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第九章 出逢い、別れ、そして出逢う。

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 夏の瑞々しい眩しさが、次第に落ち着きに染まりかける晩夏。
 黄色と朱色の葉が折り重なる道を、私は小さな手紙に導かれるままに歩いていた。
「へへ。まぁこんな小さなスペースだからねっ。明日からスタートだっていうのにいまだ準備が終わってないしっ。そもそもそんな大それたことじゃあないんだけどねっ!」
「奈緒。顔緩んでる」
「うへ。緩んでないですー!」
 浮かれていた。奈緒も、私も。
 札幌の都心を少し外れた雑居ビルの一階に、二週間サイクルで空間を無償提供している、二畳ほどの小さなスペースがあった。聞けば美術部だった奈緒の高校時代の友人が、以前ここで個展を開いたのだという。
(私もね。個展、やってみようと思うんだ)
 唐突に切り出されてから招待状が郵便受けに届くまで、奈緒は詳細を一切明かさなかった。
 明日から開かれる親友の人生初の個展。消印のない招待状を目にした私の胸の躍りようは、きっとこの子は想像もつかないだろう。
「芸術の秋だねぇ」
 個展準備中の建物内を、私はそっと覗き込む。
 二畳スペースというだけあって人が交錯する余裕もない。そのせいか、クリームを塗りたくったような白い壁も、天井であちこちに首を向けているスポットライトも、入り口の真上にある非常灯ですら、作者の想いを凝縮したとびっきりの作品となっている。
 向き合う左右の壁にかけられた奈緒の絵からは、彩り豊かな夢の香りがした。
「どうかな?」
 恐る恐る問いかけてきた奈緒の頭に手を乗せると、私は思い切りかき回した。
「もう、杏っ、いきなりなにすんの!」
「来て良かったよ」
「!」
「来て良かった」
 ぐしゃぐしゃになった奈緒のウェーブヘアが、優しい秋風に揺れた。
 幼さが抜けない透き通るような瞳に、潤み揺れる光が集まる。その光が、私は好きだった。
「呼んでくれてありがとう。頑張ったね。奈緒」
「う、うう、う~……っ」
 ぶんぶんっともげる勢いで首を振る。よしよしと頭を撫でている私は、道の脇に横付けされた一台の車に気付いた。姿を現した人物にぽかんと口を開ける。
「栄二さん……?」
「やっぱり杏さん。どうりで覚えのある声がすると思いました」
 いつも通りの朗らかな笑顔。それでも、カフェ以外では初めてお目にかかった私服姿に、一瞬誰だかわからなかった。
 店主という肩書きのない今の彼は、いつもよりも幾分か若く感じられる。
「栄ちゃん! 丁度いいところにっ!」
 状況を掴みかねている私をよそに、奈緒はまるで当たり前のように栄二さんのもとに駆けていく。そして栄二さんもまた、手慣れた様子で奈緒と二言三言交わしたあと、乗ってきた車から大きな荷物を担ぎだした。慌てて私も手伝いに加わり、ひとまず扉口に慎重に立て掛ける。
「もしかして、これも絵? キャンバス?」
 先ほどまで懐古していた絵とは違う。
 個展スペースの壁一枚をゆうに覆ってしまいそうな巨大キャンバスの登場に、私は目を剥いた。
「ふふ。今回の個展のメインだよ。ここの突き当たりのスペースに、イーゼルで立て掛けるの!」
「ただ、そのメインの作品が完成したところでようやく、この個展会場に搬入する手段がないことに気付いたらしいです」
 栄二さんがにこやかに注釈を入れた。そのさりげなさが、かえって私の目に付く。
「はあ。つまり栄二さんは」
「先日、車を出してくれないかと泣きつかれたので」
「な~お~?」
「ご、ごめんなさい~!」
 人様に迷惑をかけるんじゃないっ、と考えなしのちびっ子を戒める。
 それでも次の瞬間には、「栄ちゃん、本当にありがとう」「はいはい」とのやりとりが交わされていて、私は秋空の美しさに魅せられた振りをした。野暮な口出しはするものではない。
「そういえば杏はぁ、最近透馬君とは会ってるのっ?」
「……」
 もう一度言おう。野暮な口出しをするものではない。
 視線に乗せて伝わることを願ったものの、目の前の好奇の瞳は輝きを失うことはなかった。後ろからぺしっと軽くはたいた栄二さんと、何ともいえない目配せをする。
「余計なことを聞くんじゃない。何度も言ってるだろ、奈緒」
 名前呼び。すかさず笑顔で流す。
「だーって! どうせなら透馬君にも見てほしかったんだもん」
「この絵を?」
 個展スペースの最奥にゆっくりと運ばれた先ほどの絵に、イーゼルの高さと向きを調節し、栄二さんがライトの当たり具合を確認する。息のあった設営作業に呆気に取られていた私に、頬を淡く染めた奈緒が笑顔で振り返る。
「見てっ、杏――……!」
 爽やかな白い布がためらいなく取り除かれ、思わず肩を揺らす。そして現れたキャンバス内の世界に私は感嘆の息を吐いた。
「綺麗」
 引き寄せられる。
 一歩近付くごとに彩りが変わる。絵の中の大気がゆっくりと流れているみたいに。
 秋色めいたアンティーク調の色彩をベースにされた世界。固く芯の強そうな草花が辺りを装う中に、一人の女性が静かに息づいていた。
 長い黒髪が所々で背景にある夕焼けに当てられ黄金色に染まる。大木に寄りかかりながら彼女が凛とした瞳を向けるのは、手元の書籍だ。食い入るように本に魅了された彼女の周りには、己の順番を待つ他の書籍たちが待ちわびている。
 宝石箱のような世界だと、私は思った。
「あのね、杏。その、この子のモデルは――……」
「もっと見たいな」
 目の前の瞳が、大きく見開かれる。
「奈緒の絵を、もっと見たくなったよ」
「杏……」
「これからも見せてくれるんでしょ?」
「っ、うん……!」
 胸に飛び込んできた小さな身体を難なく受け止める。
 時折胸元で鼻をすする親友の温もりに、私はそっと瞳を閉じた。
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