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第二章 迷子の小豆洗いは小樽を彷徨う
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小樽たちばな香堂。
お香を専門に扱うその店は、JR小樽駅から小樽運河へ伸びる中央通りの、ちょうど中間辺りで右折した先の区画に静かに構えている。
開店時間は朝十時。夕刻の十八時に店じまいをするのは、周辺の店舗との足並みを揃えてのことらしい。
「いらっしゃいませ。どうぞゆっくり見ていってください」
「まああ。可愛い売り子さんね。着物もとてもよく似合ってるわあ」
「あ、恐縮です……っ」
笑みを零しながら店内を見て回る初老の女性に内心どきどきしつつ、紬は笑顔で接客を続けていた。
紬がこの店に立つようになって一か月が経つ。
最初こそ知識も経験も乏しい紬の接客はぎこちなく粗も目立ったが、最近はすっかりそれも収まった。もともと社会人経験がないわけじゃなかったし、この店独自の習わしは先にお勤めの先輩にみっちり仕込まれている。
お香に関する細かな知識こそいまだ足りないものの、紬は勉強が嫌いなほうではない。勤務終了後も時間を見つけては香の勉強に勤しんだかいもあり、日に日にその足りない部分も補えつつあった。
「実は、勤務先の事務所で前々から香を焚く習慣があるのよね。それで私自身、香に興味を持っちゃって。最近、家で瞑想の時間を取るようにしているんだけど、それにお香なんてぴったりじゃないかと思ってねえ」
「ありがとうございます。瞑想の時間に用いるのでしたら、直接火を点けて燻らせる、スティックやコーンタイプがおすすめですね。準備も手軽ですし、すぐに香りが広がるタイプもございますよ」
「まあまあ。こんなに種類があるのねえ。どれにしようか迷うわあ」
目を瞬かせる婦人に、紬も笑顔で頷いた。
婦人の反応や視線のむき方を注視しつつ、いくつかを直感で選び取ってもらう。婦人と交わす会話をもとに、選ばれたそれらの効能についても簡単な説明を施していくが、あくまで選びのは客主体が望ましい。
「焚いてみれば、お香本来の香りがよりわかると思います。宜しければ、実際に香りを聞いていかれませんか」
「香りを『聞く』?『聞く』と言うの?」
「はい。お香の道たる香道では、香りのことは『嗅ぐ』ではなく『聞く』というのだそうです」
「香りを聞く……なんだか素敵ねえ」
その感想は、紬が初めて知ったときにも抱いた感想だった。
もともと香道が伝えられた中国では、「嗅ぐ」と「聞く」は同義語だったらしい。そして香りを聞く──いわゆる「聞香(もんこう)」という言葉がこの国に渡り、現代の香道で守られて続けているのである。
「お香って不思議よねえ。香りがいいのも勿論だけど、事務所で焚くようになってから、働くみんなも訪れるお客さまも、今まで以上にいきいきするようでね」
「わかります。私も、お香の香りに魅せられた一人なんです」
婦人が選び取ったお香を丁寧に包装していく中、紬は店内に静かに佇む掛け軸に視線を向けた。
端正に認められたそれには、「香の十徳(じっとく)」という題ともに十の四文字熟語が並べられている。
「そちらの掛け軸に記された香の十徳は、お香の本質を記したとされるものです。例えば『感覚が研ぎ澄まされる』、『心身を清浄にす』、『忙しいときにも心を和ませる』など……室町時代に一休さんが日本へ伝えたとされるものですが、現代でも色褪せない考えですね。きっとお客さまの安らぎの時間も、より素敵に彩ってくれると思います」
「ふふ。あなたと話しているだけでも、そんな十徳があるような気がしてきたわ」
ありがとう、また来るわ。
どこか嬉しそうに笑みを浮かべながら、婦人は店を後にした。店先まで見送り深く頭を下げていた紬に、「紬さん」と声がかかる。
「お疲れさま。今のお客さん、とても嬉しそうな顔で帰られたね」
「紫苑さん」
