セイクリッド・カース

気高虚郎

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第5章:作戦準備

第64話:整った条件

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「よくも、よくもおおぉぉぉ!」

伯爵はおぼつかない動きで腰の剣に手をかけ、名剣ヴィトスを引き抜いた。
しかし伯爵はバランスを崩し、まるで杖をつく老人のように剣を地面に突き立てて倒れそうになる体を支えた。

「大したものだ。動きを止めてるっていうのに。」

便利屋は感嘆した。
心停止中に動きを抑える経絡を徹底的に突いて、首から上しか動かせないようにしたはずだ。なのに立ち上がって剣を抜けるとは。
よほどお怒りのようだ。

「あの時はすまなかった。」

「そんな謝罪で許されると思うか!?」

今すぐにでも斬りかかりたい。
だが伯爵は走るどころか立つ事すらやっとだ。
動きを止めてなかったと思うとぞっとする。

「やめて、お父様!彼は私が雇った便利屋なの!」

「この方は都に大きな貢献をしてくださったのです!」

怒り狂う父と便利屋の間に、ロレインとフィリップが割って入った。
彼は大罪人であると同時に大恩人でもあるのだ。

「この賊を、お前が雇っただと!?何のためにだ!?」

「お父様が正気を失っていたからよ!誰もいないのに話しかけて、政を放り出して、屋敷のみんなも逃げ出して、滅茶苦茶だったじゃない!元に戻ってほしかったのよ!」

ロレインはこれまでの思いの丈をぶつけた。
ようやく父との会話が成り立つようになったのだ。

「爆破もお前の指示だったのか!?」

「それは違うわ!確かに彼のやった事は行き過ぎだったけど必要な事だったの!」

「必要だと!?母親の想い出を吹き飛ばす事がか!?」

「魔法陣を破壊して、悪魔の企みを阻止するためよ!その腕を見てまだ分からないの!?お父様は騙されていたのよ!」

案の定始まった親子喧嘩。
ロレインも言い合いに夢中で作戦の事など忘れているようだ。

「いかれた賊を雇う前に話し合おうとは思わなかったのか!?」

「聞く耳すら持たなかったじゃない!」

「旦那様、お嬢様!落ち着いてください!」

フィリップが仲裁を試みるもまるで収まらない。
急いで作戦を次の段階に進めねばならないというのに。

「全くどうすれば…、ん?」

怒鳴り合う親子を尻目に便利屋は気づいた。
その変化に。

「私もアビーもお前に愛を注いできた!なのにこんな真似をしおって!」

「愛してるからやった事なのよ!どうすれば分かって…!」

「止めるんだ!そんなことをしてる場合じゃない!」

便利屋も仲裁に加わった。かすかで、そしておぞましい変化が始まっているのだ。
これから恐ろしい事が確実に起ころうとしているのに喧嘩どころではない。

「じゃあどうするの!?お父様の協力なしじゃ…!」

「下を見るんだ!」

下を見ればそこにあるのは文字や図形や紋章だ。
バルベリスが作った大きな魔法陣の上に立っているのだから当然だ。

「これがなんだって言うの?」

「影だ!」

魔法陣の上には月光によって出来た4人分の影がある。
その影の一つに明らかな変化が起こっていた。

「私の影が…。」

ティモシー・アリアンナの影だった。
その影の漆黒がみるみると濃く染まっていく。
まるで穴が空いているのかと錯覚するほどに濃くなると次の変化が始まった。

「いやああああああ!」

ロレインは悲鳴を張り上げた。
影からネズミが溢れ出たのだ。
まるで巣穴から燻りだされたかのように次々と。

「どうなっている!?」

一同は大混乱だ。
人の影からネズミが出てくるなんて聞いたことがない。

「なんて奴だ!」

便利屋はすぐさま理解した。
こんな事が出来るのはバルベリスしかいない。
肉体の主導権を奪い取られても、影を通して介入してくるとはさすが魔王。

「いや、いや、いやあああああ!来ないで!」

ネズミがたちまち魔法陣を覆いつくし、視界を埋め尽くす。
足元で這い回り、足首に蠢く感触が伝わる。
ネズミの大群にロレインの悲鳴が止まらない。
バルマンから借りた杖を振り回し、発狂したかのように叫び続けている。

