こんとんのはな

駿心

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8話. 夢の獣

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花寿美は後ずさり、そのまま背中で暖簾のれんを押して、廊下へと出た。

しかしすぐに冷たい微笑みをしている彼も暖簾から現れて、花寿美の目の前へ来て、壁へと押しやった。


「なんで……あなたが槐の姿をしているの?あなたは一体……」


一体、いつ、あれから洋が帰って、どうやって自分の部屋に行って眠ったのか。

記憶が抜けていたことに今更気付く。


「大丈夫……俺は比較的紳士だからさ。無理矢理って好きじゃないんだよね」

「……何の話?」


未だに槐の姿のまま洋はその腕で花寿美を囲った。


「俺はね、夢の中で人と愛し合うことで命を繋げる種族なんだ。素敵でしょ?」


花寿美は眉間に皺を寄せた。


「………………インキュバス」

「へぇ、知っているんだね。夢魔の女型であるサキュバスは有名だけど、インキュバスは知らない人も多いんだよ。」

「なんで……錨くんが……悪魔……」

「悪魔と言っても別に人間を直接的に怪我させる訳じゃないよ?少し借りるだけ。なんだったら君に幸せを与えられる。その上、俺の望みも叶う。お互いのメリットしかないよ?」

「何を言ってるの?そう言って、人の精気も吸い取るのが魂胆でしょ?」


もう一度相手を突き飛ばそうとしたが、手首を掴まれて阻止された。


「……っ離———」


揉めた際にそのまま床に組み敷かれた。


「あ、ごめん。痛くなかった?」


笑みを浮かべながら心にもない心配をされて、花寿美は必死に抵抗するが相手は片手で花寿美のクロスさせた両手首を押さえている。

相手の空いている片手が花寿美のシャツのボタンを外していく。


「あ……やだ……」


顔がこわばった。

体を捻って手から逃れようとするが、手は止まることなく進む。


花寿美は必死に首を捻ってお店の玄関先を見つめた。


「……『彼』の助けはあてにしない方が良いんじゃないかな?」

「え……」

「此処は現実世界じゃあないんだから」


夢の中か、亜空間かどこかなのかと花寿美は必死に思考を巡らせ考えるが、それなら逃げる手立てが思い付かない。


「しょうがないな……じゃあまぁ、最悪俺のことは何とも思わなくてもいいや。それでも君の悪いようには絶対しないからさ」

「何言っているの……」

「知ってる?インキュバスの俺は、相手の深層心理を読み取る事が出来て、相手の望む姿で現れることができるんだ」


逆光の陰影を作る顔が花寿美に笑顔を落とす。


「これがどういう意味かわかる?」

「……」

「こんな陳腐な聞き方をしなくてもわかるか」

「何を言って……」

「君はこの男に抱いてほしいんでしょ?」


花久美は目を見開いた。

馬鹿なと言おうとしたが、口を開くと口の中が乾いていて、すぐに声が出なかった。


「……君の好きな声、好きな指、好きな目……たとえ偽物とわかっていても、拒める?」


槐の姿で、槐の声で、花寿美を覆った。


「お嬢」


耳元で囁かれて、胸が締め付けられた。


傍にいてほしいだけなのに。

息が苦しい。

夢なら覚めてほしい。


でもいつもの日常に戻れば、いつか帰るであろう彼。

いつかは離れるだろう彼しかいない。


現実の彼はずっと傍にはいれない。


その手が花寿美の肌をかすめた時、目を閉じた。

瞼の圧で、涙がこぼれた。


「お嬢に触るな」


聞いたことないような低い声。


花寿美が目を開けたら、目の前で風が切って、前髪をかすめた。

