さすがさんと春色の研究

早川史生

文字の大きさ
25 / 25
結び

あとがき――並木栞里

 ブラウスに包まれた背中、肩甲骨の間を、つつつ、と撫でられたような感覚に、つい身じろいだ。実際そうやって触れられたわけではなく、その感覚は、自分の汗が為したこと。


 夏が近づいているのだ。そう思った。


 梅雨はすっかり矢のごとく通りすぎてしまったのか、青い空がまぶしく、じんわりと汗がにじむ日々が続いていた。六月も終わり七月に入るころだから、まあ納得である。これから先さらにこの気温が右肩上がりを続けてゆくことを思うと、つい身体は正直に、クーラーの効いた室内への逃避をはじめようとする。
 そしてその欲に忠実にリリパットの門扉を潜ると、そこから見える奥の席に、見覚えのある背中がいらっしゃった。

「こんにちは」と小人国の主であるおふたりにご挨拶をして、そのまままっすぐ奥へと進んでゆく。最早定位置となったお隣にお邪魔すると、さすがさんの首が傾いだ。

「奇遇ですね」

 とは、すこし白々しいかもしれない。さすがさんに連れてこられたこの場所で、会わない可能性は低いだろう。
 それでも、さすがさんは頷いてくださった。「はい」という声と共に。
 今日のラテアートは、入道雲から覗くラピュタ。入道雲はもちろんだけれど、夏という季節とジブリ作品の縁は深い。それにも、また、夏の気配を感じた。
 わたしはまだ暑さのおかげでカフェラテに手を伸ばせないので、自然、手持無沙汰な状態となった。
 のんびりと、注文したティラミスを待ちながら、思い出話を紐解くことにする。

「なんだか、この数か月、色んなことがありましたね」

 既にタルト・タタンをつついているさすがさんは、口いっぱいに頬張っているせいか、こっくり、頷くだけだった。

「日下部さんの件、覚えていらっしゃいますか」
「はい」

 そう遠くはない過去の記憶である。さすがさんは頷いた。

「わたし、ずうっと違和感があったんです」
「違和感」
「はい。さすがさんが、わたしに相談してきたときのことです」
「……ああ」
「思えば、すこし、さすがさんらしくなかったな、と。わたしの力を借りたい、と相談してきたことも、短冊を無断でコピーして持ち出してきたことも、そうです」

 返事はないけれど、音楽に乗るように、ちいさな頷きを何度も繰り返しているから、わたしは前を向いて、続けた。

「ほんとうは、すべて知っていたんじゃありませんか」
「…………」
「そしておそらく、それを店長もご存知だったのではないですか」

 日下部さんに嘘を吐いたとき、あのメモをわざわざ使う必要はなかった。そもそもお客さんの情報が入ったメモである。普通なら見せられないものをトリックに使ったのは、それが、普通じゃないことを知っていたからだ。
 ここで一度言葉に迷った。さすがさんは、「続けて」と言った。

「ふたりがそれを知った上で黙っていたのは、日下部さんのためでもあります。やはり日下部さんに解いてほしいという気持ちは、真尋さんのことを想っても、日下部さんのことを想っても生まれますから。だけど、」

 そして、それは同時に、その場にいた人物への、密かな挑戦でもあった。


「……だけど、今回はそれ以外に、もうひとり、解かせたい人物がいたのではありませんか」


 答えはない。じっと目の前の壁を睨んでいた視線を、わたしは一度テーブルに落とした。

「自意識過剰だったらすみません」
「いえ」
「でも、それは、それはひょっとして、」

 隣を向くと、いつの間に見つめていたのだろう、さすがさんのお顔とご対面した。
 長い前髪で顔の半分以上が隠れているのは相も変わらず。

 けれど、わたしのその言葉を聞いたとき、さすがさんはたしかに、笑っていた。

「……ひみつ」
「えっ?」
「ひみつ。です」

 そう言って、さすがさんはわたしの頭に手を置く。やさしく撫でるわけでもないのに、伝わってくる温もりがやさしくて、またそれが、「よくできました」とおっしゃっているようで。

 ずるいな、と、そう思った。


 ◇◇◇


 リリパットを出ると、途端に太陽のレーザービームを浴びて影へと隠れたくなった。
 さすがさんの隣に影を見出し、そちらへとお邪魔する。

「もうすっかり夏ですね」
「はい」

 後ろ髪引かれる古書店を曲がり、先を行こうとすると、影がなくなってしまい立ち止まる。さすがさんが店先のラックを冷かしていたので、わたしもそのラックを覗き込んだ。どれでも百円、を謳ったメモが、強い風に今にも吹き飛ばされてしまいそうだった。
 季節のせいか、文庫の中でも、「夏」とついた本に、つい目が引き寄せられてしまう。


