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第100話:セイクリッド・カース(挿絵あり)
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※ ※ ※ アリアンナ邸 大広間 ※ ※ ※
崩壊しかけている屋敷の大広間で、母と娘は抱き合っていた。
お互いの全てを伝え合うために。
「お母さま…。」
ロレインは伝えた。
もう一度会えたことへの喜びを。そして再び訪れる別れへの悲しみを。
(ロレイン…。)
アビーは伝えた。
どれだけ我が子を愛してるかを精一杯。ロレインが今後の人生で挫けたときに、母の愛を思い出せるように。
「行かないで…!私、独りぼっちになっちゃう…!」
叶わない願いだと知りつつも口にせずにはいられなかった。
母にずっとそばにいてほしいという、当たり前の願いを。
(ごめんね。もう夜が明ける。これは天使様がくれた、一晩だけの奇跡なの。)
ラフィがくれた聖なる力、満月の夜がくれた魔力。
これらが揃っていたからこそ、アビーの霊は留まれた。
気まぐれな運命がくれた、わずかな時間が終わろうとしていた。
(忘れないで。この奇跡はきっとあなたを支え続けてくれる。)
「あっ…。」
ロレインの腕がアビーの霊体をすり抜けた。
力いっぱい実体化して抱きしめ続けていたが、限界を迎えたのだ。
(愛してるわ、ロレイン。神様の元でずっと見守ってる。)
「私も!お母さま、大好きよ…!」
アビーの霊が消えていく。
奇跡が終わろうとしていた。
(もう大丈夫…。)
「あっ…。」
母の姿は輝く粒となって消え去った。
最後の瞬間まで愛を伝えて。
「さようなら…。」
ロレインは輝く粒を握りしめた。
母がそこにいたという最後の跡形を少しでも記憶に遺せるように。
ロレインはたった今、再び母を失った。
涙は出なかった。何かを感じる事も。
ロレインはそのまま膝を抱えてうずくまっていた。
何も見たくなかった、何も聞きたくなかった、何もしたくなかった。
このままずっと永遠に。
「ロレイン。こんなところにいると危ないぞ。瓦礫が落ちて来て潰れるかもしれない。」
うずくまる少女に少年が声をかけた。
奇跡の立役者である天使ラフィだ。
「何も感じなくなれるならそれでいいわ。天使様。」
「違う名で呼んでほしい。俺は天使なんて柄じゃない。」
天使だと分かったというのに、彼はまるで変わらない。
ロレインは彼の望む呼び名を口にした。
「じゃあ、ラフィ。」
「それで頼む。」
ラフィ。
便利屋でも、天使でもない。それが彼にとって最もふさわしい呼び名だ。
「今まで何をしていたの?」
「死者を弔っていた。騎士のみんなや、伯爵の部下、執事さんを。」
決闘の前に庭園から集めておいた遺体に敬意を払って弔う、魔王を討伐した英雄として。
生存者に出来る最大の行いだ。
ラフィはシンプルな別れの言葉を贈っただけだが、天使からの言葉に勝る弔いは無いだろう。
「ありがとう。私も弔わなきゃいけないわね。」
「今すぐじゃなくていいさ。」
「時間が癒してくれるって言いたいの?無理よ、この痛みを感じなくなれる日が来るなんて信じられないわ。明日も、明後日も続くのは間違いないもの。」
人は言う、いつか楽になれると。
真実ではあるが、無責任な言葉でもある。
ティモシーのように、その時までに壊れてしまうのかもしれないのだから。
「そうだな。けど救い主と天使はその身を犠牲にして、神に聖なる贈り物を与えた。ありのままの世界を受け入れる試練である涙を。だから世界は続いている。想い出さえ捨てなければ、勇気ある君に出来ないはずがない。」
「聖なる贈り物?呪いよ。どうして正気でいなきゃいけないの?こんなに辛いなら、おかしくなっちゃった方がましよ。一度失った幸せは戻らないんでしょ。」
「聖なる呪い(セイクリッド・カース)か。そうかもしれない。だけど新たな幸せは見つける事が出来る。いつか必ず。」
ラフィはそこまで言うと口を閉じた。
伝えたかった事はもう言った。これ以上は無用だ。
沈黙が続くかと思ったが、意外にもロレインの方から次の話題を切り出した。
「あなたは依頼を立派にやり遂げてくれた。報酬の事なら忘れてないわ。地下に宝物庫がある。欲しいものを欲しいだけ持って行って。」
「貰えないよ。多くの人が犠牲になってしまった。」
8人の騎士、17人のチンピラ、1人の執事。
魔王の野望を妨げた事を考えれば、死者の数は奇跡的なまでの少なさだ。
だが目前にいる少女の姿を見ては、報酬をせびるなど出来なかった。
「駄目よ。あなたはお父様を救ってくれた。恩人を手ぶらで帰しては、アリアンナ家は末代まで恥を晒すことになるわ。」
だがロレインも譲れない。
