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第七章 犯人、誘惑、壊れたもの。
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結局、本なんてまるで読む気になれなかった私は、その日の夜に自分の部屋に戻った。
思い出したように携帯電話の電源を付けてみたのは、翌日の昼。予想はしていたが、尋常じゃないほどの不在着信数と未読メッセージ数が叩きつけられ、私はしばらくどうしたものかと途方にくれた。
「本当にごめん!」
そして、本来要らない心配をかけて責められるはずの私に真っ先に告げられたのは、謝罪の言葉だった。
「あの後、杏姉の後輩に聞いた。俺のせいで、杏姉、仕事を謹慎になったって」
メールに返信を入れた直後に鳴り響いた、薫からの着信。
自室にいると知るや否や信じられないスピードで部屋のインターホンが鳴り、今現在、私と薫はテーブル越しに向き合っている。
「薫のせいじゃないよ」
私は用意したホットミルクに口をつけ、同じ言葉を繰り返していた。
「あれはそもそも、話を切り出す場所を間違えた私の責任だから」
「俺が姫乃との仲を、ちゃんと話し合わないままにしてたから……杏姉を巻き込んだ」
だから、本当にごめん。
薫の実直な言葉に、視界にかかっていた投げやりな霧がゆっくりと溶けていく。
いまだにこちらに向けられたままの黒髪のつむじを見つめながら、私はようやく息をついた。
「それでもね、薫のせいだけじゃないから。私も悪かった。一番悪いのはあの女だと思ってるけどね」
「っ、だけど!」
「いいからほら、顔上げなってば」
ようやく持ち上げられた瞳は弱々しく、心なしか色も赤かった。
「……あの人とは、会えたのか……?」
あの人。そう形容される人物は、一人しか思い至らなかった。
書籍館の場所も薫に聞いたと言っていたな。妙な繋がりが出来てしまったものだ。
「うん。会えたよ」
誘惑に失敗して二度と会えなくなったけどね、というのは、心の中で付け加える。
「その後は?」
そしてこういう時に限って、こいつは本当に勘が鋭い。
「透馬さんと……ちゃんと話、したのかよ?」
返答が出来なかった。口から出る全てが泣き言になってしまいそうだった。
「杏姉」
「っ、……ぅ」
喉に引っかかる言葉の節々が情けなかった。後悔するって、分かっていたはずなのに。
「馬鹿なこと、言っちゃった。私」
「え?」
(杏ちゃんだけは、抱けない)
私自身の滑稽さと愚かさを淀みなく指さした台詞が、頭から離れない。
床に広げていた両手をかき集め、力一杯に拳を作る。それでも身体の内からこみ上げる震えは、どうしても抑え込むことが出来なかった。大きな滴が、堪えきれずに床へ落ちていく様を見た。
「っちょ、な、泣くなって……!」
「二年前から何も学習してないよ。私」
「え?」
「あの時も……ちゃんと言えばよかったのに……っ」
今までの関係が壊れてしまうことが怖かった。だからいつも一定の距離を保って、余裕を崩されないように、傷付かないようにして生きてきた。
本当は、手を伸ばしてほしくてたまらなかったくせに。
「本当はね。二年前のあの時……薫が彼女と別れた前なのか後なのかなんて、どうでも良かったんだ」
見開かれた薫の瞳に、私は弱々しく笑みを返した。私だってそこまで馬鹿じゃない。考え及ばなかったのではなかった。
(浮気、された)
短くその事実を告げられたとき、私は問いかけようとして止めたのだ。
彼女と別れたの? と――。
中途半端な想いの吐露の結果、薫の旅立ちを満足に見送ることも出来なかった。大切な幼馴染みを失って、自分の不甲斐なさが重くのしかかった。
もうこんな思いはしたくない。あの時私は、確かにそう思ったはずなのに。
「どうしていつも、たった一言、伝えられないんだろう」
「杏、姉」
「もう駄目だよ。私……」
きつく瞑ってもなお、瞼の裏から離れない人影。
「透馬に……幻滅されちゃった」
自業自得だ。ずっとずっと、何よりも伝えたい想いがあったはずなのに。代わりに口から出た浅はかな誘いの言葉は、きっと透馬を傷付けた。
「とう、ま……っ」
「杏姉」
「――、え」
ぐるり、と。大きく視界が一回りして、身体が床に横たえられる。
目を白黒させる一方で、私は記憶の中の光景とシンクロするのを感じていた。顔の両脇に押さえつけられた両の手は、無意識に抵抗してもビクともしない。
「か、おる?」
返事はなかった。ただ、真っ直ぐに見下ろされる視線はどう考えても冗談では済まないことだけは分かる。
瞬間、肩が強ばった。
「薫、ちょ……どけて」
「透馬さんに、幻滅されたんだろ」
「!」
改めて突きつけられた言葉に、思わず涙が滲むのを止められなかった。ぎり、と床に縫いつけられた両手に、更に力を込められる。
「薫……もう、これ以上、やめっ」
「透馬さんに幻滅されて、傷付いてんだろ。杏姉」
「っ、そう、言ってるでしょ……!」
「それって――杏姉はまだ、『諦め切れてない』ってことなんじゃねぇの?」
はっと見開いた瞳から、細かな滴が睫を舞った。かち合った薫の瞳が、いつもの馬鹿正直な視線とは違うことに気付く。
「二年前とは、違うだろ」
必死だった。薫もまた、二年前の幻影を見ている。
「二年前だったら……俺は何の考えもなしに杏姉の優しさに甘えてた。杏姉だって、何の抵抗なく俺のことを受け入れてくれた」
「!」
「でも……今はもうお互い、違うだろ?」
震える声。答えを待つ薫が、肯定を望む一方で否定を夢見ていることを、私はすぐに理解した。
「うん」
だって、幼馴染みだから。
「二年前とは……違うよね」
「ああ。違うよな」
「っ、私、ね……」
透馬のことが、好きなんだ。
ようやく外に吐き出した想い。薫は泣きそうな顔をして笑った。ぐにゃりと歪んだ、酷く情けない顔。
私もきっと、同じような顔だっただろうと思う。
思い出したように携帯電話の電源を付けてみたのは、翌日の昼。予想はしていたが、尋常じゃないほどの不在着信数と未読メッセージ数が叩きつけられ、私はしばらくどうしたものかと途方にくれた。
「本当にごめん!」
そして、本来要らない心配をかけて責められるはずの私に真っ先に告げられたのは、謝罪の言葉だった。
「あの後、杏姉の後輩に聞いた。俺のせいで、杏姉、仕事を謹慎になったって」
メールに返信を入れた直後に鳴り響いた、薫からの着信。
自室にいると知るや否や信じられないスピードで部屋のインターホンが鳴り、今現在、私と薫はテーブル越しに向き合っている。
「薫のせいじゃないよ」
私は用意したホットミルクに口をつけ、同じ言葉を繰り返していた。
「あれはそもそも、話を切り出す場所を間違えた私の責任だから」
「俺が姫乃との仲を、ちゃんと話し合わないままにしてたから……杏姉を巻き込んだ」
だから、本当にごめん。
薫の実直な言葉に、視界にかかっていた投げやりな霧がゆっくりと溶けていく。
いまだにこちらに向けられたままの黒髪のつむじを見つめながら、私はようやく息をついた。
「それでもね、薫のせいだけじゃないから。私も悪かった。一番悪いのはあの女だと思ってるけどね」
「っ、だけど!」
「いいからほら、顔上げなってば」
ようやく持ち上げられた瞳は弱々しく、心なしか色も赤かった。
「……あの人とは、会えたのか……?」
あの人。そう形容される人物は、一人しか思い至らなかった。
書籍館の場所も薫に聞いたと言っていたな。妙な繋がりが出来てしまったものだ。
「うん。会えたよ」
誘惑に失敗して二度と会えなくなったけどね、というのは、心の中で付け加える。
「その後は?」
そしてこういう時に限って、こいつは本当に勘が鋭い。