花寿美に乗っていた洋が殴り飛ばされ、消えていた。


もうひとつの気配が増えたことに花寿美はその気配の正体を探した。


「早く失せろ、クソ悪魔」


仰向けの花寿美を庇うように、影を落ちる。


「……えん——」


花寿美は言葉を途中で止めた。


花寿美の上に跨いでいるのは、腕。

大きな獣の腕。


燃えるような毛皮

いともたやすく裂くであろう爪。


順に視線を上げて、輪郭をなぞっていく。


しなやかな尾と弧を描く象牙。


全てを吸い込むような、鼻。


「これ以上お嬢に近付いてみろ。即刻に消す」


恐ろしい姿をした獣がそこにいた。


聞いたこともない低い声、見た事もない四体だけど……


「……え……んじゅ?」


見透かすような瞳、その目は知っている。


長い鼻が花寿美の声に反応した。

しかし、逸らすように聞こえない振りをされた。


恐ろしい怪物。

花寿美が知っている、動物ではない。


しかしそこにいたのは、紛れもなく“獏”であった。

乾いた口の中は唾液もないのに、花寿美は喉を鳴らした。

息を飲んだことに近い。


花寿美は体を固くなって動けない。


「……やってくれるね。……よく入ってこれたな」


そう言いながら、吹き飛ばされた槐の姿をしていた男の影は形が崩れ、赤い目が光った。

褐色に黒ずんだ肌に背中から黒い蝙蝠こうもりの翼が生えていた。


「あんたを遠ざけようと数日前からわざわざ近所に罠をしかけといたのに……戻ってくるの早いじゃんか」

「……はっ、笑わすな。さすがにお嬢に直接干渉してくりゃあ一発で気付くに決まってんだろう。下級悪魔が神に勝てると思うなよ」

「お前が神だって……?『笑わすな』はこっちの台詞だよ。チンピラ風情が大層な肩書きを手に入れたからって粋がるな。元妖怪の成り上がりのくせして……だって見てごらん?」


洋は指差した先へ槐は目を向ける。

そこは槐を見上げ横たわる花寿美であった。


「お嬢……」


胸の前で拳を固く握りしめて、花寿美は声も出さずに震えた。


目の前にいるのは、いつも見ていた……悪夢の化け物。


唇も固く閉じて堪えるが、その中で歯が震えてカチカチと音が鳴る。


「……お嬢」


先ほど洋が化けていた姿とは掛け離れた姿。


真実の姿。


なのに震える。

いつも夢に見ていた化け物は、ずっと花寿美の傍にいてくれた男だった。


「……すみません」


花寿美の上に跨いでいた前足がゆっくりと避けた。


煽るように洋は笑った。


「ほら、“正義の味方”を見て彼女は怯えているよ?お前が化け物じゃなけりゃあ何なんだ?」


大きな図体に比べて小さな目が伏せる。


「すみません、お嬢。……すみません」


槐は何度も謝る。

何故謝るのか花寿美にはわからないが、何かを言うことも出来ない。

上体だけ起こし、お尻を床に付けたまま、そのままズルズルと後ろへ後ずさり、“獏”から離れた。


少し離れて、遠目から姿を何度確認しても、それは確かに禍々しくさえ思える燃えるような姿をした獣だ。


いつも見ていた獣。

夢で、ずっと、ずっと前から。


「なんで……槐……なんで……」

「貴女が悪夢を見やすくなったのは、自分のせいなんです」


先ほどのドスを利かせた低い声ではなく、槐は呟くように小さくこぼした。


「まだ幼い貴女が夢魔に襲われていたところを……貴女のお婆様に頼まれて、自分が祓いました。しかし上の許可もなく、手順も無視して勝手にやったことで、貴女の『現(うつつ)と夢の狭間』に自分の力の影響が残り……歪《ひず》みが出来た。本来、人間が誰しも持っている最低限の防衛の力を自分が壊しました」