依頼人として、アリアンナ家の一員としての責務なのだから。
「じゃあこれが欲しい。体の一部みたいに馴染むんだ。」
ラフィは手に持つ剣を見つめた。
クラウ・ソラスの刃とヴィトスの柄が1つとなって生まれた、さっき出来たばかりの剣だ。
「元々はアリアンナ家の家宝だろ。勝手に持っていくわけにはいかない。だから報酬としてもらえるなら嬉しい。」
「そうね。きっと剣もそれを望んでいるわ。」
うずくまっていたロレインは立ち上がり、ラフィから剣を受け取った。
本来の主へと戻った剣は、依頼人からの報酬として再度ラフィに差し出された。
「お父様を救ってくれてありがとう。」
「どういたしまして。」
ラフィは剣を受け取った。
依頼は達成され、報酬を受け取った。これで依頼は完了だ。
これで2人は、旅人と貴族の令嬢に戻った。
「都に来ないの?あなたを英雄として迎えてくれるわ。」
「すまない。そういうのは苦手なんだ。教授や司祭様、騎士団のみんなによろしく伝えておいてくれ。」
ラフィの素っ気ない態度でロレインはすぐに察した。
彼を引き止めるのは無理だと。
「さようなら、ラフィ。あなたのことをアリアンナ家は、この地は決して忘れない。」
「俺も決して忘れない。さようなら、ロレイン。」
別れを終えたラフィは剣を抱え、出口へと向かった。
しかし大広間を出る直前に振り返った。アリアンナ家の敬意を伝える為に。
「剣の名前、アリアンナにするよ。聖剣アリアンナだ。」
これ以上、相応しい名前は無いだろう。
この剣はアリアンナ家の愛と勇気が生み出した聖剣なのだから。
そして魔王討伐に大きく貢献した者達の名でもあるのだから
「素敵な名前をありがとう。大事にしてね。」
このやり取りを最後にラフィは今度こそ屋敷を去っていった。
ラフィを見送ると、ロレインはうずくまるのを再開した。
備えなければいけない。お菓子を食べても甘いとしか思わない、本を読もうとも文字が並んでいるとしか思わない日々に。数ヶ月は続くだろう。
虚ろになった彼女には天使の降臨さえ些細なイベントでしかなかったのだから。
「お嬢様~!」
また誰かが来る。
今度はブレゴ達だ。
「頼む、お嬢様!俺達を正式にアリアンナ家の部下にしてくれ!」
「やめて。」
拒絶ではない。
今は放っておいてほしいだけだった。
「必ず爺さんの代わりとなってアリアンナ家を支えてみせる!」
「お願い、やめて…!」
ロレインの声が聞こえていないかのようにブレゴは頼み続けた。
彼女がいくら耳を抑えても、ブレゴの声が響く。
「だから、だからどうか…!」
「もうやめて!私は死んだお父様の代わりにはなれないわ!」
ロレインは振り向いて叫んだ。
だがブレゴたちは萎縮するかと思えば、不可解な顔をしていた。
「ボスが…、死んだ…?」
ただただ不思議そうな表情をしながら、彼は口にした。
さっき起こったはずの事実を。
※ ※ ※ アリアンナ邸 正門 ※ ※ ※
ブレゴ達に連れられ、屋敷の門を出たロレインを日の出が迎えた。
まるで人生の新たな出発を祝うかのように美しい日の出に照らされて、その人は立っていた。
「あ…!」
ロレインは歩き出した。
1歩目を踏み出すと、心臓のように魂が鼓動を打った。
2歩目を踏み出すと、心が手足に巡って呼吸を感じ出した。
3歩目を踏み出すと、顔が震えて目から涙が溢れだした。
歩を進めるごとにロレインは自分が生を全うしている事を感じながら、辿り着いた。
その人、ティモシーの元に。
「ロレイン…。」
間違いなく父の声だった。
あんなにも助けたかった父の娘を呼ぶ声だ。
右腕を失っていたが、彼は間違いなく生きている。
「どうして…?」
「信じてくれたんだ、天使様が…。」
天使は与えた。
ティモシーに罰ではなく、試練を。
※ ※ ※ 《回想》 アリアンナ邸 屋敷裏 ※ ※ ※
(天使様、さあ早く!)
ロレインが連れられて行った直後、アビーは邪気が溢れるバルベリスに光を当てながらラフィを急かした。
ラフィは後にアリアンナと名付ける聖剣を持ってバルベリスに近づき、聖剣の切っ先を突き立てようと構えた。
(急いで!)
「はい。」
それが最善の方法。
それが最も犠牲者を抑える方法。
そう自分に言い聞かせならラフィは剣を上げた。
そしてバルベリスが巣食うティモシーの胸へと突き立てた。
「待て…!」
ラフィが貫こうとした瞬間、剣が止まった。
胸に刺さるは、切っ先の先端のみ。
(どうなされたのですか!?)
ラフィを見ると深く考え込んでいた。
記憶を掘り起こすかのように、新たな策を編み出しているかのように。
(考えている余裕はありません!もう抑えられ…!)
「うわあああああ!」
アビーが、騎士が、チンピラ達が吹き飛んだ。
ティモシーの肉体から爆発するかのように邪気が溢れたのだ。
(天使様!)
