天才暗号解読者有島の大正期心霊事件簿 暗号事件解読社へようこそ

藤永御幸

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序章

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 大正十四年。夜の銀座の一角にある居酒屋は、賑わいを見せていた。
 酒が入り意気揚々と語り合う人々の中で、異様な雰囲気を纏う青年が一人──いや、二人いた。
「な? 意味が分からないだろう? こんなものが送られてくるなんて、やはり俺は呪われてしまったのだろうか……」
 店の奥にある席に座る青年、仲井なかいはしょんぼりと肩を落とした。その頬はアルコールに染まって赤く、いかにも酔っぱらいのたどたどしい口調だ。
「いや、そうでもないんじゃないかな……」
 仲井と向かい合って座っているもう一人の青年、柳原やなぎはらは苦笑いした。
 明るい空気の周囲とは違って、どんよりとした暗い空気の二人の間にあるのは、仲井がこんなもの、と称した一枚の浅葱色の着物の端切れ。
 しかし、ただの布切れではない。
 墨で文字が記されているのだ。
 記されていたのは、女性の筆致での、ランダムなひらがなの羅列。
 百字ほど書かれているが、縦に読んでも横に読んでも全く意味が分からない。
 試しに一行を読んでみると、こんな感じだ。
『じうよんがたようにかできぬもふ』
 柳原は訳の分からなさに引きつる口角を誤魔化すように、グラスの酒をあおった。
 冷たいビールが喉を通る感覚が心地いい。
 そしてグラスを置くと、俯くばかりの仲井に声をかけた。
「しかし君、どうしてこんな変なものを受け取る羽目になったんだ? しかも、何故呪いという話になるのか。失恋記録を十二にのばして頭をおかしくしたか?」
 柳原の辛辣な問いかけに、仲井はがばりと顔を上げた。
「どうしてかは分からない。ただ、一ヶ月前に、とある良家に、家の商いの関係で趣いたんだ。なかなか厳格な家だったが、ご主人と仲良くなれてね。ご主人とお嬢さんに『浅葱色の着物の娘』という浮世絵を見せていただいたんだよ。ご主人が言うには、恋敵わず死んだ女性が描いたものだというんだ。いかにも、だろう? そして、この着物の端切れが郵便受けに入っていたのは……その一週間後なんだ。あと、俺の失恋記録は十三回だ」
「なるほど」
 柳原は仲井の訂正は気にも留めず、テーブルの上の布に目を落とす。『浅葱色の着物』の娘の絵を見た後に届いた、送り人の名の無い『浅葱色の着物』の端切れ。
 確かに、不気味ではある。
「同じ色の布が届くなんて、偶然ではないはずだ。だから俺はもしかしたら絵の娘の霊に憑りつかれてしまい、言葉にならないほどの恨みつらみが送られてきたのではないかと……」
 仲井は大げさに肩をすぼめた。話が進むにつれて、酔いがさらに深まっている気がするような動作だ。
 仲井は手のひらを祈るように組み、天井を見上げる。
「ああ、この呪いが解ける人がここに居たらなあ。会計くらい、いくらでも奢るのに……」
 仲井が悲劇調にそうぼやいた瞬間だった。
「──本当かい?」
 隣の席から、ぬるりとした、流れるような動作で男が現れた。
 細身で小柄。猫のような童顔で、柳原たちと年齢は変わらないか、少し下に見える。
 詰襟のシャツに袴と暗緑色の羽織。革のブーツがハイカラだ。
 男はテーブルの横に立つと、にやりと微笑み、布切れを指さした。
「この呪い『もどき』を解明すれば、奢ってくれる。確かだね?」
「そ、そうだけど……『もどき』ってどういうことだ?」
 男の突然の乱入と呪いを否定する言葉に、仲井は動揺して聞き直す。
 そんな仲井の反応を、男は予想通りと言わんばかりに自信気に胸を張った。
「そのままの意味だ。この布は呪いなどではないよ。馬鹿馬鹿しい」
「「馬鹿馬鹿しい……」」
 柳原と仲井は、思わずシンクロしながら唖然とした。まさかいきなり乱入された男にここまで言われるとは。
 仲井は思わず、テーブルから身を乗り出した。
「じゃ、じゃあ、この布は何だっていうんだ? まさか悪戯とか……」
「違うね。もっと意味のあるものさ。ほら、解明してあげるから貸してみ給え」
 男に促されるままに仲井が布を手渡すと、男は羽織のポケットに入っていた小さなツールボックスから小型のハサミを取り出して布の方へと向けた。
「ちょ、ちょっと!」
 仲井が制止しようとしたが、男は構わずハサミを入れ、布を何本ものリボン状に、細長く切っていった。
 桜の花弁のように、布がひらひらと儚く、男の手からテーブルに滑り落ちていく。
 最早呆然とする柳原と仲井を、男は楽しそうに見下ろした。
「なんてことを! これで更に霊の恨みを買ったりしたら……!」
 仲井は堪らず怒りの声をあげたが、男はにやりと口角を更に上げた。
「霊の恨みか。これまた阿呆の発想だ。いいかい、君たち若造には分からないかもしれないが、これはれっきとした、人の手によって作られた『暗号』なのさ」
 男は、仲井の顔前に右手の人差し指をピンと立てる。
「若造って……」
「失礼だな、私は君たちより年上だ。敬うといい。では話を戻そう」
 男はリボン状になった布のなかから一枚を手に取り、しげしげと見つめてから、何かを理解したように頷いた。
「さあ、手を貸しなさい」
 ハサミを持ったままの男の言葉に、仲井は震えあがった。
「ま、まさか切る気じゃ……」
「おっと失礼」男は悪びれた様子はなくハサミをツールボックスに戻し、ポケットにしまった。「これはね、リボンのように細長い紙を棒に巻き付けて、横向きに読むことで文章が浮かび上がる、スキュタレー暗号というものだ。実践してみせよう。ほら」
 男は、おずおずと差し出された仲井の手から薬指を掴むと、そこに布をくるくると巻き付けた。
 すると、どうだろうか。
 ランダムだった文字列が、文章として意味を持ち始めたのだ。

