、その時は、勇気を出す。
告白するのは、それからだ。
彼は常務取締役で、私は秘書。
それ以上でも以下でもない。
けれど、いつか、彼にとって、かけがえのない存在になりたい。
彼の隣に、対等な立場で立ちたい。
そう、心の中でそっと誓った。
◇◇◇◇
「はぁ~、マジか……」
俺はかじっていたバゲットを一度置いて、片手で顔を覆った。
もう片方の手で、ぬるくなったコーヒーを一口飲む。
熱気を帯びていたコーヒーはすっかり冷め、その味もどこか寂しげに感じられた。
虹那が出て行った後の役員室は、なぜかいつもより広く感じられ、静寂が俺を包み込む。
「可愛すぎやろ、あの反応……」
はじめは、細かいことに気がつき、テキパキと行動できる人間は使えるから、うちの支社に欲しいと思って誘っただけだったのに。
優秀だった彼女は本当に秘書検定に合格し、そして、ここに来てくれた。
仕事もそつなくこなし、こちらの要望に的確に対応してくれる。
どんな無理難題も、文句一つ言わずに完璧にこなす。
そして、感謝の言葉や褒め言葉を伝えると、普段はクールな彼女が、おじぎをして、控えめに、本当に可愛らしく微笑むのだ。
その時の、少しだけはにかんだような笑顔が、俺の心をいつも揺さぶる。
その笑顔が、時折見せる予想外なほどすぐに赤面してしまう姿が、どうしようもなく心を惹きつける。
今日の「チョコ、受け取ってくれる?」という言葉は、まるで告白の練習みたいなことを、つい口走ってしまった。
そんな子どもじみた言葉が、まさかあんなにも彼女を動揺させるとは思わなかった。
その時の虹那の、まるで熱に浮かされたような赤い頬。
あんなにも分かりやすく動揺しているのに、本人は自分自身がどんな表情をしているかなんて、全く気づいていないんだろうな。
仕事は完璧にこなすくせに、自分のこととなると途端に鈍感になる。
そんなアンバランスさが、また、たまらなく可愛いと思ってしまうのは、完全に俺の個人的な感情だ。
自覚はある。
この感情は、単なる上司としての好意をはるかに超えている。
オフィスのチェアーの背もたれに体を預け、思い切り伸びをした。
身体のあちこちから、ぽきぽきと音が鳴る。
天井を見上げたまま、ため息を出した。
「あ~、でも、あの真面目一徹な虹那のことだ。今のままじゃ、絶対に付き合ってくれへんやろな~」
仕事に対するストイックな姿勢、社内の人間関係や風紀に対する細やかな気遣い。
彼女がそういうことをないがしろにするはずがない。
常識的で、真面目で、何事にも一生懸命な彼女だ。
普段はクールで、サバサバしているくせに、ふとした瞬間に見せる照れた笑顔や、はにかんだ表情。
上司として、最初はただ微笑ましく思っていた彼女の反応が、単なる尊敬や親愛の情ではない、『そういう意味』の好意なのではないかと気づき始めてから、俺の心臓は激しく脈打ち始めた。
正直、困った。
こんなことになるなら、本社から無理に引き抜くべきではなかったかもしれない、とすら思う。
優秀な秘書であることは間違いないが、彼女の存在が、俺の理性と感情を激しく揺さぶるのだ。
しかし、この状況を打破する方法がないわけではない。
まずは、支社の業績を飛躍的に向上させ、その功績を認められ、本社の中枢である専務の座を射止める。
それしかない。告白するのは、それからだ。
今の立場のままでは、彼女に釣り合わない。
彼女が安心して、そして堂々と俺の隣にいられるように、もっと高みを目指さなければ。
「よし、今日の残りの仕事も、気合い入れて終わらせるか」
冷めてしまったバゲットの残りを口に押し込み、ぬるくなったコーヒーでそれを流し込んだ。
雪が降る窓の外を見つめながら、俺は静かに決意を固めた。
俺は常務取締役で、彼女は秘書。
それ以上でも以下でもない。
今は、まだ。
だが、いつか、きっと。
その「いつか」のために、俺は全力を尽くす。
-fin-
集中モードからようやく私の存在に気づいた五十嵐常務は、大げさに声を上げて驚いていた。
その拍子に、デスクに置いていたペン立てが音を立てて倒れる。
彼の整頓されたデスクに散らばったペンたちが、まるで彼の驚きを代弁するかのように転がった。
集中を切らせてしまったことを少し申し訳なく思いながら、「ノックして、『戻りました』と申し上げましたよ」と、私はいつものようにそっけない言葉を返した。
私の声は、まるで感情の波一つない湖面のように穏やかだ。
五十嵐常務は、私の手にある紙袋をすぐに発見し、興味深そうに目を輝かせた。
その瞳は、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のようだ。
私は彼の視線に促されるように、彼のデスクへまっすぐ向かった。窓の外では雪が音もなく降り続き、ビル群の隙間を白いカーテンがゆっくりと降りていく。
外の寒さとは裏腹に、役員室の中は暖房が効いていて、肌にまとわりつくような暖かさだった。
少し汗ばむほどで、ワイシャツの背中がじんわりと湿るのを感じる。
「常務、こちら」
彼のデスクの空いているスペースに、そっと紙袋を置く。