いつの間にか、紫苑が店先から姿を見せていることに気づいた。
白に近い着流しに若草色の着物をさらりと着こなすその姿は、やはり美しいの一言しかない。首の裏で一本に結われた長い髪が、朝陽を浴びて湖面の光のような瞬きを放っていた。
「今日も朝の見回りご苦労様でした。あれ、ハル先輩も一緒だったんじゃ?」
「ここにいるっ! 新入り、お茶!」
「はいっ、ただいま!」
紫苑の背後からむんと胸を張って現れたのは、人型に姿を変えたハルだった。
ハルは本来、犬に近い見目をしているあやかしだ。人型になった今は紫苑や紬と同様に身丈に見合った着物をまとってはいるが、その姿は小学校低学年といった風体である。
とはいえ紫苑が店を留守にする際には、ハル一人で店番をすることも少なくなかったらしい。新入りの紬にとっては正真正銘、指導賜るべき先輩なのだ。
「こらハル。紬さんを顎で使うんじゃないよ。この人はもう立派な我が店の従業員なんだから」
「それだってオレの必死な鍛錬の賜物だろ。お香の基礎もわからない奴に、一からみっちり指導してやったんだぞ」
「それこれとは話が別だ。そもそも、先輩は後輩を指導する義務がある」
「そもそも、オレは後輩なんていれることを了承した覚えはない」
「ここの店主は俺だよ?」
「ここの経理担当はオレだけど?」
「三人分! お茶、持ってきますね! 私もちょうど、喉が渇いていましたから……!」
穏やかな時に誘うお香を扱う店で、バチバチと火花を散らされたらたまらない。この話はこれで終いというように、紬は奥の台所へと駆けていく。
このやりとりもまた、いつもの恒例行事になりつつあった。
***
「へええ。それじゃあ予想通り、あのスネコスリの餓鬼んちょにしごかれてるのねえ、アンタ」
「スネコスリ、ですか?」
迎えた昼休憩。
小樽運河沿いにある小さなカフェテリアでお昼を一緒にしていた浪子の言葉に、紬は首を傾げた。
「スネコスリは、犬に近しい姿をした妖怪よ。雨の日に歩く人を見つけては、その足にまとわりついて転がせる……っていうのが一般的な伝承ね」
お香を専門に扱うその店は、JR小樽駅から小樽運河へ伸びる中央通りの、ちょうど中間辺りで右折した先の区画に静かに構えている。
開店時間は朝十時。夕刻の十八時に店じまいをするのは、周辺の店舗との足並みを揃えてのことらしい。
「いらっしゃいませ。どうぞゆっくり見ていってください」
「まああ。可愛い売り子さんね。着物もとてもよく似合ってるわあ」
「あ、恐縮です……っ」
笑みを零しながら店内を見て回る初老の女性に内心どきどきしつつ、紬は笑顔で接客を続けていた。
紬がこの店に立つようになって一か月が経つ。
最初こそ知識も経験も乏しい紬の接客はぎこちなく粗も目立ったが、最近はすっかりそれも収まった。もともと社会人経験がないわけじゃなかったし、この店独自の習わしは先にお勤めの先輩にみっちり仕込まれている。
お香に関する細かな知識こそいまだ足りないものの、紬は勉強が嫌いなほうではない。勤務終了後も時間を見つけては香の勉強に勤しんだかいもあり、日に日にその足りない部分も補えつつあった。
「実は、勤務先の事務所で前々から香を焚く習慣があるのよね。それで私自身、香に興味を持っちゃって。最近、家で瞑想の時間を取るようにしているんだけど、それにお香なんてぴったりじゃないかと思ってねえ」
「ありがとうございます。瞑想の時間に用いるのでしたら、直接火を点けて燻らせる、スティックやコーンタイプがおすすめですね。準備も手軽ですし、すぐに香りが広がるタイプもございますよ」
「まあまあ。こんなに種類があるのねえ。どれにしようか迷うわあ」
目を瞬かせる婦人に、紬も笑顔で頷いた。
婦人の反応や視線のむき方を注視しつつ、いくつかを直感で選び取ってもらう。婦人と交わす会話をもとに、選ばれたそれらの効能についても簡単な説明を施していくが、あくまで選びのは客主体が望ましい。