「誰か助けて!誰か…!」

「ロレイン!これはネズミじゃない!君が倒すんだ!」

便利屋はロレインの手を握りしめた。
このネズミ擬きの大群は彼女にしか退治できない。

「ど、どうすればいいの!?」

「浄化の光を使うんだ!」

恐怖で消え入りそうな意識に伝えられた手段。
手の温もりに意識を集中させて叫ぶ。

「消えてーーーーー!」

杖から放たれる強烈な光。
ネズミたちはあっという間に消滅していった。

「そのままだ!」

便利屋は光の維持を促すと元凶を絶ちにかかった。
影を塞ぐにはこうするしかない。

「ぐわあ!」

「もう大丈夫だ!」

ロレインが恐る恐る光を消すと、もうネズミはいなかった。
さっきとの違いは伯爵がうつ伏せに寝ていることだ。

「無礼者め!私を誰だと思っている!?」

「重ね重ねすまない。」

便利屋の罪状にアリアンナ家当主を地面に這いつくばらせた、も追加だ。
影を塞ぐには当人に寝てもらうしかない。

「いや、いや、いや…。」

「気をしっかり持て、ロレイン。これからもっと大事な事があるんだろ。」

ネズミが消えようともいまだロレインは青ざめて、震えている。
便利屋が再び彼女の手を握りしめると、ロレインもまた力いっぱい彼の手を握り返した。
落ち着きを取り戻しているようだ。

「おのれ!娘に触るな!」

伯爵は貴族として恥をかかされ、夫として妻の想い出を壊された。
さらに父として屈辱を味わわされるとは。
愛する娘が恐怖に震えているのに抱きしめてやれず、不届き至極たる賊にその座を奪われているのだ。

「旦那様。ご理解されたでしょう。あなたの中には恐るべき悪魔が巣食っていることに。我々はこの状況を打開する作戦を練ってきたのです。」

「話せ!どういう作戦なんだ!」

伯爵は歯噛みしながらもフィリップの説得を聞き入れた。
夫としての怒りも、貴族の誇りなどかなぐり捨てねば。
このままでは娘を抱きしめる事すらできないのだ。

「その悪魔の知恵は恐るべきものです。おそらく世界中のどんな魔術師であろうとも旦那様の体から引きはがす術は編み出せないでしょう。」

バルベリスは悠久の時を生きて、無限の知恵を積んだ。
幾千年を生きるエルフでも、ドワーフの古代の石板でも敵わない。

「ですが追い詰められているのは悪魔も同じでした。肉体を奪うべく、旦那様の魂の排除を望んでいたのです。しかし旦那様の抵抗はすさまじく、手をこまねいていたのです。」

ティモシーの魂の執念。
理想通りにはいかなかった肉体の強化。
苦しみを誤魔化すための過度な飲酒。
儀式が中途半端に終わったことで、バルベリスは主導権を維持するのに手いっぱいだった。
だからバルマンの知恵を借りたのだ。

「我々はそれを利用し、旦那様の家庭教師であったバルマンに間者となってもらって悪魔にある禁術を教えました。」

バルマンが長い眠りについている間、ロレインはある方法で覚醒を促そうとしていた。
魂に呼び掛ける特殊な魔法陣でバルマンの意識を呼び起こそうとしたのだ。
その結果、バルベリスがアビー擬きにさせた思わぬ失言によって幻である事に気づいたバルマンの意識と連絡を取る事が出来た。
アウェイクニング作戦の旨を伝えるとバルマンは覚醒を拒否し、そのままバルベリスを騙すことを選んだ。

「禁術の名は蟲毒。壺に複数の虫や小動物を入れて食い合わて、生き残った一匹を精霊にするという異国の禁術です。作戦は功を奏して悪魔は旦那様の肉体を器に見立てて、魂を食い合わせるように応用した儀式を編み出しました。」

蛇の道は蛇。
蟲毒は非常に危険な儀式なので魔王に作らせたのだ。
春の陽だまりが演じた喜劇、“愛の坩堝”の本来のタイトルは“愛の蟲毒”。
魔王にヒントを与えるためにフィリップが一晩で書き上げたものだった。
バルマンの協力で作戦は修正され、お蔵入りになりかけたが。

「そして今宵は満月です。満月の夜は世界に魔力が満ちて、魔法や儀式の成功率が飛躍的に上がります。悪魔がこの時を選んだのは必然でした。ゆえに我々はそこを狙ったのです。」

教会で作戦中止を呼びかける中、便利屋は星のように煌く精霊を見て確信した。
魔王とはいえ練習に成功しただけでは本番の儀式には望めない。
だが都へ攻めてくる前に肉体を我が物にしたいであろうバルベリスが満月の夜に儀式を行う事を。
だから作戦の決行が今夜となって急な予定変更で便利屋、ロレイン、フィリップの最低限の人員となった。