紙袋がデスクに触れる音は、雪が積もるように静かで、この部屋の暖かさによく馴染む。
「え? 何? まさか、バレンタインのチョコ~?」
彼の声は弾んでいた。
その声には、隠しきれない期待と、ほんの少しの茶目っ気が混じっている。
彼の顔に浮かんだ笑顔は、春の陽光のように眩しかった。
「はい、そうです」
甘いものに目がない、子供舌の五十嵐常務のことだから、きっと両手を挙げて大喜びするだろうと想像していた……のに、彼は私の返事に何度も瞬きを繰り返し、じっと私を見つめ返した。
その瞳には、普段の冗談めかした光とは違う、戸惑いと、ほんの少しの期待のようなものが宿っていた。
まるで、彼の中で何かが大きく揺れ動いたかのような、複雑な色合いをしていた。
「え、ホンマ?」
「はい」
「虹那から?」
「……」
言われた言葉を少しだけ反芻して、今度は私が驚く番となった。
彼の真っ直ぐな視線に射抜かれ、胸の奥がキュンと締め付けられる。
しかし、努めて平静を装い、軽く咳払いで誤魔化した。
「いえ、言葉足らずで大変申し訳ございません。こちらは、『総務課』より預かったものでございます」
私の言葉を聞いた途端、彼の表情から期待の色が消え去り、代わりに安堵のような、拍子抜けしたような表情が浮かんだ。
彼の顔から、緊張の魔法が解けたかのように笑った。
「なぁ~んだ! びっっくりしたぁ~」
どこか心底びっくりしたような声が、彼の口から漏れる。
「……」
そんなに驚かなくても、と言いたいところだが、私が彼の秘書となってからの3年間、一度も個人的にチョコレートを渡したことはないのだから、彼の反応は当然なのかもしれない。
私と彼の間には、常にプロフェッショナルな壁が存在していた。
総務課からの贈り物だとわかってから、ようやく「やったぁ~! チョコだ~!」と、五十嵐常務は満面の笑みで喜び始めた。
先ほどまでの彼の表情の変化が、まるで夢だったかのように消え去る。
その横で、私が買ってきたコーヒーとバゲットのセットを広げて用意する。
温かいコーヒーの香りが、役員室にふわりと漂った。
その香りは、冷えた空気を優しく包み込み、どこかホッとするような安心感を与えてくれる。
そんな私の手元を、五十嵐常務は楽しそうに見ていた。
彼の視線は、まるで私の手元に何か面白いものがあるかのように、キラキラと輝いていた。
「ねぇ? 虹那からは、本当に無いの? チョコ!」
「私は、基本的にいただく専門ですので」
こういう軽口は日常茶飯事なので、私はいつものように、聞き流す程度の相槌を打った。
いつもの、何気ないやり取り。そのはずが、
「え?」
五十嵐常務が、再び固まった。
瞳が大きく見開かれた。
「それって、俺からチョコ渡したら、受け取ってくれるってこと?」
予想外の解釈に、さすがに私は慌てて首を横に振った。
心臓がドクリと大きく脈打った。
「……違います! そういう意味では決してございません。私は、個人的にチョコレートを用意していない、ただそれだけの意味です」
顔に熱が集まるのを感じる。
耳の先まで赤くなっている気がした。
こんなにも動揺している自分を、彼に悟られたくなかった。
「ははは、慌てすぎや」
いつもと変わらない、屈託のない笑顔で、ケラケラと笑われてしまった。
彼の笑い声が、私の心臓の鼓動をさらに速くさせる。
ようやくからかわれたのだと理解した。
いつものことなのに、取り乱してしまった。
「まぁ、虹那のことは、よ~くわかってるつもりやで~。何年の付き合いやと思っとん?」
「先ほど、盛大な勘違いをされていましたのに」
つい、皮肉めいた言葉が口をついて出た。
私の言葉は小さな棘のようなものしか発せない。
「すぐ揚げ足取る~。あ、虹那。チョコは後でゆっくり食べる。先にご飯にするから、チョコは冷蔵庫になおしといてくれる~?」
彼は、バゲットを美味しそうに一口かじりながら、私に視線を向けた。
「直す、ですか?」
「そうそう。入れといてって意味。地味に関西弁でメンゴ」
バゲットを口いっぱいに頬張り出した五十嵐常務を横目に、ついでにウェットティッシュも用意しようと、私は簡易冷蔵庫のある別室へ向かった。
彼の陽気な鼻歌が、背後から聞こえてくる。
その鼻歌は、彼自身の心の軽やかさを表している。
しかし、役員室のドアを閉めた途端、思わず「はぁ~」と深く息を吐き出し、両手で顔を覆ってしまった。
頬の熱が、まだ冷めない。
彼の一言一言が、まるで私の心の奥底に眠る何かを揺り動かしているかのようだった。
この胸の高鳴りは、一体何なのだろうか。
心臓がまだドキドキと早鐘のように鳴っている。
身体中に血液が勢いよく駆け巡っているのが自分でもわかる。
役員室のドアを閉めたとはいえ、隣の部屋で彼がバゲットをかじりながら、温かいコーヒーを飲んでいると思うと、どうしても落ち着かない。
「……一体、何を考えているんだ、私は」
つい、動揺してしまった。
プロの秘書として、こんなにも感情を揺さぶられるなんて、我ながら情けない。
“俺からチョコ渡したら、受け取ってくれるってこと?”