邪気が晴れ、アビーが見るは絶望の光景。
立ち上がったバルベリスがラフィの首を掴んで持ち上げていた。
「覚悟が足らなかったな!私を殺す最後のチャンスだったというのに!」
「かっ…。」
バルベリスはその顔に怒りを刻ませながら、ラフィの喉を右手で締め上げた。
なんという怒りだ。
「感謝するぞ、天使よ!貴様への怒りが力をくれた!気が狂いそうなほど、凄まじい力が溢れてくるわ!」
バルベリスは左腕を振りかぶった。
狙うは締め上げるラフィの美しい顔面だ。
「天使よ、遺す言葉はあるか!?」
魔王に立ち向かった最後の天使の遺言。
その言葉はバルベリスの英雄譚を彩ってくれるだろう。
「哀れだ…。」
「そうだな!確かにこの依り代は哀れだ!死ね!」
たった一言。短くていい。
聞き終えたバルベリスは怒りのままに、左拳を目標へと叩きつけた。
完全に破壊するために力を込めて。
「な…!」
左拳は目標を破壊した。
だがバルベリスは歓喜を感じてはいなかった。
「ぐわああああああああ!」
当然だろう。
左拳が砕いたのは、ラフィの顔面ではなくて自分の右腕だったのだから。
ベッキリと折れた右腕はラフィの首を掴むことを忘れ、彼を地面に落とした。
「げほっ…。哀れだな、あんたは…。怒りすら借り物だとは。」
呼吸を取り戻したラフィは勝ち誇った表情をしていた。
そして限りない憐れみも。
「借り物だと!?何を言っている!私に何をした!?」
聖剣を突き立てる直前にラフィは思い出したのだ。
蟲毒の儀式の直前に起こった事、そして直後に起こった事を。
「思い出したことがあってな。蟲毒の儀式の直前、あんたは影からネズミを召喚して儀式の妨害をしようとしたろ。」
影から溢れたネズミ。
それだけではただの妨害だったと思うだろう。
だが不可解なことはまだあった。
「儀式の直後、俺は逃げようとした時に魔法陣に出来たくぼみに転んだ。だが間違いなく、儀式の前はあんなところにくぼみなんてなかった。そして儀式の結果、伯爵の魂は消えてなかった。さらにアビーさんはあんたが儀式を妨害したと言った。それでようやく気付いたんだ。」
これらの情報からラフィが導き出した推理。
それは何ら難しいことではなかった。
「あんたはネズミ達に魔法陣の一部を齧り取らせて蟲毒の儀式を未完成にしたんだろ。あの場から確実に生き延びる為に。」
「…!」
バルベリスの絶句を見るに、ラフィの推測は大正解のようだ。
ネズミ達に魔法陣の一部を齧らせ、破損した部分にティモシーを覆いかぶせる。
これで儀式の妨害をしたのだ。
「教授から魔法陣の説明は受けてる。あのくぼみに描かれていたのは“終焉のラッパ”の紋様。儀式の締めくくり、ピリオドだ。」
バルマンは現代考古学の最先端で解き明かした。
世界の終わりに天使が吹くラッパの紋様が現すのは、儀式の終わりだということを。
それをラフィは忘れてはいなかった。
「だから終焉のラッパの紋様を、この剣で体に刻ませてもらった。儀式を完成させるためにな。」
「はっ…!」
バルベリスは己の胸に刻まれた光る紋様を、ラッパを吹く天使の姿を見た。
ラフィが聖剣アリアンナに込められている魔力で刻んだのだ。
「ではさっきのは…。」
「左腕の主導権を奪還したティモシー・アリアンナだ。蟲毒の儀式が再開され、あんたは魂を喰われてるのさ。彼の怒りを、自分の怒りと間違えるほどにな。」
「だから…、怒りが借り物…。」
倒れていたバルベリスは突然、魂が猛るのを感じた。凄まじいまでの力の躍動も。
だがそれは自分ではなく、ティモシーの憤怒だった。
滑稽にも程がある。
「バルベリス。あんたは跪く前に、俺に訊ねたな。神の定義とやらを。逆に聞かせてもらおう。」
ラフィは取り掛かった。
バルベリスを完全に滅ぼす舞台を整える仕上げに。
「あんたはどう思う?自分の事を。」
「やめろ…。」
バルベリスは多くの物を、誰かから借りて来た。
肉体、知恵、経験、記憶。
どれも借り物。
「何万年も生きて、幾多の知恵を貯め、数えきれない記憶を奪った精霊なのに、他人の怒りで心が満たされてしまう。」
「やめろ…!」
地上を統べる野望も、勝利に震える心も、そして魂さえも。
全てが借り物。
「そんな虚ろな魂が、神に相応しいのか?」
「やめろ!やめろ!やめろおおおおおおおおお!」
バルベリスが壊れていく。
彼を構成する物が、絶対的な自信が、歩んできた栄光の歴史が。
借り物ばかりだということに耐えられず。
「こんな依り代…、もういらぬわ!」
自暴自棄に陥ったバルベリスは折れたまま右手を、己の胸に突き刺した。
心臓を握りつぶして儀式の器となる肉体を壊し、全てを終わらせる気だ。
しかし舞台の中断はラフィによって阻止された。
「舞台は終わっていない。」
出来たばかりの聖剣アリアンナ。
新品の剣の切れ味を見る為に、ラフィは試し切りを行った。
試しに斬るは魔王の右腕。聖剣アリアンナは見事に斬り落とした。
良い剣だ。
「ぐあああああああ!」
自害を防がれ、腕の切り口を抑えるバルベリスにラフィは剣を突き付けた。
舞台監督のごとく。
「天使なんて柄じゃないから、感じたままに名乗らせてもらおう。」
