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2巻番外編「彼等の縁の糸」

第四話番外編 キツネの初恋(1)

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 実家で執り行われた会合を無事に終え、穂村類と楠木くすき有栖は薬膳カフェに足を踏み入れた。

 通りに面した大きな窓からは、夕焼けの紅蓮色がカフェ店内を色づけている。

「寒かったでしょ、有栖ちゃん。今何か温かいものを準備するから、座っててね」
「はい。ありがとうございます」

 コートを受け取りながら告げる類に、有栖はそっと微笑みながら頷いた。

 とはいったものの、このカフェ店内での飲食を準備するのは、長らく幼馴染みの孝太朗に任せきりだった。

 いつものような薬膳茶は無理でも、ストレートの紅茶なら。
 そう思い厨房に入った類は、テーブルに置かれたメモ用紙に気づく。

 記された文字を目にしてすぐに、類はふっと小さな苦笑を漏らした。

 見覚えのある筆跡で記されていたのは、薬膳茶の材料の場所と簡単な調理法だ。
 このカフェに自分たちが来ることを見越して用意されていたらしい。

 本当に、あの幼馴染みには頭が上がらない。

「お待たせしました。ひとまずこちらの薬膳茶で温まってね」
「ありがとうございます。今日はカフェもお休みの日なのに、すみません」
「いいのいいの。ほとんど孝太朗が準備してくれていた薬膳茶だけどね。その分味は保証するよ」

 薬膳茶をテーブルに置いた類も、有栖の対面席に腰を下ろした。

 有栖は小さな微笑を浮かべながら、ポットに入った薬膳茶をカップに注いでいく。

 ポットを傾ける手つき。
 細くて白い指。
 外を歩いたからか、少し赤く色づいた耳。

 そんな何気ない有栖という人の細部までを、類はいつの間にかじっと見つめていた。

 本当に綺麗な人だ。

 凜とした空気を身に纏う、心の強い人。
 向こう側まで見渡すことのできる、透き通った水晶のような人。

 本当に、自分とは正反対の。

「類さん」

 名を呼ばれ、はっと小さく息をのむ。
 気づけば有栖は、類の分のカップをこちらに差し出していた。

「大丈夫ですか。今日は色々ありましたから、類さんもきっとお疲れですよね」
「大丈夫だよ。ありがとう、有栖ちゃん」

 心配げにこちらを見つめる有栖に、類は笑顔を向ける。

 自分の臆病さ加減は、この二十一年間で嫌というほど自覚してきた。

 それでも今自分は、彼女とこうして向き合うことができている。ほんの数ヶ月前までは夢にも思わなかった風景がここにある。
 ここに辿りつくまで、どれだけたくさんの人の言葉と想いに背を押されてきた?

 覚悟を決めろ。穂村類。

「有栖ちゃん。今日はわざわざ俺の家まで来てくれてありがとう。会合では、嫌な思いもたくさんさせてしまったと思う。本当にごめん」

 真っ直ぐに有栖を見据えたあと、類は深く頭を下げた。

 今日開かれた会合は、表向きこそ類の生誕三十年を祝う会だったが、実情は大きく異なっていた。

 類を薬膳カフェから退かせ、祖父が連れてきた女性との半強制的な婚約を結ばせる。
 昔から祖父のことを見てきた類にとって、それらはどれも予想の範囲内の出来事だった。

 しかし、それを初めて目の当たりにした有栖の衝撃は、きっと大きなものだったに違いない。

「類さんが謝ることではありません。確かに驚きはしましたが、類さんは毅然と対応してくれましたから、私もすぐに安心できました」
「毅然としてた、かな。結構情けないところも見せちゃったような気もするけれど」
「そんなことありませんよ。素敵でした。とても」

 素敵。

 有栖からそんな褒め言葉を躊躇いなく向けられるたびに、どうしていいのかわからなくなる。

 これまで生きてきて、褒め言葉なんて数え切れないほどにかけられてきた。
 それなのに、彼女から与えられる言葉には、どうしてこんなに不思議な力が感じられるのだろう。

「それに、類さんがイブの日に話していた『片をつけなくちゃならないこと』も、ようやく知ることができました。類さんが抱えていた一番の気がかりは、孝太朗さんとのことだったんですね」
「……うん。そうだね」

