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郁男と浪人生活

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郁男の青春時代は、忙しかった。



高校を卒業してすぐ働きだし、仕事に精を出した。恋をする暇もなかったようだ。

さらに、中学のころから郁男が熱心に続けていることがあった。
それは、絵を描くことである。

仕事が休みの日は、自転車を乗りまわし、京都や奈良の風景や仏像を模写した。


京都勤務から東京へ移ると、仕事では三越デパートの担当として実績を重ね信頼を得ながらも、この頃にはもう「芸大で絵を学びたい」という気持ちが強くなっていた。

仕事が終わり、夕方には御茶ノ水にある絵の学校へ行く日々。夜は、大学受験のための苦手な勉強もした。

そして、とうとう会社をやめて、浪人生活をすることになった。


その頃の郁男は、働きも良く、商売のタイミングも心得ており、会社でも取り引き先でも重宝されていた。
退職すると聞きつけて、本社からあわてて専務が東京の郁男の実家にやってきた。おそらく入社面接で郁男を気に入った専務と思う。

本社の専務は、郁男の両親に頼み込んだ。

「(会社の費用で)京都の美大に行かせてあげるから、会社を辞めないでほしい。」


ありがたい話であった。
しかし、最高峰の芸大への夢があった郁男は、専務と両親を説得し、この話を断ってしまった。


そして、3年に及ぶ浪人生活が、はじまった。





郁男の手記より


~~~~~~~~~~~~~

浪人生活は、デッサンを重ねてデザインを学び、毎日毎日夜遅くまで。
最終電車に飛び乗って、一時間三十分くらい電車にゆられ、自宅の最寄り駅北口から、桑並木の歩道を大股で、靴音高く家まで一気に歩く。
風呂に入って寝る。日曜日はいつも一日寝てる。金もない、時間もない、恋など全くない毎日であった。
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