命を下すのはバルベリスにではない。
肉体の本来の持ち主へ。
「“翼を背負いし者”スラフの名の下に命ずる!汝ティモシー・アリアンナを、魔王バルベリスを討ち滅ぼす勇者に選ばん!」
これで舞台は整った。
彼の命の直後、ティモシーの意思が再び左腕に宿る。
左腕はティモシー自身の肉体、およびバルベリスの顎を打ち抜いた。
「ぐはっ!」
顎は急所。
バルベリスの意識は暗転した。
※ ※ ※ 聖域 ※ ※ ※
「聖域!?」
バルベリスはすぐに目覚めた。
だがそこは現実ではない。
白い世界。バルベリスの精神世界、“聖域”だった。
「この姿は…!?」
バルベリスは己の手足を見て、今の姿を確かめた。
忘れもしない、最初の人間の依り代。
古代人の祈祷師の姿だ。
「お前たち!?」
囲まれていた。
たくさんの人、エルフ、ドワーフに。
人種も時代も地域もバラバラ。バルベリスの依り代たち。
彼らの体は蟲毒の儀式によって陶器のようにひび割れ、手足を失っている者もいた。
共通しているのは虚しい眼で、失望した眼差しでバルベリスを見ている事だった。
「ひぃっ!?」
彼らをかき分け、1人の男がバルベリスの元へ来る。
怒りで目を滾らせたティモシー・アリアンナだ。
「やれ、その男を殺せ!」
バルベリスの声に応じる依り代は1人もいなかった。
誰も助けようとせず、見ているだけだ。
「どうしたんだ!?私は神だぞ!なぜ、守ろうとしない!?」
いくら乞うても依り代たちの目は虚ろなまま、黙っていた。
そして神だったものに背を向け、歩き出した。
ドワーフの皇帝ウォルフラッグも、エルフの賢者ペルイアスも。
平民も、物乞いも、戦士も、誰もが。
「行くな!行くな!誰のおかげで栄光ある生涯を歩めたと思っている!?私を見捨てるな!」
みんな去っていく。
神に裏切られたからだ。
1度目は蟲毒の儀式の時に見捨てられた。
2度目は楽園だったはずの“栄光の海”にいた自分達を冷淡に消すと言い放った。
そして3度目はたった今。神でありながら無様な姿を晒した。
もはやかける言葉すらない。
「天使の命において、貴様を滅ぼす。魔王バルベリス!」
ティモシーは独りぼっちのバルベリスの前に立った。
だが勝負を始めようとした瞬間、祈祷師の体から一羽のフクロウが抜け出た。
「誰か、誰か助けて!」
バルベリスはフクロウとなって逃げ出したのだ。
この情けなく助けを求める姿は、フクロウが愛想を尽かすには十分だった。
「ああっ!」
飛んでいたはずの体は地面へと落ち、小さくなってピョンピョンと跳びはねている。
フクロウに見限られ、次はカエルだ。
「消えたくない!」
大きくなったティモシーの足が近づいて来る。
踏み潰されそうになった瞬間、バルベリスはカエルから飛び出た。
最初の依り代である蝶となって。
「偉大なる歴史が私を待ってるんだ!」
バルベリスは死に物狂いで、ヒラヒラと優雅に舞った。
だが蝶の複眼、敷き詰められた視界に写った。
もう逃れられない距離にいるティモシーが両腕を広げる姿を。
「永遠の栄光が…。」
聖書によるとバルベリスは死の間際に何も思い返さなかったという。
だが今回は違う。幾多の依り代たちの心の叫びが、彼の魂をパンパンに満たしていた。
裏切り、失望、不実、悲嘆、虚無。
バルベリスが最期に感じるは、無限の絶望。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
パチン、と言う手を叩く音が聖域に響いた。
蝶はヒラヒラとティモシーの掌をすり抜けたが、彼ははっきりと感じていた。
偉大なる存在がこの手の間で潰されたのを。
「蝶にすら見捨てられたか。」
聖剣も、大魔法も使わなかった。
その最期は地平まで轟く悲鳴も、城を消し飛ばすような爆発も起こさなかった。
魔王バルベリスは原初の依り代たちにすら見捨てられ、ただの掌に潰されて滅びたのだ。
スラフが刻んだ終焉のラッパが鳴らしたバルベリスの断末魔はとてもか細いものだった。
「終わった…。」
悪魔によって中断され、天使によって再開された変則的な蟲毒な意外な結末を迎えた。
依り代たちに見捨てられた主のみが、勇者ティモシーに倒されるという形で。
これが数万年を生き、多くの信徒達の神であり、幾多の名を持つ悪魔バルベリスの最期。
実に惨めな締めくくりである。
「あなた。」
大任を果たし、虚空を見上げるティモシーの耳に聞こえるは最愛の人の声。
アビーが聖域に来てくれたのだ。
「アビー…。」
もうバルベリスの世界ではなくなった聖域で2人は抱きしめ合った。
永遠の愛と、魂が壊れるまで願った想いを叶えてくれた天使への感謝を胸に秘めて。
「愛してるよ…。」
「私もよ。勇者様。」
ティモシーは意識を失うまでアビーと過ごした。この時が永遠となるように。
こうして魔王バルベリスは、勇者ティモシー・アリアンナに討ち滅ぼされたのだ。
※ ※ ※ 《回想終わり》 ※ ※ ※
「う、う…、うわああああああああ!」
バルベリス討伐の舞台を聞いたロレインは堰を切ったかのように泣き出し、ティモシーを抱きしめた。
溢れる想いが止まらない。
「もう大丈夫だ…!ロレイン、本当にすまなかった…!」