あの時の、常務の言葉と表情が、頭の中で何度もリフレインする。
彼の真剣な眼差しが、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
まさか、そんなことを言われるなんて。
完全に意表を突かれた。
一瞬、心臓が止まるかと思うほどの衝撃だった。
冷静に考えれば、あれはいつもの調子の軽い冗談だったのだろう。
彼の飄々とした性格を考えれば、それ以外の何物でもない。
深読みしすぎだ。
常務は、私の気持ちなど、これっぽっちも気づいていないに違いない。
そう、彼はあくまで私のことを「有能な秘書」として見ているだけなのだ。
秘書という立場でありながら、個人的な感情に振り回されるなど、プロ失格だ。
私は、自分の頬を両手で軽く叩き、意識を仕事モードへと無理やり切り替えた。
パチン、と乾いた音が室内に響き、少しだけ顔の熱が引いた気がした。
常務の秘書である私が、個人的な感情を持ち込むことは、決して許されない。
もし、社内で私たちの間に何かがあると噂になれば、常務の築き上げてきた輝かしいキャリアに泥を塗ることになるかもしれない。
業務上、どうしても二人きりの場面が多いとはいえ、あらぬ邪推をする人間が出てこないはずがないのだ。
それは、私が最も避けたいことだった。
彼に迷惑をかけることだけは、絶対に避けなければならない。
それに、私には、いつか必ず本社に戻るという大きな目標がある。そのためには、ここでしっかりと実績を積み、誰からも認められるような仕事をしなければならない。
今の自分の未熟さを克服し、もっと成長しなければならないのだ。
語学の勉強も、専門知識の習得も、まだまだ足りないことばかりだ。
私は、別室の簡易冷蔵庫を開け、総務課から預かったチョコレートを丁寧に棚にしまった。
常務が後でゆっくり楽しめるように、一番奥の、冷気のよく当たる場所を選んだ。
冷気に触れると、じんわりと手のひらから熱が引いていく。
冷たいチョコレートの包みが、私の熱い指先に心地よかった。
冷蔵庫の扉を閉めた瞬間、ふと、本社にいた頃の、あの夏の日の光景が蘇った。
蒸し暑い応接室。
外から差し込む陽光が、室内の埃をキラキラと照らしていた。
冷たい夏玉露とストロー。
常務の驚いたような、そして最後には優しい笑顔。
あの時、私は彼の何に惹かれたのだろうか。
仕事ができること、容姿が優れていること、それだけではない。
彼の、人を惹きつける不思議な魅力、そして、何よりも、私のささやかな気遣いを、きちんと受け止め、評価してくれたこと。
あの時、常務は、私の可能性を見出してくれたんだ。
常務にとって、私はただの秘書。
それは分かっている。
明確な上下関係と、仕事上のパートナーシップ。
それ以上の関係は、今の私には望めない。
でももし、本社に戻ることができたら、その時は、勇気を出す。
告白するのは、それからだ。
彼は常務取締役で、私は秘書。
それ以上でも以下でもない。
けれど、いつか、彼にとって、かけがえのない存在になりたい。
彼の隣に、対等な立場で立ちたい。
そう、心の中でそっと誓った。
◇◇◇◇
「はぁ~、マジか……」
俺はかじっていたバゲットを一度置いて、片手で顔を覆った。
もう片方の手で、ぬるくなったコーヒーを一口飲む。
熱気を帯びていたコーヒーはすっかり冷め、その味もどこか寂しげに感じられた。
虹那が出て行った後の役員室は、なぜかいつもより広く感じられ、静寂が俺を包み込む。
「可愛すぎやろ、あの反応……」
はじめは、細かいことに気がつき、テキパキと行動できる人間は使えるから、うちの支社に欲しいと思って誘っただけだったのに。
優秀だった彼女は本当に秘書検定に合格し、そして、ここに来てくれた。
仕事もそつなくこなし、こちらの要望に的確に対応してくれる。
どんな無理難題も、文句一つ言わずに完璧にこなす。
そして、感謝の言葉や褒め言葉を伝えると、普段はクールな彼女が、おじぎをして、控えめに、本当に可愛らしく微笑むのだ。
その時の、少しだけはにかんだような笑顔が、俺の心をいつも揺さぶる。
その笑顔が、時折見せる予想外なほどすぐに赤面してしまう姿が、どうしようもなく心を惹きつける。