「焚いてみれば、お香本来の香りがよりわかると思います。宜しければ、実際に香りを聞いていかれませんか」
「香りを『聞く』?『聞く』と言うの?」
「はい。お香の道たる香道では、香りのことは『嗅ぐ』ではなく『聞く』というのだそうです」
「香りを聞く……なんだか素敵ねえ」
その感想は、紬が初めて知ったときにも抱いた感想だった。
もともと香道が伝えられた中国では、「嗅ぐ」と「聞く」は同義語だったらしい。そして香りを聞く──いわゆる「聞香(もんこう)」という言葉がこの国に渡り、現代の香道で守られて続けているのである。
「お香って不思議よねえ。香りがいいのも勿論だけど、事務所で焚くようになってから、働くみんなも訪れるお客さまも、今まで以上にいきいきするようでね」
「わかります。私も、お香の香りに魅せられた一人なんです」
婦人が選び取ったお香を丁寧に包装していく中、紬は店内に静かに佇む掛け軸に視線を向けた。
端正に認められたそれには、「香の十徳(じっとく)」という題ともに十の四文字熟語が並べられている。
「そちらの掛け軸に記された香の十徳は、お香の本質を記したとされるものです。例えば『感覚が研ぎ澄まされる』、『心身を清浄にす』、『忙しいときにも心を和ませる』など……室町時代に一休さんが日本へ伝えたとされるものですが、現代でも色褪せない考えですね。きっとお客さまの安らぎの時間も、より素敵に彩ってくれると思います」
「ふふ。あなたと話しているだけでも、そんな十徳があるような気がしてきたわ」
ありがとう、また来るわ。
どこか嬉しそうに笑みを浮かべながら、婦人は店を後にした。店先まで見送り深く頭を下げていた紬に、「紬さん」と声がかかる。
「お疲れさま。今のお客さん、とても嬉しそうな顔で帰られたね」
「紫苑さん」
いつの間にか、紫苑が店先から姿を見せていることに気づいた。
白に近い着流しに若草色の着物をさらりと着こなすその姿は、やはり美しいの一言しかない。首の裏で一本に結われた長い髪が、朝陽を浴びて湖面の光のような瞬きを放っていた。
「今日も朝の見回りご苦労様でした。あれ、ハル先輩も一緒だったんじゃ?」
「ここにいるっ! 新入り、お茶!」
「はいっ、ただいま!」
紫苑の背後からむんと胸を張って現れたのは、人型に姿を変えたハルだった。
ハルは本来、犬に近い見目をしているあやかしだ。人型になった今は紫苑や紬と同様に身丈に見合った着物をまとってはいるが、その姿は小学校低学年といった風体である。
とはいえ紫苑が店を留守にする際には、ハル一人で店番をすることも少なくなかったらしい。新入りの紬にとっては正真正銘、指導賜るべき先輩なのだ。
「こらハル。紬さんを顎で使うんじゃないよ。この人はもう立派な我が店の従業員なんだから」
「それだってオレの必死な鍛錬の賜物だろ。お香の基礎もわからない奴に、一からみっちり指導してやったんだぞ」
「それこれとは話が別だ。そもそも、先輩は後輩を指導する義務がある」
「そもそも、オレは後輩なんていれることを了承した覚えはない」
「ここの店主は俺だよ?」
「ここの経理担当はオレだけど?」
「三人分! お茶、持ってきますね! 私もちょうど、喉が渇いていましたから……!」
穏やかな時に誘うお香を扱う店で、バチバチと火花を散らされたらたまらない。この話はこれで終いというように、紬は奥の台所へと駆けていく。
このやりとりもまた、いつもの恒例行事になりつつあった。
***
「へええ。それじゃあ予想通り、あのスネコスリの餓鬼んちょにしごかれてるのねえ、アンタ」
「スネコスリ、ですか?」
迎えた昼休憩。
小樽運河沿いにある小さなカフェテリアでお昼を一緒にしていた浪子の言葉に、紬は首を傾げた。
「スネコスリは、犬に近しい姿をした妖怪よ。雨の日に歩く人を見つけては、その足にまとわりついて転がせる……っていうのが一般的な伝承ね」
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