『きゅうにこんな てがみをかいて すみません』

「おお……!」
 仲井は思わず感嘆した。柳原も、手品のような文章の出現に目を見開く。
 男は巻き付けていた布を解くと、別の一枚を拾い上げて、また同様に仲井の指に巻き付ける。
「私の推察だが──これはきっと君が訪れた良家のお嬢さんが書いたものだろう。見せた絵の娘と同じ浅葱色の着物を用いることで、君に『悪戯や偶然ではない』と思わせるために。内容は、恋文といったところかな」
 男の言う通りだった。
 次々と巻きつけられていく紙が紡ぎ出していく文たちは、差出人が仲井に一目惚れし、また会いたいのだという甘酸っぱい気持ちを表していった。
「男性の指のサイズに合わせた、というのもなかなか粋な演出だ。さながら婚約指輪のようではないか」
 くつくつと笑う男に、柳原は問いかけた。
「でも、なんで暗号なんか使って想いを伝える必要があったんですか? 普通に手紙を書けばいいんじゃ……」
「ふむ、君も服装から良家の者だと思っていたが、令嬢の事情には鈍いようだね。あのね、令嬢がそんなほいほい男に文を出すことが許されると思うかい? しかも話を聞くに、厳格な家ときた。間違いなく普通に出せば探りが入るよ。下手をすれば便箋と封筒を買った時点で見抜かれかねない」
 男はやれやれといった風に肩をすくめた。
「だからこそ、その令嬢は暗号と着物の布を用いて想いを伝えたのさ。これなら便箋や封筒を買わなくていいし、もし見つかっても『余った布で習字の練習をしていた』といった出まかせが通じる」
 差出人の名前がなかったのはそのためか。二人は納得する。
「しかし、よく暗号だと分かりましたね」
 仲井が訊けば、男は「当然だろう」と言った。
「こんなもの、隣席からチラリと見ただけでも初歩的な暗号だと気が付く。それにね──この世に幽霊や心霊なぞ存在しないのさ」
 男は意味深に息を吐いたが、すぐに表情をニヤリとした笑みに戻し、懐から一枚の名刺を取り出した。
「もしまた同じような暗号に──いや、『暗号事件』に出くわしたなら、私を頼ると良い。報酬次第ではこの秀才が力を貸してやろう。では、さらばだ」
 男はテーブルに名詞と伝票を置いていくと、出口の方へ去っていった。
 二人が名刺を覗き込むと、そこにはこう書かれていた。

『暗号事件解読社 社長 有島幸杜ありしまゆきと
 男、いや、有島が置いていった名刺を、柳原は興味深く見つめる。
 もしかしたらこの日常に、あの破天荒な天才なら驚きの変化をもたらしてくれるかもしれない。
 柳原は、宝物の地図を見つけたように、笑った。
「ゲッ! あの人、一番高いつまみ頼んでやがる!」
 仲井の嘆きをどこか遠くに聞きながら、柳原は名刺を懐にしまい、自分の分の伝票を有島の分に紛れ込ませて先に店を出た。
「はは、新しい恋が始まる浮かれ人には、相応しい料金だよ」
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