父は娘2お抱きしめた。
二度と離さぬように強く。
ラフィは果たしてくれたのだ、ロレインの依頼を最後まで。
「ありがとう、天使様…!」
願いが届いたのかもしれない。
泣き虫の天使に。
「ありがとう、便利屋…!」
運命が彼を遣わしたのかもしれない。
美しき便利屋を。
「ありがとう、ラフィ…!」
ロレインは感じていた。
凍てついた魂が解けるのを。
ふらりと現れた天使と、人々が起こした奇跡を。
止まることのない涙を流しながら。
※ ※ ※ 街道 ※ ※ ※
「次はどこに行こうかな?」
ラフィは旅人に戻って、夜明けの街道を歩いていた。
報酬となる聖剣アリアンナを担ぎ、空を見上げながら。
「風に決めてもらおう。」
ラフィは吹き抜ける爽やかな風に、次の行先を任せるのだった。
その後、1人の吟遊詩人がアリアンナ家の領地にやってきた。
詩人の詩は遠い地で開かれる事になる“ターロとアマンダの大牧場”にまで知れ渡った。
彼女は歌った、天使様が自分の村を救ってくれたと。
母に捧ぐ
by 気高虚郎
崩壊しかけている屋敷の大広間で、母と娘は抱き合っていた。
お互いの全てを伝え合うために。
「お母さま…。」
ロレインは伝えた。
もう一度会えたことへの喜びを。そして再び訪れる別れへの悲しみを。
(ロレイン…。)
アビーは伝えた。
どれだけ我が子を愛してるかを精一杯。ロレインが今後の人生で挫けたときに、母の愛を思い出せるように。
「行かないで…!私、独りぼっちになっちゃう…!」
叶わない願いだと知りつつも口にせずにはいられなかった。
母にずっとそばにいてほしいという、当たり前の願いを。
(ごめんね。もう夜が明ける。これは天使様がくれた、一晩だけの奇跡なの。)
ラフィがくれた聖なる力、満月の夜がくれた魔力。
これらが揃っていたからこそ、アビーの霊は留まれた。
気まぐれな運命がくれた、わずかな時間が終わろうとしていた。
(忘れないで。この奇跡はきっとあなたを支え続けてくれる。)
「あっ…。」
ロレインの腕がアビーの霊体をすり抜けた。
力いっぱい実体化して抱きしめ続けていたが、限界を迎えたのだ。
(愛してるわ、ロレイン。神様の元でずっと見守ってる。)
「私も!お母さま、大好きよ…!」
アビーの霊が消えていく。
奇跡が終わろうとしていた。
(もう大丈夫…。)
「あっ…。」
母の姿は輝く粒となって消え去った。
最後の瞬間まで愛を伝えて。
「さようなら…。」
ロレインは輝く粒を握りしめた。
母がそこにいたという最後の跡形を少しでも記憶に遺せるように。
ロレインはたった今、再び母を失った。
涙は出なかった。何かを感じる事も。
ロレインはそのまま膝を抱えてうずくまっていた。
何も見たくなかった、何も聞きたくなかった、何もしたくなかった。
このままずっと永遠に。
「ロレイン。こんなところにいると危ないぞ。瓦礫が落ちて来て潰れるかもしれない。」
うずくまる少女に少年が声をかけた。
奇跡の立役者である天使ラフィだ。
「何も感じなくなれるならそれでいいわ。天使様。」
「違う名で呼んでほしい。俺は天使なんて柄じゃない。」
天使だと分かったというのに、彼はまるで変わらない。
ロレインは彼の望む呼び名を口にした。
「じゃあ、ラフィ。」
「それで頼む。」
ラフィ。
便利屋でも、天使でもない。それが彼にとって最もふさわしい呼び名だ。
「今まで何をしていたの?」
「死者を弔っていた。騎士のみんなや、伯爵の部下、執事さんを。」
決闘の前に庭園から集めておいた遺体に敬意を払って弔う、魔王を討伐した英雄として。
生存者に出来る最大の行いだ。
ラフィはシンプルな別れの言葉を贈っただけだが、天使からの言葉に勝る弔いは無いだろう。
「ありがとう。私も弔わなきゃいけないわね。」
「今すぐじゃなくていいさ。」
「時間が癒してくれるって言いたいの?無理よ、この痛みを感じなくなれる日が来るなんて信じられないわ。明日も、明後日も続くのは間違いないもの。」
人は言う、いつか楽になれると。
真実ではあるが、無責任な言葉でもある。
ティモシーのように、その時までに壊れてしまうのかもしれないのだから。
「そうだな。けど救い主と天使はその身を犠牲にして、神に聖なる贈り物を与えた。ありのままの世界を受け入れる試練である涙を。だから世界は続いている。想い出さえ捨てなければ、勇気ある君に出来ないはずがない。」
「聖なる贈り物?呪いよ。どうして正気でいなきゃいけないの?こんなに辛いなら、おかしくなっちゃった方がましよ。一度失った幸せは戻らないんでしょ。」
「聖なる呪い(セイクリッド・カース)か。そうかもしれない。だけど新たな幸せは見つける事が出来る。いつか必ず。」
ラフィはそこまで言うと口を閉じた。
伝えたかった事はもう言った。これ以上は無用だ。
沈黙が続くかと思ったが、意外にもロレインの方から次の話題を切り出した。
「あなたは依頼を立派にやり遂げてくれた。報酬の事なら忘れてないわ。地下に宝物庫がある。欲しいものを欲しいだけ持って行って。」
「貰えないよ。多くの人が犠牲になってしまった。」