「私は…、この儀式の、ために魂を操る儀式を特訓した。儀式の準備も整い、教授からも詠唱は教わった。でもまだ足りないの。」

ロレインは息を整えて恐怖を払いつつ、己の準備を明かした。
魂を鎮める術、魂の蝋燭。ネズミの魔物を実験台にしてロレインは魂を操る魔術の腕を磨いた。
バルマンからもこの儀式の一部始終を教わった。
しかしそれでも不十分だ。

「この儀式を成功させるにはお父様の協力が必要なの。お父様にはたくさんの儀式を行ってきた経験がある。私が読む詠唱をお父様が続けて唱えて。そして悪魔の魂に打ち勝てばお父様は自由になれるの。」

才能があるとはいえロレインのような若輩では魔王の儀式を成功させるには力量不足だ。
魔王の、とりわけ生贄を使う高度な儀式を100回以上もやってきたプロがここで寝そべっている。
ロレインが導き、伯爵が完成させる。それでこの儀式は成功するかもしれないのだ。

「無理だ!詠唱を唱えると生贄に捧げた者たちの姿が脳裏に浮かぶんだ!それだけでも心が壊れそうになるのにその状態で悪魔と戦うなんて…!」

生贄の儀式の直前に伯爵はアビーの幻と踊り、語らった。儀式の際にも常に傍らにいてもらった。
そうやって心を奮い立たせなければ出来なかった。
これまで捧げてきた命、そしてこれから捧げる命への罪悪感で潰されそうになったからだ。

「お願い!お父様なら絶対勝てるわ!戦って!」

「し、しかし…!」

弱気になるのも無理はない。
こんな状況でティモシーの心はかつてなく不安定だろう。
だが躊躇する余裕もない。便利屋は奥の手を切り出した。

「バルベリス。それが悪魔の名だ。」

「便利屋!?なんで言うの!」

ロレインとフィリップの顔から血の気が引いた。
決して言ってはならない言葉だ。その名を聞くだけでティモシーの心が折れるかもしれないからだ。
だが便利屋は2人に構うことなく続けた。

「バルベリス!?魔王じゃないか!そいつが私の中にいるのか!?」

「そうだ。だが奴の正体は小さな精霊だ。それが数えきれない人や動物の魂を吸収することで幾多の記憶や経験を取り込んだ結果、魔王になったんだ。」

目覚めたバルマンから教えてもらった世界中で数人しか知らないバルベリスの秘密だ。
ここに奴の弱点がある。

「バルベリスは誘惑に長けている。だから心に傷を負う者や崇拝者を支配下におけた。だが逆に言えば奴の精神自体は脆い。あんたも知ってるだろ、バルベリスの最期を。」

ティモシーは幼き日にマデリーンから教えられた神話を思い起こした。
悠久の時を生きた神に等しき存在が、救い主のただ一言で崩壊したのだ。

「奴は甘言やデタラメを言って誘惑してくるだろう。けどあんたが無視して、憎しみをバルベリスのみに向ければ勝算はある。奴の言葉に耳を貸したら駄目だ。」

「そういう事か…。」

ティモシーは愛娘ロレインを見た。
この子の為ならどんな強大な敵も倒すと誓った。たとえ相手が魔王だろうと。
次にフィリップを見て天使ごっこに付き合ってもらった幼き日に想いを巡らせた。
あの日、自分をヒーローにしてくれた執事がここにいる。
この者達がここにいるなら英雄になれるかもしれない。

「どうやら…、やるしかないようだ。」

ティモシーは腹を括った。
もうそれしかない。

「ロレイン、手を握ってくれ。」

「わかったわ。」

娘への愛。

「フィリップ、声をかけ続けてくれ。」

「任せてください。」

執事の見守り。

「賊よ、何もするな。それと成功したら3日以内にこの国を出ていくことをお勧めする。王と諸侯に呼び掛けて2度とお前が我が領地、いやこの国に踏み入れられないようにしてやる。」

「そうさせてもらおう。」

賊への怒り。
方向性は違えど、心の支えはここにある。

「始めてくれ、ロレイン…。」

場所は魔王バルベリスが手掛けた魔法陣。
時間は魔力が満ちる満月の夜。
行うは魔術に長けた父と娘。
条件は揃った。

「ええ…。お父様、行くわよ!」

ロレインは左手に杖、右手で父の手を握り、息を吸いこんだ。
アウェイクニング作戦の総仕上げが始まる。
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