『槐様……お願い、この子を……花寿美を……花寿美を守ってください……お願いです、どうか花寿美を』


遠い日の記憶。

祖母が泣きながら、必死に獣に願った。

『……花寿美お嬢さん』

もう大丈夫です……と鋭い牙と爪を隠さず、禍々しい鼻が小さな花寿美を抱いた時

幼い花寿美は、

『あっ……あっ、い……や……』

恐怖に負けて泣き出した。







「……あ」


花寿美は忘れてしまっていた幼い時の自分の記憶と繋がり、口で自分の手で覆った。


槐は寂しげに笑った。


「時間が無かったとはいえ、貴女の『狭間』を無理矢理に開けて壊してしまっただけでなく、トラウマまで残してしまって……きっと償うには十年の時間も足りないですね」


洋は光の渦を纏ったあと、もう一度『人型の槐』に姿を変えて、笑った。


「ははは、日下さん……よく見てあげなよ。この醜い獣が君が抱いてほしいと思っていた男の真実の姿だ」


槐は花寿美から目を逸らした。


「……お嬢……すみません」

「槐」

「見ないでください……お願いです、見ないでください」


消えそうな声がもう一度「……見ないで」と呟く。


「そうだね。そんなにその姿でいることが苦痛なら俺が消してあげるよ」


洋が右手に黒い炎を発火させて、人のモノではない強固な褐色の魔物の手に戻す。

洋のその手は槐の胴体めがけて突き上げる。


両手を広げた花寿美が槐の前に立ちはだかった。


「———っおじょ…」


突然のことに槐は咄嗟に花寿美を抱き、寸での所で洋の炎を一緒に躱《かわ》した。

洋は勢いを止められず、壁を壊して体ごと、そのまま突っ込んだ。

散乱して飛ぶ木の板の破片から槐は花寿美を庇った。

花寿美が無事であることを確認する。


「貴女は一体何をして……!!」


ぎりぎりの出来事に槐は脈が乱れて、つい大声が出たが、震える花寿美を見て噤《つぐ》んだ。


まだ恐い。

人間の世界では有り得ない姿の見慣れない異形な生物。

ある種の神として正しい畏怖を表す姿。

刷り込まれた恐怖に体の震えは止まらない。

だが、流れている涙は決して恐怖からだけでない。


「槐」


獏の鼻を抱き、その皮膚に涙を染み込ます。


「ごめん、ごめんね……ごめんなさい」


花寿美がいつも見ていた化け物の姿は、悪夢ではなく……『悪夢を祓ったあと』の槐の姿だったのだ。

一体どんな恐ろしい夢を見ていたのかは知らない。

覚えていない。

それはきっと槐が守ってきていたから。

しかし守ってもらった後も幼い頃のトラウマに怯えて、助けてもらっても泣くばかりだった。

そんな守り甲斐がない、やるせない事なのに、槐はそれでも繰り返し守り続けてくれていた。


「……女の子に手を出しただなんて、よく言うわ……馬鹿じゃないの。私を守ったせいじゃない」

「………………嘘は言ってません。お嬢は女の子です」


赤くて熱い獣は花寿美を優しく抱きしめて、目を閉じた。


花寿美は流れる涙を拭うことなく槐を濡らした。


「ありがとう……槐、ありがとう」


ありがとう

ありがとう

いつもありがとう


ずっと言えなかった言葉がようやく言えた。


「……お嬢」


破壊された壁の穴から崩れる音と煙の中から、洋が姿を現す。


「——っふざけるなよ、化け物が」


槐がゆっくりと目を開けた。

その目が悪魔を捉える。

槐が小声でポツリと「……調子に乗るなよ?」と洋に向かって呟いた。


毛が逆立つと同時に空間が歪んだ。


「俺は確かに元妖怪の成り上がりだが、お前が下級悪魔で、俺が神であることに変わりないだろ」


獏の体が光り出すと、気圧も上がる。


「神が大事にしているものに手を出すなんて罰当たりなことをしやがって……覚悟は出来てるんだろうな?」


傍にいる槐の気迫に花寿美が先に参ってしまいそうだ。


「……お嬢……少し目を閉じててください」


槐は花寿美の目を隠した。


「一瞬で終わらせますから」
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