8人の騎士、17人のチンピラ、1人の執事。
魔王の野望を妨げた事を考えれば、死者の数は奇跡的なまでの少なさだ。
だが目前にいる少女の姿を見ては、報酬をせびるなど出来なかった。
「駄目よ。あなたはお父様を救ってくれた。恩人を手ぶらで帰しては、アリアンナ家は末代まで恥を晒すことになるわ。」
だがロレインも譲れない。
依頼人として、アリアンナ家の一員としての責務なのだから。
「じゃあこれが欲しい。体の一部みたいに馴染むんだ。」
ラフィは手に持つ剣を見つめた。
クラウ・ソラスの刃とヴィトスの柄が1つとなって生まれた、さっき出来たばかりの剣だ。
「元々はアリアンナ家の家宝だろ。勝手に持っていくわけにはいかない。だから報酬としてもらえるなら嬉しい。」
「そうね。きっと剣もそれを望んでいるわ。」
うずくまっていたロレインは立ち上がり、ラフィから剣を受け取った。
本来の主へと戻った剣は、依頼人からの報酬として再度ラフィに差し出された。
「お父様を救ってくれてありがとう。」
「どういたしまして。」
ラフィは剣を受け取った。
依頼は達成され、報酬を受け取った。これで依頼は完了だ。
これで2人は、旅人と貴族の令嬢に戻った。
「都に来ないの?あなたを英雄として迎えてくれるわ。」
「すまない。そういうのは苦手なんだ。教授や司祭様、騎士団のみんなによろしく伝えておいてくれ。」
ラフィの素っ気ない態度でロレインはすぐに察した。
彼を引き止めるのは無理だと。
「さようなら、ラフィ。あなたのことをアリアンナ家は、この地は決して忘れない。」
「俺も決して忘れない。さようなら、ロレイン。」
別れを終えたラフィは剣を抱え、出口へと向かった。
しかし大広間を出る直前に振り返った。アリアンナ家の敬意を伝える為に。
「剣の名前、アリアンナにするよ。聖剣アリアンナだ。」
これ以上、相応しい名前は無いだろう。
この剣はアリアンナ家の愛と勇気が生み出した聖剣なのだから。
そして魔王討伐に大きく貢献した者達の名でもあるのだから
「素敵な名前をありがとう。大事にしてね。」
このやり取りを最後にラフィは今度こそ屋敷を去っていった。
ラフィを見送ると、ロレインはうずくまるのを再開した。
備えなければいけない。お菓子を食べても甘いとしか思わない、本を読もうとも文字が並んでいるとしか思わない日々に。数ヶ月は続くだろう。
虚ろになった彼女には天使の降臨さえ些細なイベントでしかなかったのだから。
「お嬢様~!」
また誰かが来る。
今度はブレゴ達だ。
「頼む、お嬢様!俺達を正式にアリアンナ家の部下にしてくれ!」
「やめて。」
拒絶ではない。
今は放っておいてほしいだけだった。
「必ず爺さんの代わりとなってアリアンナ家を支えてみせる!」
「お願い、やめて…!」
ロレインの声が聞こえていないかのようにブレゴは頼み続けた。
彼女がいくら耳を抑えても、ブレゴの声が響く。
「だから、だからどうか…!」
「もうやめて!私は死んだお父様の代わりにはなれないわ!」
ロレインは振り向いて叫んだ。
だがブレゴたちは萎縮するかと思えば、不可解な顔をしていた。
「ボスが…、死んだ…?」
ただただ不思議そうな表情をしながら、彼は口にした。
さっき起こったはずの事実を。
※ ※ ※ アリアンナ邸 正門 ※ ※ ※
ブレゴ達に連れられ、屋敷の門を出たロレインを日の出が迎えた。
まるで人生の新たな出発を祝うかのように美しい日の出に照らされて、その人は立っていた。
「あ…!」
ロレインは歩き出した。
1歩目を踏み出すと、心臓のように魂が鼓動を打った。
2歩目を踏み出すと、心が手足に巡って呼吸を感じ出した。
3歩目を踏み出すと、顔が震えて目から涙が溢れだした。
歩を進めるごとにロレインは自分が生を全うしている事を感じながら、辿り着いた。
その人、ティモシーの元に。
「ロレイン…。」
間違いなく父の声だった。
あんなにも助けたかった父の娘を呼ぶ声だ。
右腕を失っていたが、彼は間違いなく生きている。
「どうして…?」
「信じてくれたんだ、天使様が…。」
天使は与えた。
ティモシーに罰ではなく、試練を。
※ ※ ※ 《回想》 アリアンナ邸 屋敷裏 ※ ※ ※
(天使様、さあ早く!)
ロレインが連れられて行った直後、アビーは邪気が溢れるバルベリスに光を当てながらラフィを急かした。
ラフィは後にアリアンナと名付ける聖剣を持ってバルベリスに近づき、聖剣の切っ先を突き立てようと構えた。
(急いで!)
「はい。」
それが最善の方法。
それが最も犠牲者を抑える方法。
そう自分に言い聞かせならラフィは剣を上げた。
そしてバルベリスが巣食うティモシーの胸へと突き立てた。
「待て…!」
ラフィが貫こうとした瞬間、剣が止まった。
胸に刺さるは、切っ先の先端のみ。
(どうなされたのですか!?)
ラフィを見ると深く考え込んでいた。
記憶を掘り起こすかのように、新たな策を編み出しているかのように。
(考えている余裕はありません!もう抑えられ…!)
「うわあああああ!」
アビーが、騎士が、チンピラ達が吹き飛んだ。
ティモシーの肉体から爆発するかのように邪気が溢れたのだ。
(天使様!)