今日の「チョコ、受け取ってくれる?」という言葉は、まるで告白の練習みたいなことを、つい口走ってしまった。
そんな子どもじみた言葉が、まさかあんなにも彼女を動揺させるとは思わなかった。
その時の虹那の、まるで熱に浮かされたような赤い頬。
あんなにも分かりやすく動揺しているのに、本人は自分自身がどんな表情をしているかなんて、全く気づいていないんだろうな。
仕事は完璧にこなすくせに、自分のこととなると途端に鈍感になる。
そんなアンバランスさが、また、たまらなく可愛いと思ってしまうのは、完全に俺の個人的な感情だ。
自覚はある。
この感情は、単なる上司としての好意をはるかに超えている。
オフィスのチェアーの背もたれに体を預け、思い切り伸びをした。
身体のあちこちから、ぽきぽきと音が鳴る。
天井を見上げたまま、ため息を出した。
「あ~、でも、あの真面目一徹な虹那のことだ。今のままじゃ、絶対に付き合ってくれへんやろな~」
仕事に対するストイックな姿勢、社内の人間関係や風紀に対する細やかな気遣い。
彼女がそういうことをないがしろにするはずがない。
常識的で、真面目で、何事にも一生懸命な彼女だ。
普段はクールで、サバサバしているくせに、ふとした瞬間に見せる照れた笑顔や、はにかんだ表情。
上司として、最初はただ微笑ましく思っていた彼女の反応が、単なる尊敬や親愛の情ではない、『そういう意味』の好意なのではないかと気づき始めてから、俺の心臓は激しく脈打ち始めた。
正直、困った。
こんなことになるなら、本社から無理に引き抜くべきではなかったかもしれない、とすら思う。
優秀な秘書であることは間違いないが、彼女の存在が、俺の理性と感情を激しく揺さぶるのだ。
しかし、この状況を打破する方法がないわけではない。
まずは、支社の業績を飛躍的に向上させ、その功績を認められ、本社の中枢である専務の座を射止める。
それしかない。告白するのは、それからだ。
今の立場のままでは、彼女に釣り合わない。
彼女が安心して、そして堂々と俺の隣にいられるように、もっと高みを目指さなければ。
「よし、今日の残りの仕事も、気合い入れて終わらせるか」
冷めてしまったバゲットの残りを口に押し込み、ぬるくなったコーヒーでそれを流し込んだ。
雪が降る窓の外を見つめながら、俺は静かに決意を固めた。
俺は常務取締役で、彼女は秘書。
それ以上でも以下でもない。
今は、まだ。
だが、いつか、きっと。
その「いつか」のために、俺は全力を尽くす。
-fin-
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜
yuzu
恋愛
人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて……
「オレを好きになるまで離してやんない。」
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
先輩ちゃんと後輩くん
松田ねこ太郎
恋愛
経理部で勤めている伊澄(いすみ)は残業帰り中に子猫を保護した。
里親に出すまでは家で預かるため残業を減らそうとしていた時に
営業部の若手エース三上圭太(みかみ けいた)が現れた。
厄介ごとと共に――
若手エースが苦手な先輩主人公と主人公が気になる後輩くんの攻防物語
隣の家の幼馴染と転校生が可愛すぎるんだが
akua034
恋愛
隣に住む幼馴染・水瀬美羽。
毎朝、元気いっぱいに晴を起こしに来るのは、もう当たり前の光景だった。
そんな彼女と同じ高校に進学した――はずだったのに。
数ヶ月後、晴のクラスに転校してきたのは、まさかの“全国で人気の高校生アイドル”黒瀬紗耶。
平凡な高校生活を過ごしたいだけの晴の願いとは裏腹に、
幼馴染とアイドル、二人の存在が彼の日常をどんどんかき回していく。
笑って、悩んで、ちょっとドキドキ。
気づけば心を奪われる――
幼馴染 vs 転校生、青春ラブコメの火蓋がいま切られる!
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる