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第一章 寄す処(よすが)を失くした乙女、小樽へ行く
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そのとき、鼻腔を微かにくすぐる「それ」に気づき、隣を振り返る。
夕涼みの風に吹かれ、濃紺の着物を優雅に揺らす紫苑の姿がそこにはあった。その胸元には、大切そうにあるものが抱えられている。
初対面の時にも同様に手にされていた、黄金色の香炉だった。
腹部分に優しい膨らみを持った香炉には灰が敷き詰められ、その中央には小指の先ほどの丸く黒い塊が三つほど置かれている。
恐らくこれもお香の一種なのだろう。煙がなくとも紬には十分なほどの芳香が届いている。
今香炉から漂う香りは、どうやら初対面の時のそれとは異なるものだった。
「紫苑さん。その香炉は……」
「紬さん。君にとってはこの香りは、どんな香りかな」
「え」
顔を運河に真っ直ぐ向けたまま、紫苑は唐突に問いかけた。
一瞬答えに窮した紬だったが、素直にその香りを感じるため瞼を閉じる。
周囲の人の話し声、車の喧噪、運河の水面が波──全ての音たちにも、丁寧に蓋をしていく。
より純粋な香りの世界に浸り、広がっていった景色は。
「──立ち並ぶ竹と、魚の多い水辺、濡れた土の青い香り。現代でないか、ひとけの随分と少ない、子どもたちの隠れ家のような空間……でしょうか」
「……」
「……紫苑さん?」
返答がないことを不審に思い、紬はそっと目を開く。
すると、いつの間にかこちらを凝視している紫苑とばちっと目が合った。
「あ、あの。もしかして私、何かおかしなことを言いましたか……?」
「いいや、そうじゃない。むしろ逆だよ」
逆? 意味がよくわからず首を傾げる紬に、紫苑はふっとまるで吹き出すような笑みを漏らした。
「君はどうやら、自分が持つ贈り物を持て余しているみたいだね」
「え? え?」
「君が今答えたとおりだよ。この香は、ある人のかつての『棲み処』を再現して作ったものなんだ」
そう言うと、紫苑は香炉を持つ手をすっと運河の方へと差し出した。
逆側の手のひらには、いつの間にか紙袋から出されていた例の浮き玉が置かれている。
「っ、え……!」
次の瞬間、紬が選んだ美しい浮き玉が空へ弧を描き放り上げられた。
「来たよ。浪子さん」
「ふふっ、待ちくたびれたわよ!」
「──っっ、ひゃ」
運河に吸い込まれていくように落下した浮き玉は、結局水をかぶることなく生還した。
運河から突如として現れた、愛嬌たっぷりの女性の手によって。
「相変わらず素敵な香りね、紫苑くん。それにしても、私をピンポイントでお呼び立てなんて嬉しいわあ。それにしては随分と待たせてくれたけれど?」
「君だって一応の時間が必要だったでしょう。それに、こちらもこの人を待ち案内する約束があったのでね」
「……この人お?」
わかりやすく機嫌を損ねた様子で、女性は紬に視線を向けた。
余分な肉が一切ないすらりとした体型は、モデルといわれても違和感がない。
白のワンピースを上品に着こなし、膝下からのぞき足はすらりと美しかった。
緩くウェーブがかかった焦げ茶の髪は頭上辺りでひとくくりに結われ、艶やかな髪先を優美に揺らしている。
そんな美貌を持つ彼女から何やら鋭い視線を向けられる紬は、巡り巡るさまざまな思考に溺れそうになっていた。
例えば、この女性は運河の水中から出てきましたよね、とか。
その割に橋の上に立った姿はどこも濡れていませんね、とか。
外見は確かに自分と同じ二十代後半の女性ですね、とか。
でもこの人は──間違いなく「人ならざるもの」ですよね、とか。
「ちょっとあんた」
「は、はいっ!」
「もしかして……アタシの姿が見えてるの?」
しまった。もしかして、見えない設定の方がよかったのか。
思わず大声で返事をしてしまった口を慌てて塞ぐ。反射的に視線を向けた紫苑はというと、少し困ったように肩をすくめるだけだった。いやいやいや。そんな悠長にしていないでどうにか仲裁してほしい。
「あんた、ここいらじゃ見慣れない顔ね」
「えと。今日この街を紫苑さんに案内して頂いただけの、観光客なもので」
「それだけ? 普通この流れなら、自分から名乗るくらいするものじゃないの?」
「し、失礼しました。札幌から来ました、千草野紬と申しますっ」
「へええ。ふううん……まあべっつに! あんたのことなんて興味はないんだけどねー!」
ええええ。駄目だ。無理だ。為す術なしだ。
直近で見下ろされながらの美女の猛追に泣きそうになりながら、もう一人の美形に再び視線を送る。先ほどよりもやや非難めいた視線にしたのが功を奏したらしく、紫苑はようやく微笑を象っていた口を開いた。
「浪子さん、あまり彼女をいじめないであげてよ。この浮き玉だって、彼女が君のためにわざわざ見繕ってくれたんだよ?」
「…………へええ。この浮き玉を、彼女が、ねえ?」
わざとじゃないですよね紫苑さん。
絶妙に火に油を注ぐ紫苑のお陰で、紬はぎりぎり瀕死状態まで追い込まれる。
自分に好意を持つ女性への贈り物を、他の女性に選ばせるなんてどういう了見だ。やっぱりあのとききっぱりお断りするべきだった。
「それはそうと、紬さん」
「は、はい……」
「数ある浮き玉のなかから、君はどうしてこの浮き玉を選んだのか……何か理由はあったかな」
夕涼みの風に吹かれ、濃紺の着物を優雅に揺らす紫苑の姿がそこにはあった。その胸元には、大切そうにあるものが抱えられている。
初対面の時にも同様に手にされていた、黄金色の香炉だった。
腹部分に優しい膨らみを持った香炉には灰が敷き詰められ、その中央には小指の先ほどの丸く黒い塊が三つほど置かれている。
恐らくこれもお香の一種なのだろう。煙がなくとも紬には十分なほどの芳香が届いている。
今香炉から漂う香りは、どうやら初対面の時のそれとは異なるものだった。
「紫苑さん。その香炉は……」
「紬さん。君にとってはこの香りは、どんな香りかな」
「え」
顔を運河に真っ直ぐ向けたまま、紫苑は唐突に問いかけた。
一瞬答えに窮した紬だったが、素直にその香りを感じるため瞼を閉じる。
周囲の人の話し声、車の喧噪、運河の水面が波──全ての音たちにも、丁寧に蓋をしていく。
より純粋な香りの世界に浸り、広がっていった景色は。
「──立ち並ぶ竹と、魚の多い水辺、濡れた土の青い香り。現代でないか、ひとけの随分と少ない、子どもたちの隠れ家のような空間……でしょうか」
「……」
「……紫苑さん?」
返答がないことを不審に思い、紬はそっと目を開く。
すると、いつの間にかこちらを凝視している紫苑とばちっと目が合った。
「あ、あの。もしかして私、何かおかしなことを言いましたか……?」
「いいや、そうじゃない。むしろ逆だよ」
逆? 意味がよくわからず首を傾げる紬に、紫苑はふっとまるで吹き出すような笑みを漏らした。
「君はどうやら、自分が持つ贈り物を持て余しているみたいだね」
「え? え?」
「君が今答えたとおりだよ。この香は、ある人のかつての『棲み処』を再現して作ったものなんだ」
そう言うと、紫苑は香炉を持つ手をすっと運河の方へと差し出した。
逆側の手のひらには、いつの間にか紙袋から出されていた例の浮き玉が置かれている。
「っ、え……!」
次の瞬間、紬が選んだ美しい浮き玉が空へ弧を描き放り上げられた。
「来たよ。浪子さん」
「ふふっ、待ちくたびれたわよ!」
「──っっ、ひゃ」
運河に吸い込まれていくように落下した浮き玉は、結局水をかぶることなく生還した。
運河から突如として現れた、愛嬌たっぷりの女性の手によって。
「相変わらず素敵な香りね、紫苑くん。それにしても、私をピンポイントでお呼び立てなんて嬉しいわあ。それにしては随分と待たせてくれたけれど?」
「君だって一応の時間が必要だったでしょう。それに、こちらもこの人を待ち案内する約束があったのでね」
「……この人お?」
わかりやすく機嫌を損ねた様子で、女性は紬に視線を向けた。
余分な肉が一切ないすらりとした体型は、モデルといわれても違和感がない。
白のワンピースを上品に着こなし、膝下からのぞき足はすらりと美しかった。
緩くウェーブがかかった焦げ茶の髪は頭上辺りでひとくくりに結われ、艶やかな髪先を優美に揺らしている。
そんな美貌を持つ彼女から何やら鋭い視線を向けられる紬は、巡り巡るさまざまな思考に溺れそうになっていた。
例えば、この女性は運河の水中から出てきましたよね、とか。
その割に橋の上に立った姿はどこも濡れていませんね、とか。
外見は確かに自分と同じ二十代後半の女性ですね、とか。
でもこの人は──間違いなく「人ならざるもの」ですよね、とか。
「ちょっとあんた」
「は、はいっ!」
「もしかして……アタシの姿が見えてるの?」
しまった。もしかして、見えない設定の方がよかったのか。
思わず大声で返事をしてしまった口を慌てて塞ぐ。反射的に視線を向けた紫苑はというと、少し困ったように肩をすくめるだけだった。いやいやいや。そんな悠長にしていないでどうにか仲裁してほしい。
「あんた、ここいらじゃ見慣れない顔ね」
「えと。今日この街を紫苑さんに案内して頂いただけの、観光客なもので」
「それだけ? 普通この流れなら、自分から名乗るくらいするものじゃないの?」
「し、失礼しました。札幌から来ました、千草野紬と申しますっ」
「へええ。ふううん……まあべっつに! あんたのことなんて興味はないんだけどねー!」
ええええ。駄目だ。無理だ。為す術なしだ。
直近で見下ろされながらの美女の猛追に泣きそうになりながら、もう一人の美形に再び視線を送る。先ほどよりもやや非難めいた視線にしたのが功を奏したらしく、紫苑はようやく微笑を象っていた口を開いた。
「浪子さん、あまり彼女をいじめないであげてよ。この浮き玉だって、彼女が君のためにわざわざ見繕ってくれたんだよ?」
「…………へええ。この浮き玉を、彼女が、ねえ?」
わざとじゃないですよね紫苑さん。
絶妙に火に油を注ぐ紫苑のお陰で、紬はぎりぎり瀕死状態まで追い込まれる。
自分に好意を持つ女性への贈り物を、他の女性に選ばせるなんてどういう了見だ。やっぱりあのとききっぱりお断りするべきだった。
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