「透馬さんと……ちゃんと話、したのかよ?」
返答が出来なかった。口から出る全てが泣き言になってしまいそうだった。
「杏姉」
「っ、……ぅ」
喉に引っかかる言葉の節々が情けなかった。後悔するって、分かっていたはずなのに。
「馬鹿なこと、言っちゃった。私」
「え?」
(杏ちゃんだけは、抱けない)
私自身の滑稽さと愚かさを淀みなく指さした台詞が、頭から離れない。
床に広げていた両手をかき集め、力一杯に拳を作る。それでも身体の内からこみ上げる震えは、どうしても抑え込むことが出来なかった。大きな滴が、堪えきれずに床へ落ちていく様を見た。
「っちょ、な、泣くなって……!」
「二年前から何も学習してないよ。私」
「え?」
「あの時も……ちゃんと言えばよかったのに……っ」
今までの関係が壊れてしまうことが怖かった。だからいつも一定の距離を保って、余裕を崩されないように、傷付かないようにして生きてきた。
本当は、手を伸ばしてほしくてたまらなかったくせに。
「本当はね。二年前のあの時……薫が彼女と別れた前なのか後なのかなんて、どうでも良かったんだ」
見開かれた薫の瞳に、私は弱々しく笑みを返した。私だってそこまで馬鹿じゃない。考え及ばなかったのではなかった。
(浮気、された)
短くその事実を告げられたとき、私は問いかけようとして止めたのだ。
彼女と別れたの? と――。
中途半端な想いの吐露の結果、薫の旅立ちを満足に見送ることも出来なかった。大切な幼馴染みを失って、自分の不甲斐なさが重くのしかかった。
もうこんな思いはしたくない。あの時私は、確かにそう思ったはずなのに。
「どうしていつも、たった一言、伝えられないんだろう」
「杏、姉」
「もう駄目だよ。私……」
きつく瞑ってもなお、瞼の裏から離れない人影。
「透馬に……幻滅されちゃった」
自業自得だ。ずっとずっと、何よりも伝えたい想いがあったはずなのに。代わりに口から出た浅はかな誘いの言葉は、きっと透馬を傷付けた。
「とう、ま……っ」
「杏姉」
「――、え」
ぐるり、と。大きく視界が一回りして、身体が床に横たえられる。
目を白黒させる一方で、私は記憶の中の光景とシンクロするのを感じていた。顔の両脇に押さえつけられた両の手は、無意識に抵抗してもビクともしない。
「か、おる?」
返事はなかった。ただ、真っ直ぐに見下ろされる視線はどう考えても冗談では済まないことだけは分かる。
瞬間、肩が強ばった。
「薫、ちょ……どけて」
「透馬さんに、幻滅されたんだろ」
「!」
改めて突きつけられた言葉に、思わず涙が滲むのを止められなかった。ぎり、と床に縫いつけられた両手に、更に力を込められる。
「薫……もう、これ以上、やめっ」
「透馬さんに幻滅されて、傷付いてんだろ。杏姉」
「っ、そう、言ってるでしょ……!」
「それって――杏姉はまだ、『諦め切れてない』ってことなんじゃねぇの?」
はっと見開いた瞳から、細かな滴が睫を舞った。かち合った薫の瞳が、いつもの馬鹿正直な視線とは違うことに気付く。
「二年前とは、違うだろ」
必死だった。薫もまた、二年前の幻影を見ている。
「二年前だったら……俺は何の考えもなしに杏姉の優しさに甘えてた。杏姉だって、何の抵抗なく俺のことを受け入れてくれた」
「!」
「でも……今はもうお互い、違うだろ?」
震える声。答えを待つ薫が、肯定を望む一方で否定を夢見ていることを、私はすぐに理解した。
「うん」
だって、幼馴染みだから。
「二年前とは……違うよね」
「ああ。違うよな」
「っ、私、ね……」
透馬のことが、好きなんだ。
ようやく外に吐き出した想い。薫は泣きそうな顔をして笑った。ぐにゃりと歪んだ、酷く情けない顔。
私もきっと、同じような顔だっただろうと思う。
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