邪気が晴れ、アビーが見るは絶望の光景。
立ち上がったバルベリスがラフィの首を掴んで持ち上げていた。
「覚悟が足らなかったな!私を殺す最後のチャンスだったというのに!」
「かっ…。」
バルベリスはその顔に怒りを刻ませながら、ラフィの喉を右手で締め上げた。
なんという怒りだ。
「感謝するぞ、天使よ!貴様への怒りが力をくれた!気が狂いそうなほど、凄まじい力が溢れてくるわ!」
バルベリスは左腕を振りかぶった。
狙うは締め上げるラフィの美しい顔面だ。
「天使よ、遺す言葉はあるか!?」
魔王に立ち向かった最後の天使の遺言。
その言葉はバルベリスの英雄譚を彩ってくれるだろう。
「哀れだ…。」
「そうだな!確かにこの依り代は哀れだ!死ね!」
たった一言。短くていい。
聞き終えたバルベリスは怒りのままに、左拳を目標へと叩きつけた。
完全に破壊するために力を込めて。
「な…!」
左拳は目標を破壊した。
だがバルベリスは歓喜を感じてはいなかった。
「ぐわああああああああ!」
当然だろう。
左拳が砕いたのは、ラフィの顔面ではなくて自分の右腕だったのだから。
ベッキリと折れた右腕はラフィの首を掴むことを忘れ、彼を地面に落とした。
「げほっ…。哀れだな、あんたは…。怒りすら借り物だとは。」
呼吸を取り戻したラフィは勝ち誇った表情をしていた。
そして限りない憐れみも。
「借り物だと!?何を言っている!私に何をした!?」
聖剣を突き立てる直前にラフィは思い出したのだ。
蟲毒の儀式の直前に起こった事、そして直後に起こった事を。
「思い出したことがあってな。蟲毒の儀式の直前、あんたは影からネズミを召喚して儀式の妨害をしようとしたろ。」
影から溢れたネズミ。
それだけではただの妨害だったと思うだろう。
だが不可解なことはまだあった。
「儀式の直後、俺は逃げようとした時に魔法陣に出来たくぼみに転んだ。だが間違いなく、儀式の前はあんなところにくぼみなんてなかった。そして儀式の結果、伯爵の魂は消えてなかった。さらにアビーさんはあんたが儀式を妨害したと言った。それでようやく気付いたんだ。」
これらの情報からラフィが導き出した推理。
それは何ら難しいことではなかった。
「あんたはネズミ達に魔法陣の一部を齧り取らせて蟲毒の儀式を未完成にしたんだろ。あの場から確実に生き延びる為に。」
「…!」
バルベリスの絶句を見るに、ラフィの推測は大正解のようだ。
ネズミ達に魔法陣の一部を齧らせ、破損した部分にティモシーを覆いかぶせる。
これで儀式の妨害をしたのだ。
「教授から魔法陣の説明は受けてる。あのくぼみに描かれていたのは“終焉のラッパ”の紋様。儀式の締めくくり、ピリオドだ。」
バルマンは現代考古学の最先端で解き明かした。
世界の終わりに天使が吹くラッパの紋様が現すのは、儀式の終わりだということを。
それをラフィは忘れてはいなかった。
「だから終焉のラッパの紋様を、この剣で体に刻ませてもらった。儀式を完成させるためにな。」
「はっ…!」
バルベリスは己の胸に刻まれた光る紋様を、ラッパを吹く天使の姿を見た。
ラフィが聖剣アリアンナに込められている魔力で刻んだのだ。
「ではさっきのは…。」
「左腕の主導権を奪還したティモシー・アリアンナだ。蟲毒の儀式が再開され、あんたは魂を喰われてるのさ。彼の怒りを、自分の怒りと間違えるほどにな。」
「だから…、怒りが借り物…。」
倒れていたバルベリスは突然、魂が猛るのを感じた。凄まじいまでの力の躍動も。
だがそれは自分ではなく、ティモシーの憤怒だった。
滑稽にも程がある。
「バルベリス。あんたは跪く前に、俺に訊ねたな。神の定義とやらを。逆に聞かせてもらおう。」
ラフィは取り掛かった。
バルベリスを完全に滅ぼす舞台を整える仕上げに。
「あんたはどう思う?自分の事を。」
「やめろ…。」
バルベリスは多くの物を、誰かから借りて来た。
肉体、知恵、経験、記憶。
どれも借り物。
「何万年も生きて、幾多の知恵を貯め、数えきれない記憶を奪った精霊なのに、他人の怒りで心が満たされてしまう。」
「やめろ…!」
地上を統べる野望も、勝利に震える心も、そして魂さえも。
全てが借り物。
「そんな虚ろな魂が、神に相応しいのか?」
「やめろ!やめろ!やめろおおおおおおおおお!」
バルベリスが壊れていく。
彼を構成する物が、絶対的な自信が、歩んできた栄光の歴史が。
借り物ばかりだということに耐えられず。
「こんな依り代…、もういらぬわ!」
自暴自棄に陥ったバルベリスは折れたまま右手を、己の胸に突き刺した。
心臓を握りつぶして儀式の器となる肉体を壊し、全てを終わらせる気だ。
しかし舞台の中断はラフィによって阻止された。
「舞台は終わっていない。」
出来たばかりの聖剣アリアンナ。
新品の剣の切れ味を見る為に、ラフィは試し切りを行った。
試しに斬るは魔王の右腕。聖剣アリアンナは見事に斬り落とした。
良い剣だ。
「ぐあああああああ!」
自害を防がれ、腕の切り口を抑えるバルベリスにラフィは剣を突き付けた。
舞台監督のごとく。
「天使なんて柄じゃないから、感じたままに名乗らせてもらおう。」
命を下すのはバルベリスにではない。
肉体の本来の持ち主へ。
「“翼を背負いし者”スラフの名の下に命ずる!汝ティモシー・アリアンナを、魔王バルベリスを討ち滅ぼす勇者に選ばん!」
これで舞台は整った。
彼の命の直後、ティモシーの意思が再び左腕に宿る。
左腕はティモシー自身の肉体、およびバルベリスの顎を打ち抜いた。
「ぐはっ!」
顎は急所。
バルベリスの意識は暗転した。
※ ※ ※ 聖域 ※ ※ ※
「聖域!?」
バルベリスはすぐに目覚めた。
だがそこは現実ではない。
白い世界。バルベリスの精神世界、“聖域”だった。
