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第八章 復帰、失恋、泣き笑い。

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 近い。この場所にきて何度目か分からない言葉を、心の中で呟いた。
「杏! ちょっと聞いてるっ!?」
「はい。聞いてます」
 こんな至近距離からの言葉を、聞き逃すはずもないだろうに。
 付け加えたものなら目の前の子リスがますます激高しかねない一言を、私はひとまず飲み込んだ。
「先週のあの時はあまり根掘り葉掘り聞けなかったけど……何だそれ。何なのそれ!? 杏に手を出した挙げ句、別の女と仲良く夕飯の買い物って! 節操無しにも程があるんじゃないの透馬君って!」
「奈緒、すごく嬉しいんだけどこの店でその雄叫びは営業妨害だから」
「お気にされなくても大丈夫ですよ、杏さん」
 コト、とテーブルに置かれたコーヒーは、私と奈緒と、もうひとり分。
 目の前のソファーに腰を下ろした栄二さんは、盆を傍らに置いてにこりと笑みを湛えていた。
「今日は貸し切りです。奈緒さんにそう承りましたので」
「ちょっと奈緒、栄二さんにまで余計な負担を……!」
「俺はもともと、あいつの身元引受人でしたから」
 何とも言えない沈黙が、「カフェ・ごんざれす」に落ちた。いつもかかっているイージーリスニングのBGMが、今日は鳴りを潜めていることに気付く。
「あいつの不始末はあいつ自身にさせる。それは今までも守らせてきた誓約です。それを反故にしたということならば、すべからく相応の対応を取らなければなりません」
「いや、ですからその、ワガママに振り回したの私の方なんです。今回の事件でも、何度も間一髪のところを助けてもらって……」
 言葉を繋げながら、台詞の陳腐さに我ながら呆れる。これじゃまるで、駄目男に引っかかった挙げ句相手を養護する駄目女だ。それでも口に出来る言葉はそれしかなかった。
 真摯に向き合おうとしてくれる奈緒と、少しの誤魔化しも許さない栄二さん。ふたりの視線に晒された中で、下手な言い訳を残したくはない。
「でも! 杏のことを好きとか言ってたくせに、他に女がいたんでしょ!?」
「あいつが不特定多数の相手がいること自体、初めから分かってたことだから」
 何気ない風に口に出した事実。そんなことすら頭から抜けてしまうほど、私は奴に参っていたのだろうか。自分だけは違うだなんて、滑稽な妄想を本気で。
(俺は杏ちゃんが――マジで好きだって、言ってんのに)
 嘘つき。
 心の中でそんな言葉を吐きつけるのも、そろそろ潮時にしなければ。
「だから、結局自己責任。私が色々間違ったんだよ。ただそれだけ」
「っ、それにしたって、杏に対してのあの態度は絶対に……っ!」
「そのことですが」
 不要な動きひとつせずにコーヒーで喉を潤す栄二さんが、静かに口を開く。
「最近のあいつは、爛れた関係から身を引いていたようです」
「……え」
「あくまで憶測ですが」
 栄二さんが「憶測」程度の情報を振れて回る人間ではないことは私も理解していた。
 それは奈緒も同じだったらしく、テーブルを介して無遠慮に栄二さんに詰め寄る。
「栄二さんはっ、何か聞いてないんですか! 透馬君の気持ちとか恋バナとか恋愛相談とか……!」
「ないですね。我々にそういう会話はありません。奴が話してきても相手にしません」
 鼻が付きそうな距離で迫る奈緒に、栄二さんはさりげなく距離を取った。それに気付く様子もない親友は不服げにソファーに腰を沈める。勢いよく腰掛けたせいで、隣に座る私の身体も反動に揺れた。「ただ」
「あいつは今まで、ただの一度も店の客に手を出すようなことはしなかった」
 告げる栄二さんの瞳は、真っ直ぐにこちらを見据えている。
 言葉に含まれた意図に気付かない私ではない。栄二さんが仕向けてくれる優しさに、私は力なく笑みを浮かべた。
「そうだとしても……アリサさんには、まるで敵う気がしませんから」
 最後にあいつの姿を見て、そろそろ半月近くが経つ。今日このカフェに来たのも奈緒にしぶとく食い下がられたからで、自ら足を向けることはなかった。耐えられないと思った。
 アリサちゃん――そう、奴が呼ぶ声を耳にするだけで、心がひび割れるみたいに痛むのを知っていたから。
「杏さん」
「え?」
「今、アリサ、と言いましたか」
 栄二さんの声色が変わった。
 もしかして栄二さんの知り合いなのだろうか。これ以上の情報を耳に入れたくなくて一瞬躊躇したが、栄二さんの「二度は聞かねぇぞ」的視線に慌てて首を縦に振る。次の瞬間、栄二さんの頭ががくっと下がった。
「栄ちゃん? どうしたの?」
「……『栄ちゃん』はやめろ」
 奈緒の問いかけにすぐさま反応してみせた栄二さんだったが、至極緩慢にその首を上げた。交わされた瞳には、先ほどのような尋問まがいの容赦の無さは消えていた。
「杏さん」
「は……はい」
「会ってやってください。もう一度、あいつに」
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