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夕暮れモーメント
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しおりを挟む事態は、演奏が始まってすぐのこと、
私たち3人が舞台そでにはけて、パイプ椅子に座って演奏を聞き入っているときに起こった。
じゃあ、いったい何が起きたんだ、って話だけれど。
一人のおじいちゃんが、サックスの演奏が始まったとき、おもむろに会場から出ていってしまったのだ。
車椅子のその人は、すごく移動しづらそうにしながらも、
それでもかたくなに、振り向こうともしないで、なかば強引に立ち去って行った。
その物音に気づいてそっちを振り返る何人かの人たち。
どの人も、しばらくはそっちを目で追っていたけれど、またすぐに舞台の方へ目を移しサックスの音色に聞き入っていた。
別に大した事じゃない、ってみんなは言うかもしれないけれど。
どうしてもその背中から目を離すことができない、私。
「高島さん、あの方、どうしたんですか」
「そうねえ」
曖昧な返事を返す、高島さん。
高島さんの意識もすっかりサックスの音色の方に行ってしまっているみたいだ。
「私、ちょっと、様子見てきます」
「いいよ」
「いや、でも」
「行かなくていいから」
「どうしてですか?」
「聴くか聞かないかは個人の自由だもの」
た、確かに…。
でも。
さっきの光景が頭に焼き付いてしまって、
気を取り直して再び聴き始めた演奏も、どこか耳に入っていかない。
なんか引っ掛かる、あの人の表情。
演奏中に出ていくことを何とも思わないほど、興味がなさそうってほどでもなく。
だからといって、最後までとりあえず聴いていってやろう、という心遣いも余裕もない。
演奏の途中だったが、私は何も言わずに席から立ち上がった。
「ひ、ひなたちゃん」
高島さんは驚いたような顔をしたが、演奏中なのであまり大きい声を出せない。
「すみません!やっぱり私、気になるんで話だけ聞いてきます!!」
廊下に出ると、もうおじいちゃんの姿は見えなかった。
相手は車椅子だとはいえ、出てくるのに少し手間取ったから。
さっきまでの熱気のこもった会場にいたからか、廊下の冷えた空気がやけに顔にしみる。
確かあのおじいちゃんは勝三さんとかいう名前だったはずだ。
部屋の表札をひとつひとつ確認しながら、小走りに廊下をうろつき回る。
そもそも、私はこの人の部屋を訪ねていって、何を話そうとしているんだろう。
そんなことを考えながらも、それ以上は深く考えないようにしたがっている自分もいた。
「あっ」
引き扉の横にかかった、木でできた手作りの表札を見上げる。
静かな廊下には不似合いなくらい、雨風に吹きさらされたような年季の入りようのものだった。
ほんとうに、私はこの人の部屋を訪ねていって、何を話そうというのだろうか。
そんな考えがもう一度頭をよぎったけれど、
ここで引き返すのは今さら遅い。
深呼吸をして、ドアをノックする____
ような手つきをしかけて、また手を下ろしてしまった。
待って。
本当に私は何がしたいの?
だけど、聞いてみたい。
尋ねてみたい。
バン!!!!!
…と、勢いよくドアを開けると同時に、背中を向けたまま、きっ、と鋭い視線をこちらに向ける一人の車椅子の男性。
その視線の冷たさ鋭さに一瞬、体がこわばって身動きができなくなる。
その人の口がわずかに動く。
「ノックは」
「あ…失礼しました」
そこでノックを忘れていたことに初めて気がついた。
「ちょっと、頭が回らなくて」
「で、用件は」
「あの、」
勝三さんは相変わらず背中を向けたまま、私に鋭い視線を投げかけ続ける。
「どうして、コンサート見なかったんですか」
勝三さんは答えない。
ごくり、と私が唾を飲み込む音だけが部屋に響きわたる。
「言いたいことはそれだけか」
「はい…そうです」
「…聴くか聞かないかは個人の自由だ」
少し間を置いてから、勝三さんは高島さんと同じことを言った。
「でも、」
「若い者には聴くか聴かないかを選ぶ権利なんていうものは当然のようにあるのにな、
こういう所に入った途端に強制になるというのは、おかしくないか?」
「は、はあ」
話が入り組んできているようで、頭に上手く落とし込んでいけない、私。
だけど、これは少しいけるかもしれない。
思ったよりもたくさん言葉を話してくれている。
私の話を聞いてもらえる、チャンスだ。
「それだけだ。帰れ」
「え?」
「だから、帰れ」
「質問には答えたぞ。か、え、れ!」
繰り返される帰れの3文字が、耳に重く響いた。
やっぱり何か私が間違っていたのだろうか。
職場に上手く馴染めない不満を、いらない正義感で解消しようとでも思ってしまっただけなのだろうか。
回れ右した私は、とぼとぼと歩いていきドアを開けた。
取っ手を握る手に力が入らなくて、入って来るときよりもずっと重く感じた。
「失礼致しました…」
ドアの隙間から、うっすらとサックスの音色が聴こえる。
「サックスは、好きか」
振り返ると、勝三さんは体ごとこちらに向
いていて、真っ直ぐな眼差しで私を見ていた。
「いや、別に、好きというわけでは」
「わしも嫌いだ。なら、わかるだろう。
きみは、好きでもないコンサートを聴きに行ったことはないだろう」
「はい」
「しかし、こんな施設に入ってみたらどうだ。興味のない音楽を聴かされる。やったことも無いちまちました工作をやらされる。若かったころは選べたことから何まで、今となっては全部強制だ。
老いることとはそんなことなのか」
「だけど、…それは少し違うと思います。
世間にある、…私たち、若者、が行くか、行かないかを選べるような催し物とかはそれに参加しよう、と思った人たちだけのために最初から準備してるじゃないですか。
…だけど、今回のは別です。
私たちの先輩たちが、ここのホームにいるみんなのために、考えてくれているんです。演奏してくれてる方も、たぶん、みんなに聴いてもらえることを想定して演奏してくださってるはずです。
だから、それを前提にして頑張ってくれている人たちを前に
『聴かない』、
というのはちょっと、失礼なんじゃないかと…」
言い終わってから気づいたのは、失礼、とバッサリ言いきってしまったことへの後悔と申し訳の無さ。
ドアの取っ手に手をかけたまま床を見つめていると、中途半端に開いたドアの隙間から拍手が聴こえてくる。
「きみは演者さん側になったことがあるのか」
「ないです」
開けたドアの隙間から流れ込み続ける冷気が骨にまで凍みてきた。
ドアをとりあえず閉めてもいいだろうか。
いやいや、閉めると部屋から出づらくなるから開け放しにしておこう…
「そうか、意外だな。なったことがないのか。これだけ気持ち入れて喋るから経験者だと思ったのだが。…違うのかい?」
「…ごめんなさい。嘘つきました」
勝三さんは少し驚いた顔をする。
思えばさっきよりも表情が柔らかくなっているような。
しかし驚いたのは私の方だ。
「どうしてわかったんですか?私が演者だった、って」
「だった、のか。そうか過去形なんだな」
勝三さんは口元を緩めて笑った。
「年の功だ。…閉めてくれ」
「あ、ドアですか?すみません、寒かったですよね」
サックスのクリスマスソングは聴こえなくなった。
「先ほどはきつい言い方してすみませんでした。
勝三さんの言う通りです。演者側だった時、聴いてもらえないことも多々ありまして。だから、ちょっと感情的になってしまったかもしれないです」
「もうそれはやめてしまったのか」
「…はい。もうだいぶ前にやめちゃいました。…けっこう頑張ってたんですけど」
「もう悔いはないのか」
「もう大丈夫です。今の仕事、けっこう合ってるんで」
「そうか?本当に」
「え?それどういうことですか?私、この仕事向いてないってことですか?」
「違う。本当にもう大丈夫なのか、ってことだ」
一瞬、立っている足もとがぐらつくような感覚がした。
「わしはまだまだ大丈夫だなんて思えないぞ」
「え?」
「わしはな、もうサックスなんか辞めてずっと経つが全然諦めがつかない。今でもまた始めたら、と思ってしまう。未練たらたらだ」
…え?
「サックス、やられてたんですか?」
勝三さんは目を閉じて何度も何度もうなずいた。
「ああ、そうだ」
そこから、勝三さんはぽつりぽつりと、自身のサックスの思い出を語り始めた。
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