「この姿は…!?」
バルベリスは己の手足を見て、今の姿を確かめた。
忘れもしない、最初の人間の依り代。
古代人の祈祷師の姿だ。
「お前たち!?」
囲まれていた。
たくさんの人、エルフ、ドワーフに。
人種も時代も地域もバラバラ。バルベリスの依り代たち。
彼らの体は蟲毒の儀式によって陶器のようにひび割れ、手足を失っている者もいた。
共通しているのは虚しい眼で、失望した眼差しでバルベリスを見ている事だった。
「ひぃっ!?」
彼らをかき分け、1人の男がバルベリスの元へ来る。
怒りで目を滾らせたティモシー・アリアンナだ。
「やれ、その男を殺せ!」
バルベリスの声に応じる依り代は1人もいなかった。
誰も助けようとせず、見ているだけだ。
「どうしたんだ!?私は神だぞ!なぜ、守ろうとしない!?」
いくら乞うても依り代たちの目は虚ろなまま、黙っていた。
そして神だったものに背を向け、歩き出した。
ドワーフの皇帝ウォルフラッグも、エルフの賢者ペルイアスも。
平民も、物乞いも、戦士も、誰もが。
「行くな!行くな!誰のおかげで栄光ある生涯を歩めたと思っている!?私を見捨てるな!」
みんな去っていく。
神に裏切られたからだ。
1度目は蟲毒の儀式の時に見捨てられた。
2度目は楽園だったはずの“栄光の海”にいた自分達を冷淡に消すと言い放った。
そして3度目はたった今。神でありながら無様な姿を晒した。
もはやかける言葉すらない。
「天使の命において、貴様を滅ぼす。魔王バルベリス!」
ティモシーは独りぼっちのバルベリスの前に立った。
だが勝負を始めようとした瞬間、祈祷師の体から一羽のフクロウが抜け出た。
「誰か、誰か助けて!」
バルベリスはフクロウとなって逃げ出したのだ。
この情けなく助けを求める姿は、フクロウが愛想を尽かすには十分だった。
「ああっ!」
飛んでいたはずの体は地面へと落ち、小さくなってピョンピョンと跳びはねている。
フクロウに見限られ、次はカエルだ。
「消えたくない!」
大きくなったティモシーの足が近づいて来る。
踏み潰されそうになった瞬間、バルベリスはカエルから飛び出た。
最初の依り代である蝶となって。
「偉大なる歴史が私を待ってるんだ!」
バルベリスは死に物狂いで、ヒラヒラと優雅に舞った。
だが蝶の複眼、敷き詰められた視界に写った。
もう逃れられない距離にいるティモシーが両腕を広げる姿を。
「永遠の栄光が…。」
聖書によるとバルベリスは死の間際に何も思い返さなかったという。
だが今回は違う。幾多の依り代たちの心の叫びが、彼の魂をパンパンに満たしていた。
裏切り、失望、不実、悲嘆、虚無。
バルベリスが最期に感じるは、無限の絶望。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
パチン、と言う手を叩く音が聖域に響いた。
蝶はヒラヒラとティモシーの掌をすり抜けたが、彼ははっきりと感じていた。
偉大なる存在がこの手の間で潰されたのを。
「蝶にすら見捨てられたか。」
聖剣も、大魔法も使わなかった。
その最期は地平まで轟く悲鳴も、城を消し飛ばすような爆発も起こさなかった。
魔王バルベリスは原初の依り代たちにすら見捨てられ、ただの掌に潰されて滅びたのだ。
スラフが刻んだ終焉のラッパが鳴らしたバルベリスの断末魔はとてもか細いものだった。
「終わった…。」
悪魔によって中断され、天使によって再開された変則的な蟲毒な意外な結末を迎えた。
依り代たちに見捨てられた主のみが、勇者ティモシーに倒されるという形で。
これが数万年を生き、多くの信徒達の神であり、幾多の名を持つ悪魔バルベリスの最期。
実に惨めな締めくくりである。
「あなた。」
大任を果たし、虚空を見上げるティモシーの耳に聞こえるは最愛の人の声。
アビーが聖域に来てくれたのだ。
「アビー…。」
もうバルベリスの世界ではなくなった聖域で2人は抱きしめ合った。
永遠の愛と、魂が壊れるまで願った想いを叶えてくれた天使への感謝を胸に秘めて。
「愛してるよ…。」
「私もよ。勇者様。」
ティモシーは意識を失うまでアビーと過ごした。この時が永遠となるように。
こうして魔王バルベリスは、勇者ティモシー・アリアンナに討ち滅ぼされたのだ。
※ ※ ※ 《回想終わり》 ※ ※ ※
「う、う…、うわああああああああ!」
バルベリス討伐の舞台を聞いたロレインは堰を切ったかのように泣き出し、ティモシーを抱きしめた。
溢れる想いが止まらない。
「もう大丈夫だ…!ロレイン、本当にすまなかった…!」
父は娘2お抱きしめた。
二度と離さぬように強く。
ラフィは果たしてくれたのだ、ロレインの依頼を最後まで。
「ありがとう、天使様…!」
願いが届いたのかもしれない。
泣き虫の天使に。
「ありがとう、便利屋…!」
運命が彼を遣わしたのかもしれない。
美しき便利屋を。
「ありがとう、ラフィ…!」
ロレインは感じていた。
凍てついた魂が解けるのを。
ふらりと現れた天使と、人々が起こした奇跡を。
止まることのない涙を流しながら。
※ ※ ※ 街道 ※ ※ ※
「次はどこに行こうかな?」
ラフィは旅人に戻って、夜明けの街道を歩いていた。
報酬となる聖剣アリアンナを担ぎ、空を見上げながら。
「風に決めてもらおう。」
ラフィは吹き抜ける爽やかな風に、次の行先を任せるのだった。
その後、1人の吟遊詩人がアリアンナ家の領地にやってきた。
詩人の詩は遠い地で開かれる事になる“ターロとアマンダの大牧場”にまで知れ渡った。
彼女は歌った、天使様が自分の村を救ってくれたと。
母に捧ぐ
by 気高虚郎
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