「わたし、好きなんだけど、嫌いなんです」


 ぽろり、と、そんな言葉が出た。


「なにが?」
「夏が」

 さすがさんは、一瞬だけ間を置いて、

「なんで」
「……なんででしょう、ねえ」

 わたしは、答えの見つからないまま、古書の背を撫でる。

「無条件に、さみしくなるからでしょうか」


 夏には、ほかのどの季節にも勝る、さみしさ、というものがある。
 他の季節に比べれば、誰かと過ごす時間のほうが多いとさえ感じるのに、どうしてか夏が来ると、すこしため息を吐きたくなってしまうのだ。季節の終わりを感じることなんてほとんどないのに、夏の終わりを、はじまりの時点で見据えてしまう。
 古書店の軒下から離れると、また太陽の猛攻にあてられた。じりじり照る太陽の下で、額に伝う汗を、手の甲で拭う。
 さすがに行儀が悪いかしら、とさすがさんを見上げると、さすがさんも、Tシャツの襟元をたくし上げている。どっちもどっちか。

 車が通り過ぎ、残響だけが残ったとき、さすがさんが言った。

「……夏」
「え?」
「たのしい、思い出、……多いんすね。夏に」
「……それも謎解きですか?」

 さすがさんは、緩慢にワカメを揺らした。
 これはノーの意味だろう。続きを待つ。


「さみしい、って、おもうのは、比較できるたのしさとか、うれしさ、知ってるから」
「……え?」
「そう、おもっただけ」


 じんわり。熱さが身体を侵食し、そのまま喉から込み上げてきそうだった。


「おれは、そういうの、よくわかんないんで」
「……はい」
「そういうの、しってる並木さんは、ものしりだって、おもいます」

 初夏の風が、わたしのスカートを狙いにかかる。春風から守りきったと思いきやすぐこれだ。わたしはスカートを押さえるために下を向いて、その風で熱を冷ましてゆく。



 ときめいた、とか、好きだ、とか、たぶん、そういう感情ではない。

 ただ、ひたすらに純粋に、うれしくてしにそうだ、と思った。



 わたしが足を止めると、その足音の変化を聞き取って、一歩先で立ち止まってくれる。振り返ってくれる。要領が悪く傷ついたら、それを言葉で癒し、言わないことで、最良の経験で、埋め立ててくれる。


 このひとは、自分以外のひとに対して、とても誠実で、とてもやさしい。
 それこそが、さすがさんの、ちいさなことに気づく慧眼なのだ。


 わたしは風が落ち着くのを待って、眉間から目もとにかけて流れた汗を拭い、顔を上げた。立ち止まってくれている、さすがさんの背に追いつく。

「それじゃあ、来年、楽しみにしましょう」
「来年?」
「はい」

 ふしぎそうなさすがさんの横に並んで、わたしは自分の影を踏もうと、また一歩足を出す。どうあっても届かない影は、それでいて、いつもわたしの傍に寄りそっていてくれるから、誰かさんに似ているな、と感じた。


「さすがさんが、来年ね、ああ、夏って好きだけどさみしいな、なんでだろうな、って思えちゃうぐらい、楽しい思い出。今年は、作っちゃいましょう。一緒に」


 春はあけぼの、と枕草子で清少納言は語ったけれど、まさしく春は〈あけぼの〉なのだ。雪解けとともにいのちが生まれ、春風に導かれるように、新たな運命に出会う。運命に出会えば、きっと、そこにはたしかな変化がある。わたしが、さすがさんに出会ったように。


 夏が終わっても、秋を生き、冬を楽しみ、春を笑えば、またすぐに、さみしくていとしい、夏が来る。
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

白苑後宮の薬膳女官

絹乃
キャラ文芸
白苑(はくえん)後宮には、先代の薬膳女官が侍女に毒を盛ったという疑惑が今も残っていた。先代は瑞雪(ルイシュエ)の叔母である。叔母の濡れ衣を晴らすため、瑞雪は偽名を使い新たな薬膳女官として働いていた。 ある日、幼帝は瑞雪に勅命を下した。「病弱な皇后候補の少女を薬膳で救え」と。瑞雪の相棒となるのは、幼帝の護衛である寡黙な武官、星宇(シンユィ)。だが、元気を取り戻しはじめた少女が毒に倒れる。再び薬膳女官への疑いが向けられる中、瑞雪は星宇の揺るぎない信頼を支えに、後宮に渦巻く陰謀へ踏み込んでいく。 薬膳と毒が導く真相、叔母にかけられた冤罪の影。 静かに心を近づける薬膳女官と武官が紡ぐ、後宮ミステリー。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------