 つい先ほど薬膳カフェまでの道すがら告白した、二十一年前の真実。

 孝太朗への罠を仕掛けたのが類自身だったこと。
 最初こそ罪悪感の薄かったその事実は、年月が経つごとに重く大きく類の肩にのし掛かっていた。

 孝太朗の隣にいることに心地よさを覚えるたびに、胸の奥に閉じ込めていた後悔の念が囁いた。
 お前にそんな権利はない。お前は孝太朗をだましてそこにいるのだと。

「孝太朗さん、言っていましたね。類さんの隣にいることは、孝太朗さん自身が選んだことだと。誰も彼も、類さんの幻術で惑わされているわけじゃないと」
「有栖ちゃん」
「私も、同じですよ」

 凜とした声色に、類の目が小さく剥いた。

「類さんが持つ不思議な術のことを私はよく知りません。でも、私が類さんを想う気持ちは、無理矢理操られて作られたものではありません。現にイブの日に一度突き放されても、この想いはまったく変わりませんでした」
「っ……」
「ですから類さん。そんな悲しい考えを持つのはもうやめ──」
「有栖ちゃんが好きだ」

 無意識にこぼれ落ちた言葉だった。

 ずっとずっと、頭の中に繰り返し響かせていた言葉。
 彼女に伝えることは決してできないと思っていた言葉だ。

「俺は……有栖ちゃんのことが好きだ。本当はずっと気づいていたのに、目を逸らし続けてた。でも本当は……いつの間にか、君のことが気になって仕方がなくなってた」
「類、さん……」
「有栖ちゃん」

 テーブルの上から右手をそっと伸ばし、有栖の手にそっと触れる。

 小さく震えた手を怖がらせることのないよう、類は指先を小さく絡めるに留めた。

「有栖ちゃんの隣にいるのは、俺がいい。おすすめの小説の話をするのも、時々浮かぶ可愛い笑顔を見るのも……全部全部、俺が一番でいたい……!」

 口に出してみれば、どれもこれも幼稚で独りよがりな願いばかりだ。

 気づけば自身の心音が五月蠅いくらいに耳元に響いていた。
 顔が熱い。声が震える。格好悪い。

 それでも、胸をせり上がってくる想いは止まりそうにない。

「有栖ちゃんのことは、これからずっと俺が守る。何からも君を傷つけさせないし、もしも俺に嫌なことがあったら精一杯直すよ。だから、その」
「っ……」
「有栖ちゃん……俺の、恋人になってください」

 言い切ったあと、自身を落ち着けるため細く長い息を吐く。

 そっと様子を窺うと、愛を伝えた彼女は頬を桃色に染めていた。
 宝石のように澄んだ瞳が、より一層きらきらと光を帯びているように見える。

 いつの間にか目尻に徐々に集まっていた雫が、静かにその頬を伝った。

「っ! あ、有栖ちゃん……!?」
「ごめんなさい……大丈夫です。嬉しくて……胸がいっぱいで」

 驚く類に小さく微笑みながら、有栖が目尻の涙を拭う。
 そんな仕草が今まで以上に愛おしくて、類の心臓が胸を痛いくらいに叩いた。

「有栖ちゃん……涙、俺が拭いてもいい?」
「駄目です」
「えっ」
「だって……恥ずかしいじゃありませんか」

 うわあ。なんだこの可愛い人は。

 類の視線に居たたまれなくなったらしい有栖が、急いで頬に残った泣き痕を拭い去る。

 初めて逢ったときは、こんな感情の揺らぎを少しも感じさせない人だった。
 そんな彼女が次第に見せてくれるようになったほんの僅かな感情の起伏を、宝物のように集めるようになっていた。

「有栖ちゃん……可愛い」
「可愛くなんてありません。日鞠さんのほうが、ずっとずっと可愛いです」
「有栖ちゃん。こっちを見て」

 いまだに触れあっていた指先に、そっと力をこめる。
 躊躇いがちにこちらに向けられた瞳に、類の笑顔が映り込んだ。

「可愛いよ。そんなふうに少し恥じらってる有栖ちゃんも、本当に可愛い」
「……類さん」
「うん?」
「ひとつだけ、類さんに確認したいことがあるんです」

 頬の熱を落ち着けた様子の有栖が、改めて居住まいを整えて類を見つめる。
 向き合う類も、自然と背筋をピンと伸ばした。

 確認。それはそうだろう。

 有栖からしてみれば、自分との交際はまだまだ未知の領域が多過ぎる。

 今までの異性交遊遍歴の詳細や、面倒な実家との付き合い、あやかしの血を継ぐ自分との交際のあれこれ等々。
 事前に説明してほしいであろう事柄は、それこそ山のように浮かんでくる。

 それでも今更この手を離すつもりはない。
 今はただ、彼女と真摯に向き合わなければ。

「うん。遠慮しないで、何でも聞いて」
「私も一度見てみたいんです。類さんの、あやかしの姿を」
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